エージェント・ミラーズ

 アルファⅡはミラーズを連れて例の異音がする家へと向かった。

 もちろん戦力としてはカウントしていない。

 どの程度の判断が可能なのか、どんな役割が担えるのかを確認する。

 それだけの意図だった。


 二人で息を殺し、家の内部に踏み入った。

 ――リビングで壁に頭を打ち続けている奇妙な感染者を見つけた。

 何度も何度も壁と頭蓋骨を砕いている様子で、そんな自殺行動を反復している理由は不明だった。

 発症して死ぬ前からそうしていて、生き返るたびにそれを続けていると推測された。

 当人も事の興りを覚えてはいまい。

 もはや彼には魂が備わっていない。

 変異が進んでいないのは、身体がこういう形で死ぬことにすっかり適応してしまったためだろう。


 アルファⅡが左手のガントレットのコイルに電流のチャージを始めると、ミラーズの細いからだが雷光に幻惑されたかのようにふらりと揺れた。

 そして節を付けた言葉で、彼の者に命じた。



 己の吐き出した言葉に打ちのめされたかのごとく、ミラーズと名付けられた金髪の少女の肉体がびくりと震える。



 そして、朗々と歌い始めた。

 歌ではない歌、祈りではない祈り、言葉ではない言葉を。

 感染者が、自死の反復運動を止めた。 

 他の哀れな者どもと同様、無言で立ち尽くす葦の如くとなった。


 かつてスヴィトスラーフ聖歌隊だった金髪の少女は、感染者に歩み寄り、ベレー帽を取って胸に抱き、両手を組み、瞑目して祈りを捧げた。

 埃だけが息をしている室内に、彼女の発する瑞々しい花の芳香が満ちていた。


「あなたの魂が御国に迎えられんことを。全ての魂に安らぎのあらんことを」


 感染者の手に接吻をし、また祈りを捧げた。

 目を開き、微笑を浮かべながら静かな声音で「他に迷い子は?」と問うてくる楚々とした顔は、先ほどまで路上で恋に溺れ、あるいは己の奇行に狼狽していた姿からはかけ離れている。

 慈愛に塗り固められた横顔、眼窩に納められた美しい緑の瞳は、仮想の存在であるユイシスに邪な視線を向けていたそれとは、眩暈を招くほどに差異があるが、まさしく同じではあった。

 世俗と隔絶した空気を纏っているのに、あの異常な痴態を否が応でも連想させてくる。

 汚濁した卑俗。それと相反する、触れることすら叶わぬ聖性。

 蛇が己の尾を噛んでその場で這い回っているかのような違和感があった。

 そうした豹変以上に、彼女の行動がアルファⅡをたじろがせた。


 ミラーズは、歌っていた。

 その歌で、感染者を操っていた……。

 かつてのキジールと同様に、感染者に命令を与え、従わせている。

 こんなことになるとは微塵も予想もしていなかった。


「君は、原初の聖句を、まだ使えるのか?」

 

 ミラーズは頭に帽子を載せながら、翡翠色の目に不機嫌そうな光を煌めかせた。


「当然でしょう。名は変われども、心は変われども、私が私であるならば、私の行いは神の行い」

 混乱など微塵も感じさせない。少女の言葉は明瞭で耳に心地よく染みる。

「それを証として奉れば、斯くの如く私の言葉は祝福され、神の吐息によって導かれた音の連なりとなります」

 溜息を一つ。

「……これをさせるために蘇らせたくせに、何を言うの?」

 また嘆息し、そっと目を伏せる。

「いいえ、今はよしましょう。眠れる者の前では、静粛にしなければなりません」


 ミラーズは再び歌い始めた。

 歌声は静かに、凍てつく冬の廃屋へと降りていく。

 建物には他に異常行動を取っている感染者はいなかった。

 キッチンには生活の痕跡があり、洗浄の済んでいない食器がシンクに放置されていた。

 テーブルの上には皿が放置されていた。食べかけの干からびたアップル・パイがぐずぐずに崩れており、周囲では蠅の死骸が乾燥して朽ちている。

 テーブルの対面に並べられた椅子の前には取り皿。

 グラスに注がれていた液体は蒸発しきっており底には乾いた蛆虫が層を形成している。


 机の前には二つ小さな箱が置かれていた。

 中身を確認したが役に立つものは入っていなかった。

 ミラーズも「不躾ではありませんか?」と窘めながらも箱を見た。

 押し黙って、今度は感染者を見た。


「これがあるべき場所を私は知っています」と呟き、金髪の少女は、憐れむような顔で、先ほどまで頭を打ち付けて死のうとしていた感染者に歩み寄った。

 手の中に、一つをそっと納めた。

 そしてもう一つを手に取って、胸に抱き、静かに歌い始めた。


 歌に誘われて、魂無き感染者が夢遊病患者のような動きで戸口に現われた者が居る。

 玄関で倒れていた感染者だ。

 ミラーズの聖句に操られたその感染者は、頭を打ち付けていた感染者のすぐ傍で立ち止まった。

 透き通るように清らかで、しかし言語としては完全に破綻しているその歌声に、アルファⅡは聞き入った。

 少女は連れてきた感染者の手の中にもそれを納めた。

 歌い終わった途端、二人の感染者はぴくりとも動かなくなった。

 二人が手にしていたのは、指輪だ。


 ミラーズの行動は、合理的な推察に基づいたものでは無い。

 あるいは、死を迎える前に、これら二人には、精神的な破局が訪れたのかも知れなかった。

 だが今の二人は、そうではない。

 滅び去った幸福な時間の粗悪な模造品であっても、静かに寄り添っている。

 ミラーズは遠い記憶を思い出すかのように目を細め、二人のために短い祈りを捧げた。


 全ての家屋の捜索を終えた。

 異常はなかった。

 悪性変異体も、未感染の人間もいなかった。

 ただミラーズの精神にだけ、何らかの変化が起こったように見えた。


「人の営みの終焉を看取る時には、いつでも寂寞が胸を覆います。しかし、これほど愛おしい風景があるでしょうか。彼らの魂はまさに御国へと導かれたのです。彼らの魂は神に愛されているのだと……沈黙する彼らの姿こそが、そうした真実を雄弁に語ります」


 最後の家屋を後にして、肩を並べて歩くアルファⅡに向けて訥々と言葉を並べるミラーズ。

 ユイシスと抱き合って恍惚としていた時の、薄氷を踏むかのごとき自己破壊の気配は、見受けられない。

 致命的な退廃と確たる信心が同居したかのような佇まいは、危うく、儚げだが、キジールだった頃と同じく、その状態で見事な均衡を保っている。


 ミラーズの発話からは、宗教的な文脈の語彙、特に狂った教義に根ざした言葉が、明確に減少していた。そういう意味では、スヴィトスラーフ聖歌隊の指揮官、レーゲントであったキジールとは、やはり異なる存在なのだろう。

 一方で感染者を前にした時の所作は、ごく狭い範囲での記憶と振る舞いに関する基礎的な情報しか与えられていないにも関わらず、エコーヘッドになる以前と少しも変わらない。


「随分と……落ち着いたようだな」


「ええ。久しぶりに歌えたから、かしら。みっともない声じゃなかった?」


『美しい歌でしたよ。推測。これが彼女の真の姿なのでしょう』


「真も何も無いわ。あたしはあたし。やるべきことには、相応しい態度が必要よ。さっきは態度を変えただけ。祈りと歌の間にある神秘的な関連性を……なんて、あなたたちに説いても無駄ね。あたしは上辺だけのコピーで、魂なんて持っていないんでしょ? それなのにあたしに歌わせることが出来る。あなたたちは天使を解剖台の上に載せて、喉を切り開いて調べたに違いないわ」


 溜息交じりのミラーズの言葉に、アルファⅡは首を振った。


「誤解をしないでほしい。我々は……君にこのような力は求めていなかった。ただ聖歌隊独自の見解と、前を歩く能力さえ備わっていれば良かった。現在の君が原初の聖句を使えるなどとは、全く予想していなかったんだ。この戦力の拡充は予想外だ」


「本当に期待してなかったわけ? じゃあ、弾除けがわりに先導させるためだけに、こんな仕打ちをしたの……。最低っていうか……人間性がないんじゃない?」


「人間性は、入荷が遅いのだ。人間性というのは高級品だから神様が中々売ってくれない。……冗談だ。その問題には対処していくので許して欲しい。努力はしている」


 ミラーズは「うーん」と悩ましげに息を吐いた。


「まぁ、いいわ。この力に期待していなかったというのが嘘じゃないとしても、やっぱり戦力扱いはやめてほしいわね。このあたしが血も涙もないエージェントの一部に成り下がったとしても、人を苦しめるために聖句を使いたくはないわ。きっと、最初から、そんなことに使うために授かった御業じゃないの。説得力ないかもしれないけど……。世界には不死の恩寵が満ちた。戦争は全部終わった。もう誰も苦しまなくて良い。聖歌隊としての役目は、終わった。あたし自身も、戦争のために歌うこの私は、眠らせたままにしたい」


「大丈夫だ。そういった命令を私からすることはない。戦力と言ったのは言葉のあやだ。それよりも、聞かせてほしい、エコーヘッドになってから、原初の聖句の効力に変化はあるか?」


「分からないわ。でも前よりも聖句が頭に浮かぶスピードはかなり落ちてるかしら。

 少女の小さな身体がぴくり、と震え、翡翠色の目が潤んだ。

「うん。やっぱり遅い。指揮できても五人、調子が良くても八人ぐらいが限度ね。黙契の獣ビーストを鎮めるのも無理、あれこそ指揮できる人数が大事だから」


『賞賛します。素晴らしいです、ミラーズ』と我がことのように喜びながら、ユイシスがアバターをキジールの傍に出現させた。『電気を流して昏倒させるぐらいしか機能の無い、ヘルメットの能なしどもよりも、ずっと優れています』


「そうかしら」抱きついてくるユイシスに、ミラーズの応答は醒めていた。「あなたたちって、その気になったら、たぶん獣を一人で鎮められるのよね? それと比べたらあたしなんて『いないよりはマシ』ぐらいなものでしょ」


 ユイシスは無表情で身を離す。


『解析中』の文字がアルファⅡに転送された。


> 終了まで三〇秒。


「無血で感染者を沈静化できるなら、それに勝るものはない。スタンガンの使用も所詮は次善の策だ。彼らは保護対象なのだから、君たちのように、ただ歌うだけで無力化できるなら、それが一番良い」


「ふーん、そう? じゃあ、リーンズィ、ユイシス、あなたたちもスヴィトスラーフ聖歌隊に入りますか? 私と同じ……血のカルトの一員に?」


「血のカルト。義理を立てるのだとしても、かつて所属していた組織をそんな風に言う必要はない」


「事実だもの。あたしたちのせいで、どれだけ血が流れたか分からないわ。どんな大義を掲げても、目指している結末が正しくても、やってることがどれだけ間違ってるのかは、しっかり理解していたのよ。他の子は知らないけど、あたしはね。悪いことをしたとも思わないけど」


 信仰への背反とも取られかねない思想を口にしながら、少女は平然としていた。


「気の迷いでもないわ。昔からそう思ってたんだから、これは普通の気持ちよ。……そうそう、あなたたちは言ってたわね、聖歌隊も全ての黙契の獣を鎮められたわけじゃないだろうって。あの時は、あの仔を鎮めるのに必死だったから、そこは仲間の皆を信じるしか無かったけど、今となってはあたしも同感。獣を鎮められるレーゲントの数はたかが知れてるし、大主教の子たちが頑張っても限界があると思う。あなたたちみたいな力ある御遣いは貴重よ。私の仔、綿ヴァータと同じくね……リリウムと合流したとき、聖歌隊が何にも変わってないなら、きっと歓迎されるわ」


「確認したい。スヴィトスラーフ聖歌隊の目的は、全人類を不死病で制圧すること、という認識で問題ないか?」


「言葉には気をつけてね。制圧じゃなくて、救済よ」


「了解した。それで、救済を終えた後の計画は?」


「さぁ。何も無いんじゃない。不死の恩寵が行き渡った後のことは聞いてなかったわ。そこで終わりの組織だったから。そうね、強いて言うなら、ヘシカシスト、調停防疫局では感染者って言うんだっけ? 彼らを保護するというのは聖歌隊でも同じだから、後始末をして回る必要はあったかしら。もちろん、獣が苦しんでいるのも、鎮めなきゃいけないわ。世界が不死に満ちて終わったあとだとしても、その辺りの利害関係は、一致するでしょうね」


「そうか。ならば、やはり協調も選択肢に含めよう」


 楽しみにしているわ、と不敵に笑う少女の振る舞いに乱れはない。

 路上で自分と同じ顔をした仮想人格と交歓するような倫理観の持ち主で、終末思想に最期まで囚われていたテロリストであることに疑いはないが、さりとて常にそうした性質に支配されているとも思われない。

 それでいて自分自身の言動に動揺して錯乱を始める様子も無い。

 ミラーズの人格はようやく安定したのだ。アルファⅡはそう確信した。


『神経活性、異常ありません』とユイシスからの通信。『感染者に対して原初の聖句を使用した時点から、急速に安定化が進みました。推測。原初の聖句は、彼女の自己同一性にとっても、極めて重要な因子だったのではないでしょうか』


『つまり神に仕える者として振る舞うことが? それこそが彼女の根幹を成すものだったと? 心から聖歌隊を信じているようには見えないが……』


『推測を補強します。スヴィトスラーフ聖歌隊に入ることで副次的に手に入れた力、あるいは見出された力こそが、重要なのではないかと。おそらく。「敵にさえ主人にするように奉仕せよ」という命令は、最初に彼女自身に影響を及ぼしました。神経活性の情報から推測する限りでは、彼女は下水の流れる地下街で囚われていた自分自身と、その運命をこそ、まず最初に憎んでいたものと考えられます。言わば彼女の敵は、常に彼女自身だったのです。自分自身への憎悪と軽蔑を、原初の聖句によって反転させていたものと予想されます』


『とすると、聖句の発動まで君と愛の言葉を頻りに交わしていたのは、その代替行動か』


『……貴官の推測を肯定します』ユイシスの声には、聞き慣れた、余裕ぶった気勢がない。『彼女は、おそらくあの瞬間まで、自分が未だに原初の聖句を使えることに気づいてなかった。あるいは、聖歌隊のキジールだった頃から、自分自身を聖句で洗脳していることに無自覚だった。歌なき世界で彼女は、自分と同じ姿をしている当機のアバターと関係を結ぶことで、間接的に自分自身を愛し、受け入れようとしていたのでしょうね。……当機への愛着形成は失敗でしたね。結局、ミラーズは当機のことなんて何とも思っていなかった。当機を通して彼女自身を愛していたんですから……』


 地面の下までめり込んでしまいそうなユイシスの落胆を見て、アルファⅡは愛に関する項目にいくつか新しい情報を書き加えた。

 ユイシスの落胆自体には然程興味が無く、「そういうものか」とコメントするに留まった。


 電子の少女の気持ちを知ってか知らずか、ミラーズがユイシスのアバターにすり寄った。


「手を繋ぎましょう? 一緒に歌いましょうよ。主の御業に触れて、自分のやっていたことは間違っていなかったんだって久々に思い出せた。なんだかとっても気分が良いのよ」


『当機の歌唱は現在。そして貴女の悦びは、真に貴女に由来する悦びですよ』ユイシスは自嘲するように呟いた。『当機の入り込む隙間なんて最初から無かったんです』


「どうしたのユイシス? そんなことは言わないで。確かに私は、自分のやるべきことにこそ、価値を見いだします。けれども、自分が嬉しいとき、好きな人にも嬉しくなって欲しいと思うのは当然のことじゃない?」


「疑問を提示します。本当にそうでしょうか?」

 ユイシスは、目前の少女とは全く異なる、傷ついて身体を丸めている死にかけの猫のような、苦しげな声を出した。

「当機なんて、貴女の姿を真似っこしているだけの、正真正銘のいつわりの存在です。この身体に本当の部分なんて一つもありません。こうして振る舞うことにさえ、欺瞞が付きまとうのです。それでも当機のことを好きでいてくれると?」


 ミラーズは躊躇わずユイシスを抱擁し、首筋に接吻した。


「あなたがたはこんなことを言いました。『君は生きている。コピーでも、ただのデータでも、君は君なんだ』。私も同感です。あたしの感情は本物。始まりがただのデータだとしても、この演算された魂に外側しかないとしても、そこから生まれるのは偽物なんかじゃないわ。ああ、霧が晴れたよう。はっきりと分かります。私はあなたを愛していますよ、ユイシス。最初は誘導されていたんじゃないかって思わないでもないけれど。でも、やっぱりこの気持ちは嘘なんかじゃない」


「……当機も愛しています、エージェント・ミラーズ」

 ユイシスは切なげに笑みを浮かべて、細く頼りない体を抱き返した。

 ドッペルゲンガーに出くわした哀れな少女。

 その真に生き残るべき肉体に、怖々と、祝福でもするように、そっと口づけをした。

「たとえ嘘だとしても、貴女を愛しています」


 アルファⅡは黙って二人を眺めていたが、そのうち一向に日の沈まない空の方に注意を奪われた。

 彼女たちは何故だか虚と実に拘る。

 しかし、この空は本物だろうか?

 それとも未来のない世界の暗示だろうか?

 思考の迷妄に身を委ねる。

 もはや死も生もない。昼も夜もない。何も残されていない。

 誰かが囁いている。この世界に、守るべきものはあとどれくらいある……?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る