カタストロフ・シフト③
明白なのは、どのように扱っても、ドアノブを掴むことは出来なかったと言うことだ。踏みしめてきた道路が陥没しなかったのは、それらが重厚な灰の積層体であり、また一瞬の接触で反発力を得ることが出来たからだ。
大前提として、この灰の世界では、元々容積や質量があるものでなければ、物理的に干渉不可能なのだ。
文字通り、手が届く場所に帰る家があると言うのに、入ることが許されていない。
リーンズィは後退りしながら、怖気と戦って道筋を探す。
混乱した少女の意識では、どこにも進むべき場所は見つけられない。
ユイシスがいれば進入経路を示してくれるのだろうか。助けてくれない統合支援AIなんて知るものか、とリーンズィは拗ねた気持ちで彼女のことを頭から追い出した。
そもそも声さえ届かない。
その事実に思い当たり、赤く変色を始めたリーンズィの瞳がじわりと涙でにじむ。
分からない。分からない。分からない。自分の頭で考える時間が惜しい。皮肉なことに、意思疎通らしきものが可能なのは、背後から圧力をかけてくる<時の欠片に触れた者>ぐらいしかいない。
拙い思考で希望を紡ぎ、目をぎゅっと瞑って少女は座り込んだ。
それから自分自身を強く抱きしめた。
意を決して問いかける。
「き、君は……私を追放したと言った。クヌーズオーエを<修道者>の暴威から遠ざけるために、私を移動させた。私の認識は正しいだろうか」
『肯定する。あの悪性変異体を許容できる時間枝は極めて少ない。我々はクヌーズオーエ外縁の時間枝の剪定を未だ決定していない。それ故に、我々は君をこの地へ移動させた』
この世界で、自分が出来ることは無い。
もう、何一つ、無い。
ならば、この怪物に直接懇願するしか無い。
「それは偽られた反応だ! 私は変異なんて起こしていない! 追放なんて必要ないんだ。元の世界に返してほしい。私をミラーズたちがいた、私の世界へ! どうか、元の世界へ返して……!」
『我々は抗議を受け付けない』
返答は即座で、冷淡だった。
『我々は、この時間節の安全の確保という問題につき、最も蓋然性の高い未来を選択する。これは我々の総体としての判断であり、決定であり、無謬である。履行された処置は、取り消されない』
「だから、違う! そんなことをしたって、意味はない、意味はないんだ。だって、私はまだ……」
リーンズィは捨てられた猫のような、打ち据えられた犬のような、ほとんど泣きそうな気持ちで乱暴な電波を放散させた。
「まだ、何も成していない! 追放されるようなことすらしていない! まだ、何もしていない! したかったことだって、少しはある。レア先輩やマスターへのお礼だって、まだ言えていない! 先輩のやっているというお店にだって、遊びに行きたかった! あの影の塔の根元に何があるのか、知りたかった! ミラーズに……ミラーズに会いたかった! ちゃんと話し合いをして、ああ、私はもうただの、エコーヘッドで、役になんか立たないのかも知れない。それでも、最初からやり直したかったのに……!」
『肯定する。君に意味はない』
残酷な言葉だ。
しかし怪物は、リーンズィに打ちのめされる猶予すら与えず、続きを紡いだ。
『現時点までの観察において、追放処置は妥当性を欠くと判定が下された。我々は可能性保護のプロトロコルに基づき、君を適当かつ安全な時間枝へ帰還させる。我々は監視し、検討した結果として、そのように告知する。そのために、こうして干渉をしている』
何を言われているのか、少女にはしばし理解出来なかった。
「帰還させる?」
『この最終処理閉鎖時空環から、君を帰還させる』
まるで、間違えて持ってきた商品を、元の棚へ戻すとでも言うように。
時空間を支配するその怪物は平然と言った。
『体感覚を極度に加速させている君には、知覚不能だろう。既に帰還プロセスは起動している。間もなく、近似した可能性世界へと、君は自動的に退去させられる』
「……元の世界へ戻れるのか?」
『戻れない。我々も退去先の世界まで精査はしていない。しかし元の世界では無いだろう。似た世界など天文学的に存在するのだ。元のクヌーズオーエに精密に誘導することは出来ない。ただ、この世界より安全であると保障する』
「安全。それ以外には」
『何も無い。必要が無い』
命だけは助かるらしい、とリーンズィは乾いた笑いを笑った。
絶望の笑いだった。
命だけ助かって、いつわりの魂が存続しても、意味など無いのだ。
ミラーズとは、元の世界でしか会えない。
自分の大好きなミラーズとは。
ミラーズだけが、この幼いエージェントの、頼る全てなのに。
「私は……私は何も出来ない? 役立たずの無能なのか? この世界でも私は必要ないのか?」
それは問いかけと言うよりは自責であり、頭を抱えて吐き出した絶望の声だった。
「何も知らないまま、私自身に色んな実験をされて、何も出来ないままこんなところに飛ばされて、何も出来ないまま、また知らない世界に放り出される。もう二度とミラーズには会えない……」
『再度通告する。元の世界には戻せない。我々には無限に存在する近似世界の間にある微少な差異など見分けが付かない。だから、選択しない。特定が不可能だからだ』
気付けば、燃え上がる七つの眼球が少女を見下ろしている。
不意にヴァローナの人工脳髄から言葉が流れ込んできた。
御使い04。楽園を捨てた者。
翼さえ持たぬ天使たち。
『だが君は我々では無い』
無貌の怪物は、出し抜けにそんな言葉を送信してきた。
『君には進むべき道が見えないのか? 君は私とは違う。どこにでも行けるというのに。何故そのような諦観を心に持つのか』
「……君に」リーンズィは、暗く淀んだ目でその異形を見上げた。「君に、私の何が分かる。道が見えないのか? 見えるとも。塞がれていて、どこにも繋がっていない!」
望みを失ってライトブラウンの髪を掻き毟る少女に、怪物はあくまでも淡々と語りかける。
『我々は君を知らない。君を見るのは、初めてだ。だから君だけが君を知っている』
感情の熱は無い。魂も、命の熱量も無い。
だが、その言葉には寄り添うようなニュアンスが含まれていた。
『アルファⅡモナルキア・リーンズィ。この建造物の構造を君は知らないのか?』
「構造? 構造だって? 知っている! 私は今朝ここから来た。ミラーズの傍から抜け出して、ここを潜った! 扉を開けば廊下がある! 冷たくて窓がなくて、寒くて泣きたくなるような、鬱屈とした廊下だ! それをほんの少し進めば、私の、私たちの部屋だ! ミラーズがいるんだ……! こんな、灰塗れじゃ無い、綺麗な温かい部屋で……!」大鴉の少女は自棄になって、崩れて砕けてしまったドアノブを指差した。「でも私はこれを開けられない! 全部、全部終わってしまった。この扉一枚開けられない! どこにも行けないんだ。だから、どこか知らない場所に飛ばされるのに、ミラーズの顔さえ見れないまま……!」
『ならば、何故そのような悲観を心に持つのか』
<時の欠片に触れた者>が、炎に包まれた手で外階段の手摺りを指差した。
見る間に灰の複製物は破壊され、加速された時間の中で停止した。
代替世界の片隅に施された、取るに足らない改編。
「……あ」
だが、リーンズィにはそれだけで充分だった。
『これ以上の干渉は許されていない。アルファⅡモナルキア・リーンズィ、帰還プロセスの完了まで時間はない。我々は、選択しない。意味が無いからだ。未来は既に確定されている。選択する必要がない。だが君は違う。何も選んではいない。君は瞳に何を映す。どんな風景を望む』
ライトブラウンの髪の少女の、鮮血の如く赤く変色した瞳には、もう燃え上がる七つの眼球を持つ得体の知れない存在など映っていない。
ただ、破壊された手摺りをじっと見つめ、呆としながら立ち上がる。
そして、扉に思い切り肩からぶつかった。
灰の扉はあっさりと崩れた。
突き抜けた背の高い少女の転がる体を、朽ちた床板の絨毯で柔らかく受け止めた。
「こんな……こんなことに気付かなかったのか」
舞い上がる灰を振り払い、立ち上がる。
破壊すれば良かったのだ。ただ軽く、思い切ってぶつかるだけで良かったのだ。
諦観が心を支配して、ヴァローナの瞳を曇らせていた。
見たいものしか見えない。見ようとしなければ見えない……。
振り返るともう<時の欠片に触れた者>の姿は消えていた。
壊せば良い、というヒントをくれたあの怪物はどこにもいない。
何が目的だったのかリーンズィには測りかねたが、ミラーズならきっと「お礼をしなさい」と諭すだろう。
だからまた、出鱈目な周波数で言葉を飛ばした。
「ありがとう、いつかどこかの、知らない誰か」
リーンズィは廊下を歩み出した。
帰還プロセスが何時終わるのか、何を以て帰る世界が確定するのかは、分からない。
だがヴァローナの瞳は幽かに徴を捉えていた。
五つの色しか無い形而上の虹色の波動が、廊下の灰を融かしつつある。
その光はまさしく己の内側から放射されているのだ。
階段に繋がっている場所とは真逆の通路にある、突き当たりの部屋。オーバードライブを減速しながらドアを突き破ると、アルファⅡモナルキアが灰の塊となって部屋の入り口付近に散らばっているのが目に入った。ただしヘルメットと左腕の鍵盤付きガントレット、そして棺のような重外燃機関だけは無事だ。
この全てが朽ちていく世界においてすら、やはりアルファⅡモナルキアは恒常性を保つことが出来るようだが、生体部分が重量に耐えきれず崩落したらしい。
自分はどんな実験をされたのだろう。体内に因子を埋め込むというのは、そもそもどこに埋め込んでいたのだ。ミラーズ以外が触ってはいけない場所ではあるまいか。色々な鬱屈に突き動かされて、蹴り飛ばしてやりたくなったが、時間が無いし、仮にも自分自身だ。
あと、じかに蹴ると自分の方が怪我をしそうだったので、リーンズィはとりあえず後回しにした。
薄膜を破るように、カーテンを開くように、そっと、静かに寝室へと入り込む。
そこにミラーズはいた。ベッドに腰掛けている。灰の彫像と化して、高貴でありながらも退廃的な美色のある顔貌を、不安げに曇らせている。両足が壊れていた。膝の上に、リーンズィが忘れていった不朽結晶の手甲を置いていたせいだ。
リーンズィがこの部屋に帰ってくるのを、ずっと待っていてくれたのだ。
ミラーズ。リーンズィは名を呼ぼうとした。愛しい名前を。
だがオーバードライブを起動したままでは、声が空気を震わせることは無い。
リーンズィの意識は、この安全な時間を捨てることを選択した。
どうなるのかは不明だった。<時の欠片に触れた者>の時空間への大規模な干渉について、明確な観測記録をリーンズィは持たない。全ては未知の領域だ。
通常の身体速度に戻った瞬間、知らない場所で目覚めるのかも知れない。
それでも、最後に名前を呼びたい。
その肌に、一瞬だけでも、触れていたい。
「ミラーズ……ミラーズ!」
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