ブラン・ニュー・デイ②

「……その二回繰り返す言い方やめなさい。今朝はイライラしてるの」


 棘のある言葉のあと、充血した赤い目がぎょろりとマスターを捉えた。


「コーヒー」


「おい、お前、大丈夫なのか、それ」


 マスターも鼻白んだ様子だった。


「耳が聞こえなくなった? 聞こえないのね」


 レアが吐き捨てる。


「コーヒー! 聞こえた?」


 何もかもがおかしかった。

 リーンズィとマスターが訝しんで視線を交している間に、いつもはリーンズィの正面に座るレアが、今日ばかりはライトブラウンの髪の少女と肩を並べるようにして、わざわざ腰を下ろした。殆ど密着するような距離感にリーンズィは身じろぎする。

 布の向こう側にある体熱まではっきり知覚出来る。

 だが、同時に胸に去来するのは不安な感情だ。熱病に浮かされたように小刻みに震える小さな体。漂ってくる甘い香りは、意識して嗅がなくとも分かるほど濃厚で、相当な負荷に蓄積を想起させる。

 いずれも不死病患者としては不吉な兆候である。


「まだ聞こえないの? コーヒー! 四度目を言わせたら首刎ねて、出来の悪いヘルメットを……蹴っ飛ばすわよ」


 怒鳴り声にも覇気が無い。マスターは怯えると言うよりは、ようやく発見された遭難者に水を用意してやる救急隊員のような迅速さで、コーヒーをマグカップに注ぎ始めた。

 普段なら悪態の一つも返しているところだが、マスターもそれどころではないと判断したらしい。

 それほどまでにレアは憔悴して見えた。

 永遠に朽ちぬことを約束された不死病患者だというのに、目の下には濃い隈が刻まれ、白髪赤目という、ある種神秘的な雰囲気さえ纏っている年若い美貌が、すっかり台無しになってしまっている。呼吸は絶え絶えで、フライトジャケット風ミリタリードレスの露出した首筋は汗でぐっしょりと濡れ、リーンズィが一瞬だけ視界に捉えた限りでは、ブーツの淵が赤く滲んで、湯気を立てていた。

 服の下で出血しているのだ。生命管制に不具合が出て臓器が不全を起こしている証拠だった。


「レアせんぱい……?」


 控えめな声で尋ねるリーンズィに、レアは体を押し当てて、見つめているのか睨み付けているのか判断が付かない調子で顔を覗き込んできた。

 顔が近い。ごく短い付き合いでしかないが、現在のレアが異常なのは明白だ。

 疵の無い紅玉のごとき燃える赤目は、リーンズィにある連想をさせた。

 飢えた獣じみた輝きだ。


「……何よ?」


「何ではなく……」いつになく顔が近いので、リーンズィは少しどぎまぎした。「具合が悪そうに見える」


「悪いわよ。ええ、とびきり悪いわ」


「レア、今日はもう、一日、完全に休んだらどうだ? ここのところ根を詰めすぎだ」


 マスターが取り置きのウサギレリーフ入りマグカップをテーブルに置くと、白髪赤目の少女は乱暴にそれをひったくって、あっという間に飲み干してしまった。

 スチーム・ヘッドにとって熱湯を飲むという自傷行為は極めて難しい。平然とそれを行った。唖然とする二人を尻目に、レアは肩で息をしながら「コーヒー」と繰り返す。「早くして」


「ああ、いくらでも注いでやる。でもお前、本当におかしいぞ。今日は休め。悪いことは言わん」


「休むわよ。ええ、そりゃ休むわよ。これから休むのよ、見て分からない?」がりがり、と頭を搔く。「寝ないで目標のクヌーズオーエに張り付いてたのよ。一晩中ね!」


「レアせんぱいは幹部だと聞いている。何でも出来る人なのだと。それなのに、そんなに苦しくなる任務が?」


「何が幹部よ。何でも出来る?! 冗談じゃないわ! 知ってるのよ、知ってるのよ! 私を馬鹿にして! 能なしだって思ってるくせに。そうよ、私には全部が難しいの! でも、あなたに私の何が分かるの?! 何を分かってくれるの……?!」


 レアは駄々っ子のように大声を出し、懇願するような顔でリーンズィの素肌の腕に縋り付いてきた。

 リーンズィはただただ、対応に困った。レアは小さな体を反らし、呆としながらライトブラウンの髪の少女に視線を注いでいた。

 それから我に返り、体を離して、軽く息を整えて、何度か頭を振り、気まずそうにリーンズィから目を逸らした。

 汗に濡れた髪が、紅潮した頬にはらりと張り付いた。


「昨日は……ヘカトンケイルから提供された統計から、『首斬り兎』の使いそうなルートを幾つか割り出して、迷彩を完全稼動させた状態で、一晩張り込んでたの。成果無しだから、何もしてなかったのと同じよ……情けないったら……」


「あの大雨の中でか?」


 マスターは呆れ声を出して、新しく注いだコーヒーを置いた。


「いくらお前でも、変動する環境で何時間も完全迷彩を保つのは無茶だ」


「値打ちが無いの! 値打ちが無いの、私には。これくらいしないと……いらないって言われてしまうわ」コーヒーを一気に煽り、咳き込みながらマグカップをテーブルに叩き付ける。「コーヒー!」


「その前に胃に物を入れろ。被害妄想が強くなりすぎだ、お前は良くやってる」


「あなたの言葉なんていらないわよ……!」


「俺だけじゃない。皆言ってるさ。お前は良くやってる。ちょっとは気分を落ち着けろ」


 マスターは歩み寄り、レアの背中を強く叩いた。


「ほら、お前の好物だろ。疲れてるだろうと思って奮発して用意した。奢りだ。たんと食え」


 たっぷりと苺ジャムの塗りつけられた食パンの切れ端は、朝の弱い光の中で宝石のようにきらきらと輝いていた。レアの瞳と同じ色の輝き。

 レアはマスターを見た。

 そして視線を落とした。

 躊躇いがちに口に運び、苦労して喉の奥に押し込む。


「味がしないわ」レアは呻いた。「……折角のジャムなのに」


「口にジャムが付いてる」


 リーンズィがレアの頬にそっと手を添えた。幽かに白髪の少女の熱い体が震え、じろりとリーンズィを睨めつけたが、手を払うことはしない。


「……放っておけば分解されるわ」


 返事をせず、ライトブラウンの髪の少女は心配そうな顔のまま身を屈め、レアの肩に手を当て、ミラーズがするようにして、レアの頬に付いたジャムをなめ取った。


「ん……」レアがくすぐったそうにした。「り、リーンズィ……?」


「お、おう、お前……何してるんだ?」


 マスターが動揺していた。


「……? スヴィトスラーフ聖歌隊ではこのようにするのが常識だと聞いている」


 不思議そうな顔をしたのはリーンズィの方だ。

 驚いて硬直しているマスターと、目を潤ませて沈黙しているレアを交互に見る。


「常識ではない……?」


「あー、レーゲント特有のやつな……ああ、それは昔の話で、もう常識じゃない。あのマザー・キジールとかいうやつから教わったんだろうが、今はおおっぴらにそういうことをやるのは控えよう、ということになってるんだ。分かるか。親しい間柄で、しかも人目に付かない場所でしかやらないんだ」


「私とレアせんぱいは、親しい間柄では?」リーンズィは不服そうに尋ねた。「マスターしかいないから人目もないと言える」


「だから俺は人目だよ! お前とレアはしらんが、俺とお前はそこまで親しくないし、人目がないとは言えないって!」


「リーンズィ……」


 不意に、白髪の少女、レアが、消え入りそうな声を出した。


「これから、時間ある?」


 探るように、リーンズィの腕に手指を絡めてくる。

 リーンズィは不可解そうに白髪の少女を見つめた。

 紅玉の瞳は霞がかっていて、朝の光を取り込んで燃え上がるようだった。


「時間は、あまりない。コルトから市街地調査の研修を受ける予定だ」


 コルトの名前が出た瞬間に、如何にも不愉快そうな熱がレアの顔貌を横切った。

 あるいは躊躇、逡巡の類だったのかも知れない。

 しかしそれも激情の渦に飲まれて消えた。

 レアはフライトジャケットの胸でリーンズィの腕を抱え込むようにしてさらに身を近づけ、首を抱き寄せ、息が掛かる位置にまで顔を近付けた。


「その前に、その前に……少しだけでも、時間が取れない?」


「お、おい……落ち着け、レア、落ち着け」


 狼狽したマスターが声を潜め、どうしたものかとぎこちない身振りをする。


「自分が何してるか分かってるか?」


 赤目の少女には何も聞こえていないようだった。

 あどけない美貌を熱に任せて、ただリーンズィにだけ視線を注いでいる。


「レアせんぱい?」

 翡翠色の瞳は、煌々と輝く紅の瞳に吸い寄せられて離せない。

「何を?」


「ねぇ、ねぇ。リーンズィ……一緒に、めちゃくちゃになっちゃおう」


 これはマズい、とマスターが口走った。


「待て待て、レア、正気に……!」


「――あら、ここがリーンズィがお気に入りの、例の移動販売所かしら」


 穏やかな、それでいて場の空気を鋭く打つような。

 誰しもが意識を集中せざるを得ない、美しい声がした。

 出し抜けにリーンズィの意識はレアから引き剥がされ、そちらへと向けられた。


 勲章のような装飾をあちこちにぶら下げた、丈の合っていない行進聖詠服。

 天使の和毛のような緩やかな癖のある金髪。

 退廃と超然が組み合わさった、未完成ながらも完璧な美貌の少女。

 慈母を想起させる甘やかな微笑に、冷たい氷雪の欠片を取り込んだような翠の瞳が彩りを添える。


「ロジーのいる勇士の館の帰りしなに寄ってみたら、思わぬ場面に出くわしたものね。リーンズィ、おはようございます。お邪魔だったかしら?」


「……っ! 誰?!」


 ライトブラウンの髪の少女を見つめていたレアが忌々しげに眉を潜め、突き刺すような殺伐とした視線を、その闖入者へと投げかけた。


「リーンズィは、この子は、私と話をしてる最中なんだ……け、ど……」


 そして、見る間に青ざめた。

 絶望的な悲壮感さえ漂わせながら、リーンズィを抱き寄せる手を、あえなく解いてしまった。


「……嘘でしょ。ど、どうして? どうしてこんなところに……」


「初めまして、で良いのでしょうか。そういうことにして欲しいですか? ええと……リーンズィは貴女をレア様とお呼びしているのでしたっけ。いつも話を聞いていますよ。とても頼れるせんぱいがいると。思った以上に可愛らしい人なので驚きました。まさかこんな姿をしていらっしゃるなんて。ふふ。せんぱい?」


「や、やめ……」白髪の少女は息を詰まらせて立ち上がった。「やめて……言わないで……」


「あら、どうしたのでしょう。おかしなことを言うのね、この女の子は」


 黄金の髪をした少女は密やかに笑う。頭の上に載せたベレー帽を降ろし、勲章の付いた胸に抱き、短いスカートの裾を軽く摘んで、片足をすらりと後ろに引き、洗練された所作でもう片方の足を僅かに曲げた。


「お初にお目に掛かります。私はアルファⅡモナルキアのエージェントが一人、スヴィトスラーフ聖歌隊の元大主教にして、軍団長ファデルの同盟者……エージェント・ミラーズです」


 それから、虚空に手を向けて、「こちらは、アルファⅡモナルキア統合支援AIのユイシス。そのアバターです。私と同じ外見をしているのは彼女の趣味。ふふ、私も彼女には逆らえないの。何もかも知り尽くされていて……」何も無い空間に口づけをして、レアに翡翠色の視線をぶつける。

 たっぷりと間を置いてから、「ああ、アルファⅡモナルキアが取得したデータは全て彼女が管理しています。私も閲覧可能なの。この言葉だけで、あなたに伝わると良いのですが」と囁くような声音で言った。


 レアは、言葉も無い。

 知らぬ素振りで、金髪の少女の唇が言葉を紡ぐ。


「ふふふ。私の大切なリーンズィが、いつもお世話になっているようですね。私もお話に加えてもらえますか? 赤い目をしたウサギさん?」


 軽やかで透明な声には、しかし、どうしようもないほど嗜虐的な色が滲んでいた。

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