ブラン・ニュー・デイ①
モーニングセット移動販売所の簡易座席に腰掛けた少女は、ライトブラウンの髪を触りながら、湿り気を帯びた空気の匂いを楽しんでいた。
誰の目ともリンクしていない状態でこのような朝焼けを見るのは初めてだった。
昼と夜との中間点。
生と死の流転する黄昏の色。
濃紺の空が大洋ならば、千切れ飛ぶ淡い雲はさながら海に散らばった鯨の死骸だ。仄暗い海に、朝の光を浴びた雲が鮮血の色に燃えている。攻略拠点の静かな朝で、朝焼けだけが鮮烈だった。
何故このような色なのか。幼いリーンズィはふわりと思考を巡らせる。
どうも、夜のうち、雨が降っていたらしい。
明け方までの時間を半自動で過ごした少女の意識に、『昨夜』という時間帯の記憶は殆どない。何度か我に返った覚えはあるのだが、防音防弾の分厚い窓から、薄手のカーテンを透かして、幽かに雨の足音が漏れ聞こえてきた。そんな印象が、朧気に残っているだけだ。
「ここまで冷えるクヌーズオーエは初めてだろ。寒くないか?」
魔法瓶からマグカップにコーヒーを移しながらマスター。
リーンズィは微笑を浮かべながら「ああ。寒冷な気候には慣れている。気遣いに感謝する。体調は良好だ」と応え、沈黙した。
「どうした?」
「……これは私らしい言葉ではない」
嫌そうに少女は呟いた。
「またそれか。確かにちょっと報告文みたいだが、お前の言葉なのは間違いないだろ」
「ううん。ヴォイドみたいだからダメだ。うーん……よし。ありがとう。少しも寒くない。とても気分が良い。……こうかな?」
小さく首を傾げながら、行儀良く両手でマグカップを受取るリーンズィに、マスターは「お前が『らしい』と思うんなら、『らしい』んじゃないか?」と応えた。
「冷たいようだが、自己連続性について意見が出来るほど、俺はお前のこと知らないからな。ヴァローナっぽいかどうかなら、まぁ、辛うじて分かるが。あいつも何回かここにコーヒー飲みに来たし。毎回格好付けてブラック頼んで、この世の終わりみたいな顔で飲んでた。でもお前のことは何も分からん」
「それもそうか。……これも違う。うーん……」顎に手を当てて、悩ましく声を上げる。「『それも、そう』。こう?」
だから分からんよ、とマスターは肩を竦める。
リーンズィはコーヒーの液面を吹いて冷ましながら、こうだな、こうね、こう? と何度も頷いた。
「そこまで差があるとは思わんけどな」
「私にとっては、とても重要な差異だ。ヴォイドとは違う」
音を立てないように気をつけながらコーヒーを啜る。味の善し悪しは全く判断出来なかったが、苦く温かな液体が胃の腑に浸みて、インバネスコートに包まれた繊細な少女の肉体を、芯から優しく温める。端正な美貌に、呆けた表情を編んで、ほう、と白い息を吐く。
この瞬間だけは、少なくともリーンズィの気分は爽快だった。
不滅であることを約束された、永遠の生命に疲れ果てた肉体に、これほど晴れやかな感情は、どれぐらい生じるものなのだろうか?
良い景色だ、とライトブラウンの髪をした少女は純粋に思う。
静けさを湛えた空の深さと、篝火の如く燃え上がる雲。立ち並ぶ建造物の陰影が、神話の時代から投げかけられた巨人の影のようにひっそりと佇んでおり、雨上がりの夜明けは、雨垂れの音に彩られて賑やかで、それでいて普段よりもいっそうの静寂に満ちている。
全身をしとどに濡らした不死病患者が、雨のことなど聞いたことも無いといった顔で、ふらふらと歩き回っている。路上のあちこちに水溜まりが出来ており、路上のあちらこちらで空を映し、冷たい風の御手がそよぎ、雲が流れて形を変えるのに合わせ、言祝がれた海の囁きに似た細波のごとく、穏やかに輝いている。時折凄絶な赤に染まる水鏡は、天空に座す偉大な何者かの威光に満ちた楽園への扉か、あるいは焦熱の地獄に続くおぞましい孔か。そして空の高みには点のような影、三々五々、群れて飛ぶ渡り鳥たち。南西へ飛んでいく。
彼らはどこから来たのだろう。どこへ行くのだろう。
この鏡像の如き時間の回廊の中に、目指すべき場所でも存在するのだろうか。
生体脳が奇妙なほど冴えているのは、空気が冷えて、身体が引き締められるせいだろう、とリーンズィは推測する。
翡翠色の瞳が揺れる。
視線を彷徨わせて、見たいものを見ようとする。
あの白髪赤目の、先輩を自称する小さなスチーム・ヘッドを探す。
今朝はまだ、姿を見かけていない。
不機嫌そうに少しだけ背を丸めて歩く大人びた横顔を脳裏に描きながら、彼女がいつもそうするように、一気にコーヒーを煽ろうとした。
熱くて噎せてしまった。コーヒーがマグカップから零れた。
「おいおい、安い飲み物じゃないんだ。そりゃ宝石をぶちまけたのと同じだ」
口元を伝う茶色い液体は、不死病の恒常性に拒絶され、体表から見る間に蒸発していく。それでも熱までも瞬時に消し去れるわけではないし、横隔膜の痙攣もすぐには治まらない。
「けほ……」少女は呻いた。「あつい……」
「覚えとけ、熱湯を飲むのはちょっとした自傷行為だ。そしてスチーム・ヘッドが自傷するのは困難だ。肉体が反射的に抵抗してしまうからな。一気飲みするのには、それなりに覚悟っていうか、専用のマインドセットが必要だ。お前みたいな、自我が確立して間もない機体には無理だ。ガキは真似しない方が良い」
「大人の真似をしたくなるのが、子供というもの……ミラーズもそう言っていた」
快復して、リーンズィは平然と口を拭う。
レアの正体は依然として知れないが、相当に強力なスチーム・ヘッドなのは確かで、それも非常に親切な心があるらしい。
初めてカタストロフ・シフトを稼動させたときなどは、安否を問うメールをアルファⅡモナルキアへ何十通も送ってきたらしいし、次の日には外部からどう見えたかを纏めたレポートを紙で手渡してくれた。
ミラーズもファデルも彼女について曖昧なことしか言わなかったが、いずれにせよ彼女への評価は高いものだ。
リーンズィに彼女を疑う余地は無く、事前の印象もあってレアのことを尊敬すべき人物と認識した。そんな彼女から立ち振る舞いを学習しようというのが、現在のリーンズィの腹積りだ。
「学習して、成長していかなければ」
ファデル軍団長の他、マスターやレアには、リーンズィがエージェントとして完全に独立したことを伝えている。
エージェント・リーンズィは調停防疫局の全く新しい人員として正式登録されたようだが、まだ試験運用中の身だ。全権を委託されている以上、問題を起こしても抹消されるような事態にはならないが、無から創造されたに等しい人格にどの程度の任務がこなせるのか、リーンズィ自身にすら疑問だった。
それを確かめるために、軍団長たちは一定期間全てのネットワークから切断した状態で様子を見ることに決めた。
今のところ、然程の支障は出ていない。
「それにしても、レア先輩はこの苦痛に慣れているのか。大人なのだな」
「かもしれないな、自分自身を傷つけても何とも思わないやつを大人って呼ぶならな」
やはりせんぱいは凄い人だ、と呟きながら、リーンズィは攻略拠点の風景を眺めた。それからレアを名乗る尊大なスチーム・ヘッドに、少なからず好意を抱いている自分を改めて認識する。
大方のところ、理由は自己分析している。
レアの背格好がミラーズに似ているせいだ。
そのことは本人に言わないように、とミラーズに釘を刺されているが、どうであれレアのことをリーンズィは好いていた。
レアのことを考えているだけで、荒涼とした景色も輝いて見えた。
少女は残りのコーヒーを少しずつ飲みながら、初めての雨上がりの朝を楽しんだ。マスターもそれを知ってか、言葉を掛けてこない。
いずれにせよ、リーンズィの気分は、非常に良かった。
コーヒーを飲み終えてもレアは来なかった。
心細くなってきた少女は、持ってきたウサギのぬいぐるみを抱いて、特に意味もなく弄び、ふわふわの手触りで心を慰める。
「どうする、今朝も何か食べるか? メニューはジャムと食パンの切れっ端、あとは鶏肉のスープだが」
「レアせんぱいに合わせる。そうだマスター、今日は代金を持ってきたぞ、持ってきたの」
リーンズィはふと思い出し、革製の雑嚢からコーラの瓶を引き抜いて、テーブルに載せた。
「よく分からないが、それなりに価値があると聞いている。これで足りるか?」
「まぁレアの後輩相手に金を取る気はないがよ……おっ、まさか瓶コーラか!?」
マスターは突如興奮し、キッチンカーの簡易厨房から離れた。
わざわざテーブルまでやってきて瓶を持ち上げた。
朱色の雲に、黒い液体の充填された硝子瓶を翳し、ヘルメットの下にある両目で凝視する。
ポリ製のラベルは古びて退色を始めていたが、コーラ瓶を抱えたシロクマの絵柄がはっきりと分かる程度に状態が良い。
製造メーカーのシンボルと蛍光塗料で描かれた月だけが鮮やかさを保っている。
「こいつはルミナス社の医療用ポーラ・コーラだ。しかも、たぶん賞味期限が切れてない! 上物ものも上物だぞ! どんな市場でも俺のコーヒー三杯分ぐらいの値段はする。朝食には足りんが」
「えっ、足りないのか?! 足りないの!?」
足りる流れだったのでリーンズィは戸惑った。
「適正な価格ならな。はー、こりゃ良いな。滅多にお目にかかれないやつだ。アルファⅡモナルキアはファデルが頭を務めてる互助組合と契約したと聞いたが、さてはその報酬だな?」
「うん、そうらしい……ファデルが、何かの手付けでくれたと聞いている」
伝聞形なのは、ヴォイドが勝手に組んだ契約だったからだ。
意思決定の主体を無視して手続きを進めた、アルファⅡモナルキア・ヴォイドを僭称する不審で不躾なエージェントについて思うところはあるものの、リーンズィも、ファデルのことは信用出来ると考えている。
間違った選択では無いはずだと、事後的には納得したが、それでもヴォイドは気にくわない。
「マスター。私はファデルやロジーから、これ一本あれば大抵何とでも交換出来ると聞いた……のだが……のだけど、もしかして、そうではない?」
「いいや、そうだよ。あいつらは正しい。俺の出すモーニングが『大抵』のうちに入らないってだけだ」
「薄々勘付いていたが、マスターの品は高級品なのだな……」
「もちろん、世界がこうなる前なら炊き出しで出されるのと変わらん食事だ。だが今は誰も飯なんて食わなくて良い。無理して食べるやつの方が稀で、仕入れも調理も移動販売もやってるのは俺ぐらいだ。だから、人類文化継承連帯のルールに従って、商売として値段を付けるならこうなる」
リーンズィはしょんぼりとして頷いた。特に異論は無い。
ここ三日ほど、クヌーズオーエ解放軍の攻略拠点をうろついた結果として、消耗品ほど値が張るという事実をリーンズィは改めて確認していた。それでも需要が高い商品、例えば弾薬や質の悪い肌着などは、一定水準で価格が安定している。そういう協定が結ばれているのだそうだ。
しかし、それ以外はほとんど青天井だった。瑞々しい生花や、必ずしも必要でない煌びやかな服飾品。そして何らかの理由で供給がないせいで、需要がなくても相対的に貴重な商品。
こういった物品は、大抵法外な値段で取引されている。
それらよりも高い商品というのは、あとは不朽結晶連続体で構成された物品ぐらいしか無い。
「朝食まで含めると、もう一本ぐらい必要……?」
ネットワークから切り離され、アカウントに接続出来ない今、クヌーズオーエで使える電子トークンでの支払いは出来ない。お小遣いとして渡されている瓶コーラは限られている。背の高い少女が尚もしょんぼりしながら雑嚢を探ろうとするのを、マスターが手で制した。
「一本で十分だ。俺、好きなんだよな、ポーラ・コーラ。いいや、誰だって大好きだ。市場に流れたら確保するのがまず難しいし、転売されていく過程で四倍ぐらいの値段につり上がることも珍しくない。ファデルの贈答品なら質も100%間違いないし、競り落としたりする手間ナシって考えると、まぁ朝食までセットで交換するのは妥当だ。最大現に値が上がったケースを想定すれば、もう一食分タダにしても良い」
「そんなに、この……コーラとかいう甘いコーヒーは人気なのか?」
「いや甘いコーヒーって何だよ。コーラはコーラだよ。生きてたころ、一回ぐらい飲んでないか?」
「生前というものが私には無い。色も黒いし、コーラというのはシュワシュワして甘いコーヒーではないのか? ないの?」
「だからコーラはコーラだって。コーヒーとは全然違う。炭酸で、しかも無闇に甘いのが良いんだよな。生きてた頃の味がするっていうか。俺の生きてた世界にポーラ・コーラなんて商品は無かったが。攻略拠点でははっきり言って最高級の嗜好品の一つだよ。お前だって飲むと懐かしく……ならないか。生前の記憶とかは存在しないんだったな」
少女はこっくりと頷いた。
リーンズィはアルファⅡモナルキアの擬似人格、エージェント・アルファⅡをコピーし、幾重にも加工を重ね、本来は備わっていない様々な要素を付け足す形で産まれた人格だ。人格のバックグラウンドどころかスチーム・ヘッドとして成立するまでの過程すらも曖昧だった。
生きていた頃の知識など当然備わっていない。
文字通り、存在しないのだから。
コーヒーは好んで飲むが、それもミラーズやレアの趣味を真似しているに過ぎない。嗜好品に関しては、人格として歴史の浅いリーンズィにはまだ理解できない僚機だ。
このぬいぐるみには愛着が湧き始めたけれど、と考えつつ、ふわふわもこもこの若干焦げたウサギを弄ぶ。これも高級品らしい。気前良くくれたウンドワート卿もやはり良い人なのでは?
どうであれ、興味が無いせいで、瓶コーラの人気は、実感としては理解出来ない。ただ、ひたすら嬉しそうにしているマスターを見ていると、どれほど素晴らしいものとされているのかは伝わってきた。
自然と、その瓶コーラでも支払いには足りないというマスターのモーニングセットに意識が移る。
「マスターのモーニングセットはそのレベルで、つまり瓶コーラと同じぐらいの価値がある、ということになるのだな? なるの? 人気が無いという点を除いて」
「そうだな。一つだけアドバイスすると、その最後の方の言葉も除いた方が良いぜ」
「事実では?」リーンズィは周囲を見渡した。「レア先輩と私以外お客がいない」
「たまにいるさ。半年に一人ぐらいだが。大抵は値段聞いて引き返すけど」
「そんなに高いものをレア先輩は毎日……」
どれほどの財力なのだろう、とリーンズィは感心する。
譲渡しに来たときのファデルすらそれなりに名残惜しそうにしていた瓶コーラを、ほとんど毎日消費しているなんて。
それとも、解放軍の中心的幹部となると、これぐらいは手に入るものなのだろうか。
「毎日……? ああ、勘違いしてるな」
マスターは簡易厨房に戻り、瓶コーラの王冠を早速指で弾き飛ばして、ヘルメットの口元から瓶を差し入れて、軽く煽った。かぁー、と満足げに息を吐く。
「この強炭酸、たまらんなぁ……久々だ。そうだな、簡単に言うと、あいつにとっての瓶コーラが、俺の移動販売所なんだよ」
「つまり?」
「あいつもたまにしか来ない」
「そういうものなのか?」リーンズィは言い直した。「……そういうものなの?」
「俺の扱ってる食材も仕入れは難しいし、クソ高い値段で売らざるを得ない。だからあいつだって胃に物を落とすのは、よっぽどタフな仕事をして、生体CPUである
「そう都合良く、マスターの店と任務とのタイミングが合う?」
「逆、逆。俺が合わせてるのさ。あいつは常連だし、クヌーズオーエ攻略でも古い付き合いだ。多少は優遇もするのさ。連絡があって、商品の在庫があったら、俺は必ずこのルートを通るようにしてる」
「そういうもの?」
「持ちつ持たれつだ」
というか、他に常連客はいるのだろうか。
この問いを胸にしまう程度の分別はリーンズィにも芽生えつつあった。
「……レアせんぱい、今日は遅い」
瞳をくりくりと動かしながら、勇士の館がある方向に視線を巡らせる。
もうすぐ完璧に朝と言って良い時間帯になる。夜間行動を控えるスチーム・ヘッドたちも、まばらに寝床を這い出す頃だろう。
「そうだなぁ。お前には可哀相だが、今日はもう来ないのかもな。お前もあいつに会いたくて来てるんだろ? あいつのこと好きか?」
「分からない。可愛くて美人だとは思う」
リーンズィは即答した。マスターは、そうか、と微妙な返事をした。
「日が昇ってから来る可能性は?」目を凝らし、前方に影が見えないか努力しながら、リーンズィが問いかける。「お昼からゆっくり来るのでは?」
「そりゃ無いな。あいつは、まぁお前には気軽に外見を晒してるが、本当は注目されるのが大の苦手で……」
「……私のいないところで私のプライベートは話をするのは感心しないわね」
背後から気怠そうなレアの声がした。
いつも急に現れるが、普段とは真逆の方向だ。
リーンズィは飛び上がって席を立ち、潔癖そうな顔に、淡く、それでいて人なつこい笑みを浮かべた。
「レアせんぱい!」
それから、不安げな声を出した。
「どうかしたのか? ……どうかしたの?」
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