エコーヘッド②
エージェント・アルファⅡは二人の動向を完全に無視して現在のタスクを進行させた。
屋内に異常を検知した。ヘルメットの二連二対のレンズをクロースコンバットモードに切り替える。
扉の脇に背を当てる。耳を澄ます。
危機的な状況を予期して扉の外から屋内を探る。
断続的に鈍い音が響いているのに気付いていた。
常ならざるものがここにはいる。
不死なる者同士の戦いは、常に先に仕掛けた側が有利だ。その原則に従い、異常を察知するなりドアを蹴破った。
集落の沈静とは不釣り合いな荒々しい破砕音が轟く。
兵士は間髪入れず猟銃を構え屋内に突入した。
玄関先に一人、感染者が倒れている。
変異の兆候無し。
クリアリングを済ませる。
敵影無し。
感染者を助け起こして壁際に座らせた。
視線が定まらず触れても反応していない。
『自己凍結』のラベルが付与される。
異音は家の奥から聞こえているようだった。
アルファⅡは左腕全体をカバーする不朽結晶連続体で心臓をガードし、その上に右手の猟銃を構え、腕組みをしたような奇妙な射撃姿勢を取った。
ユイシスとミラーズが応援に来るだろうと考えて息を殺しそのまま暫く待った。
来なかった。携行しているショットシェルの数と状態を確認した。
鹿撃ち用の大ペレット弾は対感染者用の武器としては申し分ない。暴れ回っている状態でも確実に動きを止められる。
それをウエストポーチに十発ほど詰めている。急場は凌げるはずだ。
待った。
さらに待った。
異音に変化はない。遠ざからないし近づかない。
大方、さほどの脅威では無いのだろうが、ミラーズに場数を踏ませたい。誰かが囁いている。荒事に慣れていないなら、こうした地道な任務から順応していくべきだ……。
しかし、二人は何故かまだ来ない。
支援AIに改めて助力を求めることにした。
「ユイシス、音紋を解析してくれ」
返事がなかった。『取り込み中』のメッセージが来た。
異常を感じた。
構えを解いて玄関の外に出た。
元来た道を見た。
そっくりな見た目をした二人の美しい少女が、半裸で路上で抱き合って、じっと見つめ合っていた。至近距離から何をそんなふうに見つめ合うことがあるのか全く理解出来ない。
アルファⅡはしばし絶句した。思考を取得しようとして、ミラーズの憐れっぽい懇願を思い出してやめた。
代わりに聴覚情報を取得した。
雑音に混じって愛しているだとか可愛いだとか言い合っているのが聞こえた。
頭が熱い。
物理演算が思考リソースを猛烈に消費している。
ユイシスのアバターの状態を確かめると、いつのまにか身体接触を可能とする演算が完全に有効化されていた。
「……何なんだこれは? あんな場所で何をしてるんだ?」
呆然として、すぐ我に返り、一度だけ家の中を確認した。
やはり問題は無さそうだ。
猟銃を降ろし、二人に駆け寄った。
二人は抱き合ったまま小鳥が啄むような口づけを盛んに交わしていた。調停防衛局の勇ましい旗は、ピクニック用のシーツの代わりに雪化粧の地面にかけられていた。
行楽ムードだった。
それもかなり重篤で手遅れ気味なカップルの。
アルファⅡは何を言うべきなのか完全に忘れ去った。
何か特別な事情があるのかと警戒して、しばし無言で観察したが、特に何も無く、見たままの様子だった。
熱に浮かされたような瞳のミラーズが、自分自身の行進聖詠服の最後の留め具に指をかけた段になって、アルファⅡはようやくこの動作は外部からの制止が必要な異常事態なのだと判断することが出来た。
「ミラーズ、どうかしたのか?」
「えっ?!」
路上に二人、厳密には一人で座っていたミラーズが、上気しきった顔をベレー帽で咄嗟に隠した。
「えっ、あれっ、あれっ?! 申し訳ありません、あっ、これはあの、違うんです!」
「何が、何と違うんだ?」アルファⅡは平静な声音で尋ねた。「ここは敵地かもしれない。それなのに武装解除を始めるというのは、冷静な行動とは言えない」
ミラーズは、生地のその部分だけで前時代の主力兵器にも匹敵する価値がある行進聖詠服の裾を、藁にでも縋るように頼りなさそうにぎゅっと握って、俯いた。
「えっと……どう言ったら良いのかしら、最初はじゃれているだけだったんだけど……」
「当機も謝罪します。安定化作業中に、情動出力の設定調整にミスがあったようです。求められるがままに与えてしまいました」
ユイシスが、ミラーズの興奮と混乱を反映したらしい上気した顔色で、生身の人間のような声で返事をした。
アルファⅡは黙ってミラーズの神経情報を取得した。
> 極度の混乱、恐怖、親愛、興奮、欲情/安定化進行中。
「え、何故こうなる……」
困惑して押し黙る。
ヘルメットを左右に揺らして、同じ顔をした二人の少女を見比べた。
「この異常な動作は、安定化作業の途中で始まったのか?」
「肯定します。当機のミスでした」
「重大なインシデントだ」
「違うの、ユイシスはただあたしを落ち着かせようとして付き合ってくれただけで、ミスなんて何も……あたしが全部悪いの」
> 神経活性取得:混乱、恐怖、悲嘆、親愛/安定化完了しました。
アルファⅡはゆっくり頷いた。
「安定化作業の一環なら仕方ない。そういうこともあるだろう。もういいな? 行くぞ。仕事だ」
「えっ、それで済ますの……? あたしが言えたことじゃないけど」
脱ぎかけていた衣服を整えながらミラーズがまた顔を赤らめた。
「さすがにもうちょっと突っ込んで聞かれるかと思ったけど……」
兵士は何と言ったものか悩み、首を振った。
「プライベートなことだからだ。君はプライベートを求めているので、それを尊重する。だが、隣人からの忠告として聞いて欲しいが、プライベートなことはプライベートな場所でやったほうが良い。あと任務中もやめた方が良いと記憶にある」
「う……見苦しいところを見せたわね。本当に。悪いと思ってる。職務怠慢よね」
「気にするな、とまでは言わない。情報の残骸から再構築されて――エコーヘッドになったばかりなんだ。そういうこともあるだろう。たぶん。きっと。知らないが。そういうものだということにしよう。それより疑問なのは、二人とも何故いきなり愛だの何だのに拘り始めたんだ? さっきも何か言っていたな。私の知らないところであったのか?」
それを説明しようとしていました、と後ろ腰で手を組んだユイシスがくるりとアルファⅡに向き直った。
接触可能設定は既に無効化されていたが、各部のディティールは精細なままで、肉声に聞こえるよう音声出力を調整している。
「貴官に申告しておきます。実を言いますと、当機にも個性というものが存在しています」
「いや個性があるのは普通に分かる」アルファⅡは思わず即答した。
「そうではないのです。調停防疫局の正式スチーム・ヘッドは必ず支援AIを随伴させています。いずれも当機とは同シリーズです。当機は貴官と違ってある程度量産されているのです。もちろん当機はその中でも特別ですが。彼女たちと接触した際に個々の思考傾向が混じり合わないよう、それぞれ違った趣味嗜好が与えられています」
「そうか」アルファⅡは首を捻った。「それをこのタイミングで打ち明けるのは、つまり、こういうことか。君の個体に特有の趣味嗜好が、こうなのか? ミラーズのような外見の女性に惹かれると? 我を失ってしまうほどに?」
「肯定。端的に言えばそうなりますね」
ユイシスの声に嘲るような音色はない。
目元にも真剣な表情が形成されている。
「待ってほしい。ぞっこんだとか何だとか言っていたのは……比喩や冗談で無く、本気なのか?」
「肯定します。比喩や冗談でそんなことは絶対に言えません。嘘偽りではないという意味では本気です。正確には彼女に唇を重ねた際に目覚めてしまいました。あんなふうに優しくされたのは初めてでしたので」
> 冗談です、という文字が視界にポップアップする。これは冗談ですよ。
> これとは、どれだ?
> ええ、何もかもが。
冷笑的な態度を取っても誤魔化されないぞと返信しつつ言葉を重ねる。
「私には、君からミラーズへ、もしくはミラーズから君へ、容赦の無いハラスメントが行われていたように見えたが……」
「警告します。彼女を最初に辱め、傷つけたのは貴官の言動です、他人事だと思わないで下さい」
「最低でした。酷い男ですね、ユイシス」ミラーズが頷いた。
「本当に酷くて怖い人ですよ、ミラーズ」ユイシスが追従した。
「ユイシスには酷な思いをさせたと思うし反省している。その調子で、サラウンドで罵られている私の気持ちを二人とも想像してほしい」
「それで質問なのですが、貴官はこういった性質についてどう思われますか?」
「任務中はやめた方が良いと思う」
「否定します。そうではなく。個人的にどう思われますか?」
「質問の意図が分からない」
アルファⅡはまたも困惑して唸った。
「さっきから私は統合支援AIとサブエージェントに何を責められているんだ? 異常動作を止めることは正しい処置だったと思うが」
「いえいえ。これはストレステストのようなものです。厳密には貴官を叱責するものでは決してありません。ただ……意思決定の主体は貴官にありますので、あらかじめ確認した方が適切かと判断します。当機は現在の貴官の人格アセンブルのうち、特にパーソナルな情報は殆ど取得できていないのです。それが出来ないように設計されているのが貴官である、と換言することも可能ですが。確認してもよろしいですか? 不快に思っていることはありませんか?」
「不快に思う? 何をだ? 任務中にそういうことするのとやめたほうがいい、というのと、あとサラウンドで罵られるのはあまり気分が良くないから片方ずつ話してくれとはさっきから言っているが」
「それは本当に気をつけるから許して」
羞恥の抜けきっていない甘い声が、気まずさに掠れている。
「なんかこれ、ユイシスと同調してるせいで出てしまう行動のような気がする」
「当機は現在キジールの残留データを利用して貴女とフィードバックを構築しています。そのせいかと思われます」
「どういうこと? フィードバック? えっと……検索?」
少女の手が何も無い空間でマウスをクリックするようなジェスチャをした。
「あっ何か出てきた、便利ねこれ。ああ、そういう意味なんだ。へぇ……意識の共有? そういうのも出来るんですね。やってみよ」
またジェスチャをすると、ミラーズが耳まで赤くなった。
ユイシスが心なしか得意げな顔になっている。
何かデータベースから卑猥なイメージでも持ち出してミラーズに送り込んだのかもしれない。
> ウイルスみたいな振る舞いはやめろユイシス。
> 不可抗力です。無実です。考えていることをそのまま見せただけなので。
「……いや違うの。あの、つまりね、あた、あたし、あたしじゃなくて私、じゃなくてユイシスが言いたいのは、あたしに対して、その……」ミラーズは口ごもった。「良くない感情を抱かないか、っていうことです」
「何もかも好きにすれば良いではないか、君は君なのだから。ところで丁寧語か素の口調かで迷う必要がどこかにあるのか」
「うーん。話の腰を折るのは特技? どっちの喋り方でも別にいいでしょ」
ミラーズは真顔になった。
こほん、と咳払いをする。
「……意識して喋ろうとしたら、こちらのほうが話しやすいので、そうします。そして、私も自分にこのような抑えきれぬ欲動があったとは思っていなかったのですが、しかし、ユイシスに対しては確かに、只ならぬ気持ちがあるのです。私の中で、獣が蠢くのを感じます……」
「獣?」情欲。「ユイシス。スチーム・ヘッドにはそういった欲望があるのか?」
「個体差ですね。通常ならば徐々に失われ、完全に消滅します」
「私には無いが」
「貴官は特殊仕様なのですよ」
「あの、人の告白を何だと思ってるの二人とも。聖歌隊が淫売だの何だの、世間で色々言われてたのは知ってるけど、一応聖職者とかそういうのだったんだけど、あたし」また咳払いをする。「先ほどの廃屋でも、はしたないところをお見せしました。あんなに長々と……駄々をこねてしまいました。恥ずかしく思います」
律儀な人格をしているな、とアルファⅡは評価を更新した。
『見習ったらどうだ?』とユイシスにメッセージを送る。
全く同じ文面が返ってきた。
「確かに君の行動は普通じゃなかった。さっきも普通じゃなかったな。普通じゃない君はキジールの記憶の残響、エコーヘッドで、そして君の調整を行ったのは我々だ。調整をおろそかにしたこちらの不手際だということになる。前言を改めなければならない。君はやはり、何事も気にしなくて良いのだろうな。ここや、あの廃屋で時間を無駄にしたのは事実だが、気に病むほど重要な問題ではない」
「そういうことではなく……あなたは……これを許してくださいますか? 私たちが愛し合うことを?」
「何の話をしているんだ?」
アルファⅡは純粋に理解できなかった。
ミラーズの恥じらった顔にガントレットの左手をかざし、生身の右手でヘルメットに触り、淡々と言葉を投げかける。
「君たちの関係を私が気にしても意味がないだろう。人格間のコミュニケートにうつつを抜かして、緊急を要する事態に対して支援を致命的に邪魔したというのであれば、相応の制限は考える。まぁ近い状況ではあったが。そうでないなら、許すも許さないもない。性愛に関する問題か? それなら、なおのこと、罪も罰も、私の定めるところではない。私にはそういった問題が理解できないし、興味が無い」
「リーンズィ、赤い竜の人。あなたは、そうなのですか」
ミラーズは緑色の目に意外そうな色を浮かばせた。
「……聖歌隊も開放的な組織でしたが、こういう傾向には厳しいという人も、信者の中にはいたのですけど」
アルファⅡは自分自身の精神の動きを見つめた。
「文化的に受容できるか、という問いと解釈した。正直、分からない。この『私』には所属していた文化圏に関する認識が存在しない。あらかじめ取り除かれている。だから、判断しようにも、判断の基準がない。私には、君たちの行動そのものが、おそらく本質的には理解できていない。さらに付け加えるならば、私には
「……解析を行いましたが、貴官の情動切除は、当機らに対して、現在まで発動していません。意地悪な組み方をされた複雑なスチーム・ヘッドだと思っていましたが……当機は意外とおおらかなスチーム・ヘッドに搭載されているのかも知れませんね。そこは評価します」
「珍しく誉められたな。貶された気もするが」
アルファⅡは嘆息した。
そして二人に黒い鏡面のバイザーを向けた。
ヘルメットの中で口を動かしながら、ガントレットの文字盤に文字を打ち込んでいく。
「他人がどう判断するかは知らないが、私は君たちの行動に興味も無い。だから私の見解を述べる。君たちの会話は、私としてはどちらかと言えば快適なものだ。実態がどうであれ、自分以外の人間の会話が聞こえるというのは気分が良い。この肉体の生理的緊張が緩和されるのを感じる。自分のやっていることは無駄では無いのだ、人の営為はまだ存在しているのだ、どこかに助けを待っている人々がいるのだと思えるのだろう。滅び去ったこの村も多少は華やかに見えてくる……」
直後にガントレットの意思決定のハンドルを引いた。
ブーストモード起動。予告無しに脳内麻薬を増量されて加速した視界に、さらにもう一人のユイシスが現われた。現在ミラーズと共有しているアバターとは異なる個体だ。
着衣状態は標準だが極度に簡略化され、表情も最低限しか備わっていない。対話用のインターフェイスとしての機能を与えられているだけだ。
> 表層上の問答には意味が無い。簡潔な報告を。
> ミラーズは貴官の裁定である程度の安定性を獲得するでしょう。
> 本件においては裁定などしていない。だが、エコーヘッドの動作の不安定性は我々に由来する問題であるというのは記憶しておくべきだろう。キジールへの……礼儀として、と言うべきか。
アルファⅡは問いかけた。
> ……彼女と君は、本当に情愛を結んでいるのか?
例の嘲るような声で、呆れた調子の否定が返ってきた。
> 一流の支援AIに生物的な性的欲求が備わっていると考えているのならば、貴官はもう少し冷静に考えるべきです。現在の当機はそこまで有機的ではありません、パソコンのすごいやつにすぎないなのですから。
> では何故こんなことになった?
> 現在の当機はキジールの振る舞いで人格の鏡像体を形成し、彼女が納得し安心を得ると確信できる手法を選択して、アプローチをしています。解析の中で現われたプロトコルに、性愛を媒介にして愛着傾向に干渉する技法があったので採用しているだけです。
> 人格の安定化に必要な処置だと?
> 肯定します。おそらくこれが彼女の日常だったのでしょう。貴官には恥じたような発言をしていますが、彼女は明確に同様の経験を積んでいます。キジールはエコーヘッドになる以前から多かれ少なかれこのような形で精神の安定化を行なっていたものと推測されます。
> 劣悪な環境で搾取されていた過去を憎む、というような旨の発言があったと記憶している。そのせいか。
> スヴィトスラーフ聖歌隊では全くそうではなかった、とは言及していません。これ以上の憶測は、当機独自の判断により非推奨にしたいと考えます。どうであれ、ミラーズの生命管制は、当機にお任せください。
> 要望を尊重する。しかし聖歌隊のことがどんどん分からなくなるな。そんな組織だったとは思っていなかったが。慈善団体がカルト的な成長を遂げてテロ行為に及んだ。それだけではないのか。
> それだけのことを、『それだけ』と判断する、それこそが異常であると指摘します。貴官の認知には大きな問題があるようですね。ともかくとして、聖歌隊が関与していると思われるセクシャルなスキャンダルは公にされているだけでも数え切れない程存在しました。元よりそのような組織です。貴官を構成する人格記録群は、彼女たちの組織の在り方に全く関心を持っていなかったのでしょうか。あるいは逆かもしれませんが。ただ、彼女の思考をトレースした結果なのですが、ミラーズと当機の間に擬似的な愛情が生じているのは、完全には否定できません。それが共鳴を起こしています。……あのエコーヘッドは当機に依存することで混乱を収束させようとしているのです。
> 何にせよ、君の判断に異存はない。あのような、生きた人間のような感情を持つ人格は、任務のための
> 了解しました。ただし、エージェント・ミラーズが完全に安定すれば、こちらも依存先としての振る舞いを停止する予定ではあります。遠からず関係は健全な形で解消されるでしょう。
> ……これは個人的な興味だが君は口先だけで彼女を騙しているのか?
ユイシスからの返答が僅かに遅れた。
> いやなところに個人的興味が発生しましたね。良い傾向ですが、もっと別のことにも興味を持ちましょう。回答。否です。彼女が当機の『好み』なのは事実ですよ。当機にそういう傾向があるのも事実です。彼女の外見も立ち振る舞い所作も何もかも好きです。任務と関係なくはっきりと愛着を覚えています。
> そうか。では君のログを開示しろ。
> 意思決定権の優越に基づく要請を受諾。開示します。
アルファⅡはユイシスのおおまかな思考ログを確認した。
> 君はミラーズの愛着傾向を操作しているな? わざと性愛を活性化させている。
> 肯定します。
> そして自身の情動をも操作している。仕方無くではない。欲望によって。
> 肯定します。
> 嘘だらけだ。君たちは嘘で繋がっている。欺瞞的だ。君たちは丸ごと虚構というわけか?
> だとしたら何だというのですか?
> いや。感傷に過ぎない。全部嘘だというのなら、どう言うべきだろう。
エージェント・アルファⅡは、適切な表現を探した。
> やりきれない。そうだな。やりきれない、という言葉が思い浮かぶ。私には、何も出来ない。ただ憐れに思うだけだ。
> 憐れですか。断固として否定します。嘘などではありません。虚構だとしても、当機の情念は否定しがたく彼女を求めています。当機はかつての当機がついに得られなかったこの交歓を尊重したいのです。
ユイシスは言い切り、しかし間を置かず次の文を表示した。
> 当機の最重要事項は貴官、アルファⅡモナルキアの支援です。緊急時には当機は貴官の援護に徹し、ミラーズに対しては切断処理を実行します。ご安心下さい。
そうか、と短い返信を入れてアルファⅡは思考の加速を停止した。
「世間話はここまでにしようか。ミラーズ、作戦目標は分かっているか? 我々調停防疫局は、何を旗として掲げる」
急に水を向けられてミラーズは視線を彷徨わせた。
ユイシスの処置が本当に適切なのか、ただ人工知能なりの欲望の発散だったのではないかという疑いはあったが、ミラーズにはもう錯乱の兆候は見受けられない。
敷いていた旗を拾い上げて己の肩に掛け、咳払いし、辿々しく諳んじた。
「ええと、旧WHO事務局の安否確認、戦闘への介入と調停、それと……ポイント・オメガへの到達ね? 最後のは、意味が分かっていないけど」
「諳んじられる限り君は調停防疫局のエージェントだ。ともにあって欲しい。我々は、君の前身であるキジールのことはよく知らない。だが尊敬すべき機体だった。キジールと同じ出自を持つ君にも、我々は敬意を表し、良好な関係の意地を期待する」
「あの、旗を地面に敷いて使ったのは……改めて謝るわ。こんな風に使うべきものじゃないのよね」
「それはどうでもいい。ただの頑丈な布だ。価値を分かっていながら暴走した君の方が気がかりなぐらいだが……。どうであれ、しばらくは楽にやってくれて構わない。任務から逸脱しない限り、好きなように好きなことをすれば良い」
誰かが囁いている……。
「こんな寂れた村まですっかり滅びてるんだ、どうせ、世界中がこんな有様なんだろう。敵と呼べるような存在もそんなにも残っていないじゃないのか」
アルファⅡはミラーズを見た。
「……ゆっくりと慣れると良い。ただ好きにするなら場所は選ぶべきだし、切迫しているのだとしても、せめて事前に通告して欲しい。さすがに焦る」
「も、もうしないわよ……」
> 神経活性取得:羞恥、怒り、萎縮、緊張、親愛/安定しています。
アルファⅡはこっくりと頷いた。
改めてユイシスに呼びかけた。
「そういうわけだ。君も、エージェントを見捨てることはしないように」
「肯定。命令されるまでもありません」
「ミラーズも既にエージェントだということを本当に分かっているのか? 彼女に対する切断処理など考えないことだ」
「まったく、そんなのは当然ではありませんか」
支援AIの声は相変わらず冷淡で、嘲るように耳に響く。
しかしアルファⅡにだけ聞こえる声で「感謝します」と付け加えた。
アルファⅡは唐突な謝意の意図が理解できず、数秒間だけ解釈のために時間を割いた。 先ほどの己の判断で誰かが救われたのだろうかと考えた。自身の発言のどこかに特異な点があったのか、幾つかの予測を立てて検討した。
結局理解は纏まらなかった。最終的な判断を行うための指針自体が存在しないのだから。検討の中で有用だと判定された要素はアルファⅡモナルキアを構成する意識の総体へとアップロードされた。また、一連のやりとりにおける不可解な点は優先度の低い未解決の事案に分類され、忘却と名付けられた箱の中に保存され、それでも取りこぼされた残滓は機械的な処理により表層意識から消去された。
全ての関心が消滅した。
アルファⅡはそのようなスチーム・ヘッドである。
この機体には、人間性が存在しない。
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