最終全権代理人

 

 指が触れる。

 その瞬間に、世界に色彩が戻った。


「リーンズィ?」と金色の髪をした少女は驚いたように声を上げた。


 やがてその退廃と聖性とを併せ持つ不思議な美貌が綻んで、純粋な歓喜の色に染まった。


「リーンズィ……ああ、リーンズィ!」


「ミラーズ! ミラー……あ……う、あっ……」


 心臓が止まったような違和感にリーンズィは目を瞬かせた。

 全身からどっと汗が噴き出して、急に呼吸が荒くなった。

 見当識が失われ、立っているのが難しくなる。倒れ込みそうになった少女の体を、手甲を膝の上から慌ててどかせて生身のミラーズが、優しく抱き留めた。

 だが体格に相応の差がある。二人でベッドに倒れ込み、インバネスコートの胸に押し潰されたミラーズは「むぎゅ」とくすぐったそうな声を出した。

 そしてそのまま、小さな手指をリーンズィの頬に添えて、撫で回した。


「私は……帰ってこられた……のか?」


「大丈夫ですか、リーンズィ。きっと、きっと怖い思いをしたのでしょう。ごめんなさい、私もアルファⅡやユイシスを止められなかったのです。まだ意思決定の主体がエージェント・アルファⅡに設定されていたから。本当に、本当にあなたが無事で良かった」


「ぶ、無事なの、か? ミラーズ……ミラーズ、ミラーズ! 良かった……また、会うことが出来た。君と話せた……」少女は涙目で咳き込んだ。「ミラーズ。酷い世界を……酷い景色を見てきた。みんな朽ちていた。花も木も街も、人も……君も。ミラーズ。君は私の知っているミラーズなのか?」


 震えながらリーンズィは身を起こす。潔癖そうな少女の美貌は、疲弊と疑心の無表情に固まって、深紅に変色した瞳からは血のように涙が零れていた。

 ゆるく波打つ金髪をした少女は、リーンズィを抱き寄せて、指先で涙の熱を拭った。

 そして軽く口づけをして、二人の何もかもを確かめ合うように抱擁した。


「……私はあなたの知っているミラーズでしょう?」


 微笑むミラーズに、リーンズィは嗚咽しながら覆い被さり、もう一度だけ唇を重ねた。灰になった彼女の姿が脳裏を過ぎり、壊れ物でも扱うかのようにそっと抱きしめた。背中をさすられながら、花水木の香りを吸い込んで、震える声で囁く。


「良かった。無事で、良かった。ミラーズ。……君だけを目指して帰ってきたんだ。ミラーズ。君がいなければ、私は帰ってこられなかったんだ。私自身が帰る場所を望まないと、帰れなかったんだ……」


「興味深い話だ。詳しい報告を聞きたい」


 背後で男の声がした。

 リーンズィは全身から熱が引いたのを感じた。

 一瞬で本物の無表情になり、ミラーズから体を離して、並んでベッドに腰掛ける。

 アルファⅡモナルキアが、科学博物館から迷い出た宇宙飛行士の亡霊のような異様な雰囲気を放って寝室の入り口に立っていた。

 二連二対の不朽結晶製レンズを納めた黒いバイザーの鏡面世界には、上気した顔のまま、困ったようにアルファⅡを見るミラーズと、平静な顔色で、いかにも不機嫌そうに眉根を顰めたリーンズィが映っている。精巧な美しい人形が肩を寄せ合っているかのような光景。


 思い立って、リーンズィはブーツの紐を緩め始めた。

 そして目前の機体に対して、澄んだ声で言葉を投げかける。


「私はアルファⅡモナルキア、エージェント・アルファⅡ、リーンズィだ。意思決定の主体は私のはず。君は、私では無い。誰の許可を得て発言している、アルファⅡモナルキア。いや、何と呼ぶべきか」


「ヴォイドだ。私がそう名付けた」


「そうか。リーンズィではないのか? 私も君もリーンズィだったはずだが」


 丁寧に、丁寧に、落ち着いてブーツを脱ぐ。


「君は新しいエージェントとして正式に認定された。リーンズィは、ミラーズから君へ与えられた名称だ。私には使えない。以後、私はヴォイドとして活動する。私と君の差異は、今回の試行で確定した。そして、君の能力は、君、リーンズィにしか備わっておらず、行使が出来ない。名実ともに君は独立した機体となったのだ。ひとまずは帰還を、そして君の完成を祝福しよう。最も新しいアルファⅡモナルキア……アルファⅡモナルキア・リーンズィ」


「そうか」


 大鴉の少女は、脱いだブーツを思い切りヘルメットの兵士に向かって投げた。

 兵士は避けることも防御することもなかった。

 黒い鏡面世界いっぱいにブーツが広がって、すぐに、がつん、と準不朽素材の重く硬い爪先がヘルメットを打ち付けた。


『攻撃が命中しました』とユイシスの無機質なアナウンス。


「なるほど。攻撃が有効な状態なのか。私と君……両方とも私だが、どうやらある程度同等の権限を有しているらしい。あとユイシス、他人事のようだが、君も彼の共犯者だと思う」


『否定します。当機は反対の立場を表明していましたが、機能上制止が不可能な立場だったため、やむを得ず協力していたにすぎません。美少女を異空間に追放する計画に賛成する理由がありません』


「だが、必要性はあったわけだ」


 背の高い少女は、素足をぶらぶらとさせながら吐き捨てた。

 排出された水分や血尿の類が足を伝って床に落ち、煙を上げて消える。


『肯定。その必要性がありました』


 ユイシスは嘲るような声音で応じた。

 愉快な喋り方では無かったが、随分と久しぶりにユイシスの声を聞いたような気がして安心したのも事実だ。

 リーンズィは溜息だけ返した。

 しかし、ミラーズは剣呑の雰囲気を深刻に受け止めて、どうしたものか悩んでいる様子だった。


「あのね、リーンズィ、気持ちは分かるけど、ヴォイドだって色々と考えて……」


「大丈夫。これ以上はしない」


 リーンズィはミラーズに微笑み、立ち上がった。

 素足で踏むカーペットの床は心地よい。

 灰の世界の不確かさとは大違いだ。

 アルファⅡモナルキアと相対し、自分よりも背の高い、巨躯の兵士を、リーンズィは怯まず睨めつけた。


「これだけで済ませるのは、ミラーズの気持ちを考慮してだ、ヴォイド。意思決定の主体であるべき私を無視して、危険な実験を強行した君について、私には報告を要求する権利がある」


「要求する権利は無い」


 ヘルメットの兵士、今やリーンズィとは別の機体となったヴォイドは言った。


「サブエージェント、エコーヘッド・リーンズィ。君は自分の立場を理解していない」


「意思決定の主体は、あくまでも君だというのだな」


「そうではない。君にあるのは、


「……何を言っている」少女は潔癖そうな美貌を戸惑いに曇らせる。「アルファⅡモナルキアの正式な装備を身につけているのはそちらだ。意思決定の最終的な権限は君に存在しているはずだ」


 ヘルメットの兵士はしばし沈黙した。


「情報を共有しよう、アルファⅡモナルキア・リーンズィ。君の認識を修正する。確かにアルファⅡモナルキアの装備を所有してるのは私だ。使用権も私に存在する。エコーヘッドである君も私の所有物だ。そして私は――調


 今度はリーンズィが沈黙する羽目になった。


「……待ってほしい。君の言では、私はサブエージェントなのだろう。君の下位に位置する……」


「そうだ。サブエージェントとして、立場を留保される存在として、ありとあらゆる権限で身分を固定した」ヘルメットの兵士は頷いた。「その君に、。アルファⅡモナルキア・リーンズィとは、調停防疫局の方針とは、私の意思決定をエージェントだ」


 黒い鏡面世界で、ライトブラウンの髪の少女は、理解しがたいと言った顔でヘルメットの兵士を見つめていた。

 これまではヘルメットの兵士こそが異邦から迷い込んだ場違いな存在だと思えていたのに、ガンメタリックの世界の外に位置するはずの自分こそが、致命的な阻害に晒されている。

 ヴォイドを名乗るアルファⅡモナルキアの内側を覗くことは出来ない。

 暗い光に満たされたバイザーの向こう側、世界の外側にいるのは、今やリーンズィ自身だった。


「奇妙なことを言っているぞ。カーボン・コピーでしか無いサブエージェントに全権を再委託するのか……? 自分で何を言っているのか分かるか、ヴォイドわたし


「君はコピーなどではない。私とは歴然と異なる個体だ。無断での人格操作や身体改造、記憶の編纂については、非を認める。話し合いをする余裕も無かった。私には、君を外部化するまで独自に発言する権限すら無かったからだ」


「そんなこと……権限は常に君にあった」


「権限は任務遂行を前提としてアクティベートされるものだ。任務達成が不可能であると確定した状況で、調停防疫局のエージェントは自発的に活動出来ない。私は<時の欠片に触れた者>と最初に接触した際、この分岐宇宙の詳細情報の提供を受けた。精査した結果、調停防疫局のエージェントが活動する余地は存在しないと結論した。だがエージェントとして、無意味だと分かっていたとしても、活動を止めることは出来ない。その程度の意地はあると、私はそう望んだ。それが私の全てだった」


 少女はヘルメットの兵士の言葉に首を傾げる。


「でも、私は明確に朽ち果てた世界を走り抜けて、ここに帰ってきた。君にも同じことが出来るはずだ……」


「それこそが君の特性なのだ。君が現状への最後の一手なのだ。規則に縛られず活動可能な不正規工作員。私には、例えば誰かにそれほど強い愛着感情を抱いて、そのために活動するような行為は赦されていない。君にはそれが可能だ。君こそが、私が、アルファⅡモナルキアが、任務達成条件の全喪失による自己連続性消滅を回避するために作成したエコーヘッド……調停防疫局の最新にして最後のエージェント」


 それこそが、『アルファⅡモナルキア・リーンズィ』だった。

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