裁きの黒猫、敗北の白ウサギ①

 ペーダソスのオンボロ移動販売車は、今日も朝霧に煙るクヌーズオーエの夜明けに重苦しいエンジン音を響かせた。

 いつもと同じ朝だった。嵐も津波もこの遺棄された囲いの都市の外側にあると疑わぬ、偽りの安寧に揺蕩う黎明の暗がり。

 すれ違う影は少なく、あるとしても例外なく魂無き人の群れであり、煙る霞の群れを悠然と割って歩く不死病患者たちは、神話の世界、朝も夜も閉じた無明の世紀を歩く霜の巨人ども、その足下を彷徨う亡国の放浪者であり、姿の見えぬ神に従う彼らは、異形の三輪バギーの行進に、些かの興味も示さなかった。そちらに真実など無いと知っているかのように。


 正しいと信じた方向にペーダソスは進んでいるつもりでいた。

 少なくとも、何もかもを手放し、永遠の楽園へと精神を霧散させた不死病患者たちよりは、正しい方位へ進んでいるのだと。

 確証はどこにも無い。

 果たして正しい道を進んでいるのはどちらなのか。心無き彼らが向かう先にこそ、真実があるのではないか。その疑念を捨てられるほど、飛行服の奥に納められた小さな心臓は平静では無い。自分の進む先が断崖ではないと誰が言い切れるだろう。飛び込んだ先に間違いなく望んだ景色があると、いったい誰が?

 彼方を見る。

 立ち尽くす避難民の影が遠く伸びて結実したような、あの暗い塔ダークタワーを見る。


 誰もが虹のたもとを目指して走る。だが虹にたもとなど存在していない。虹の始まる場所は、この世界のどこにも存在していない。

 そのことを自覚するたび、ペーダソスは背筋に氷塊を挿入されたような心地になる。

 あの塔を目指す試みに意味があると誰もが信じている。

 何の確証も無いまま、盲目的に走り続ける……。


 ひととき倦怠感を覚えた少女の肉体は、だから、考えないことを選ぶ。

 演算された魂が、いつものように思考に蓋をする。

 考えるのが怖いから、いつもと同じ道を進む。ただ真っ直ぐに進んでいく。

 少なくとも、この恒例のルートの先には、知己が待っていてくれる。



 いつもの地点で常連客の姿を発見して、ペーダソスはヘルメットの下で口元をほころばせた。

 リーンズィと、今はレアを名乗っている臆病なスチーム・ヘッドだ。

 二人並んでの来店は初めてだった。ニコニコせずにはいられない。


 しかしペーダソスの笑みは、段々と不可解そうに薄まっていった。

 途中から、非常に難解な絵画でも見るような目つきになっていた。


「おいおい……」


 レアとリーンズィの距離があからさまに近いのだ。

 手まで繋いでいて、センサーで検知できる限りだと、リーンズィなどは鼻歌を歌っている。

 気取られぬようにヘルメット内部の光学素子を望遠モードに切り替えて、同系列の不死病筐体を素体とするスチーム・ヘッド、レアと名乗る彼女の無防備な表情に絶句する。

 白髪赤目の儚くも猛々しいレアは、今や年頃の娘のように頬を赤く染めて、幽かに潤んだ視線を下に落としている。心なしか体の動きがぎこちなく、リーンズィと手を繋いでいるという事実が恥ずかしくて堪らないようでありながら、そのくせ手を離す様子が一つも無い。

 時折堪えきれなくなった様子でリーンズィの貌を見上げて、満更でもなさそうに顔を下げる。


 明らかにもう先輩と後輩の距離感ではなかった。


「ええ……え……マジで……?」


 ペーダソスは慄然として呟く。

 いつのものように移動販売車を停止させ、蒸気機関の炉を閉じて、改めて二人と向き直った。


「おはよう二人とも」二人はまだ手を繋いでいる。ペーダソスは決断した。「よし……聞きにくいことから聞いて良いか?」


「……応える必要を感じないわね」


 レアは小さな体を終始もじもじとさせていて、無意識であろう、もう片方の手でフライトジャケット風コートの裾をしきりに掴んで下げている。

 これはもうあからさまなほどあからさまなのに、絶対口に出さないやつだ。

 昨晩二人に何かあったのだ。

 確信したペーダソスは、潔くリーンズィに矛先を変えて、「どうだった?」と尋ねた。


「何がだ? ……何のこと?」


 ライトブラウンの髪の少女の態度は、たじろぐほどに平然としたものだった。

 照れた目をすることもなければ、頬を染めることもしない。

 仮に知り合って数日しか経っていないこの白髪の少女と一夜を供にした直後なのだとしたら、あまりにも肝が据わりすぎている。

 もしかして早とちりだったか、とペーダソスは口を引き結び、しかし鎌を掛けてみた。


「だから、レアのことだよ」


「昨夜のレアせんぱいはとても可愛かった」


 隠すことも無くリーンズィは頷いた。


「リーンズィ!」レアが小さく悲鳴を上げた。「そういう話は、そういう話は、他の人にしちゃいけないんだから!」


「いけないの?」


「いけないの!」


「お、おう……」ペーダソスは微妙な声を出した。「え……何がどうなって、そうなったんだ?」


 返答は期待していなかったが、リーンズィは素直に首肯して報告した。


「昨日、レアせんぱいが喜びそうなウサギのぬいぐるみを拾った。昨晩たまたま会うことが出来たから、プレゼントしたのだが、せんぱいがまたあの体温が高いモードになって、その後ずっと……色々と楽しいことをした。ずっと抱き合ったりしていた……」


「リゼ!」レアが手を離し、慌てて背伸びしてリーンズィの口を塞ぐ。「言い過ぎよ、あなた脳味噌が沸騰してしまってるんじゃない?!」


「沸騰していたのはレアせんぱいもだが……」


「リゼ!!」


「リ……だ、誰だ? リゼって誰だ?」


 ペーダソスは二人を交互に見た。

 リーンズィがレアの手から逃れながら頷いて知らせた。


「私だ。レアせんぱいに贈れるものがあまりないので、専用の愛称として捧げた。私はレアせんぱい専用で、リゼ後輩だ。なので、君は私をリゼと呼んではいけない。聞いたのも忘れて欲しい」


「そうか。いやそこに割って入るつもりは無いが。専用なんだな。分かった」


 これほどリーンズィの口が軽いとは思っていなかったのだろう。レアは動揺し尽して、不滅にして不老の滑らかな皮膚の額に汗までかきながら、今度は傍目にも指を折るつもりなのかと思うほど強くリーンズィの手を握っている。

 ペーダソスは困惑を深めた。


「いや、っていうか……進展早すぎないか? 仲良いのが悪いとはもちろん言わんが、でも、そこまで一気に進むか? 何かそういう雰囲気は俺も感じてたけど、まだちょっと先かなっていう理解だったんだが?」


「こ……こんなの……こんなの、こんなの」


 いよいよ観念したのだろう、白髪の少女は人形めいた美貌を生娘の如く赤く染めて、あちこちに目を泳がせた。


「クヌーズオーエ解放軍では親しければ誰だってすることでしょ。レーゲントもパペットも普通にしてる。普通にしてるの。その……そういうのも、昔と違って、そこまで意味があることじゃないし……これをしたから恋人になるとか、恋人としかしてはいけないってわけでは、今でも昔でもないし、あと、どっ、ど、同意の上なんだし……無理矢理したとかじゃないわよ? 何も問題ないんだから」


「ずっとされているほうだったのでは」


「リゼ! 黙ってて!?」


「まぁな、まぁ、うん……誰だってそうだな」

 ペーダソスは情け容赦を司る神経を最大限に稼動させ、部分的に聞かなかったことにして、二人を順繰りに見た。

「でも、その『誰だって』に、あんたは含まれてないだろ、ウンド……」


「わー!! ま、待って待って待って!」


「ああ?」


「ま、まだだから……」


 ペーダソスは、レアが仄かに赤かった顔を、さっと真っ青に変えたので、完璧に絶句した。


「は、マジで?」


「……マジよ」


 レアは気まずそうに目を逸らした。

 わざわざヘルメットを外して、ペーダソスは少女らしさの明確に残る顔の、その澄んだ両の目でレアを凝視した。


「まだ? まだ打ち明けてないのか?」


「その……うん……」


「もうやることはやったんだよな?」


「う……はい……リゼ後輩には……とても仲良くして頂きました……」


 謎の敬語だった。

 レアは俯き、そのまま地面に伏せてしまいそうなほど項垂れた。


「わたしはそれでも本当のことを言い出せなかった情けない先輩です……」


「マジで情けないぞ。猛省しろよ」


「ちょ、ちょっとキスして、いっぱりお喋りしただけだもん!」


「あれ、その程度なの?! 照れすぎじゃね?!」


「初めてだったんだもん、そういう清い関係を結ぶのは!」


「何の話だ? ……何の話?」


「気にするな、リーンズィ。そのうち分かる。なぁ、レア? レアは立派だもんな?」


 リーンズィは微笑む。「そのうち分かるのか? 分かるの? レアせんぱい」


「わか。分かる……」白髪の少女は明後日の方向を見ながら曖昧な顔で頷いた。「分からせてあげられると良いわね……」


 いかにも頼りなかった。ペーダソスは深々と溜息を吐き、電子レンジに放り込まれたダイナマイトでも見るような顔でレアとリーンズィを交互に見た。


「知人として言うけど、レア、その態度マジで酷いぞ? 仮に行くとこまで行ってなくても、かなり悪い感じの背任案件だろ。遠からず爆発するぞ? ぜったいロクなことにならんからな」


「違うわ、違うわ。あの、あの、この状態は本意じゃなくて……」白髪の少女はしどろもどろに舌を回す。「タイミングがね? あるでしょ、打ち明けるのも……支援を受けて色々予測したりしたんだけど、わたしも全然こういう経験ないし、とにかくデータが不足してて、万が一にも失敗したら国交断絶、戦争だって有り得るでしょ、だから、そこのあたりの見極めが……」


 ペーダソスは三輪バギーから降りて動力源の蒸気機関スチーム・オルガンを切り、これ見よがしに深々と溜息をついた。


「よわい……。よわすぎる。まだ飼い猫とかのほうが強いぞ」


「や、やかましいわ! 人を猫あつかいするな!」


「可愛がられ放題だったみたいだしあんた猫なんだろ?」


「見てきたようにそういうこと言うな!」レアは怒鳴った。「……わたしだってリードすべき先輩なのに不甲斐ないとは思ってる」


「リーンズィもいい加減分からないか? それとも、実は分かっていてレアと一緒にいるのか?」


「いや……あの、分からない。待ってほしい」


 今ひとつ状況を理解していないらしい背の高い少女は小さく首を傾げた。


「そもそも君は、誰だ? レアせんぱいととても親しそうに見えるし、私とも知り合いのようだが」


 ペーダソスはたじろいだ。「嘘だろ、俺だよ俺。分からないか?」


「理解しない。それと、さっきから疑問だったのだが、普段この移動販売所の店主をしているスチーム・ヘッドは、今日はどうしたのだろう? マスターという機体なのだが。本職の作戦中だろうか?」

 

 リーンズィの澄んだ声の問いかけに、ペーダソスは今度は彼女に呆れてしまった。

 まさか自分こそがマスター=マスター・ペーダソスであると気付かれないとは思っていなかったのだ。


「このヘルメットには見覚えあるだろ?」と抱えた装備を見せる。「今日は任務用のボディに乗ってるから、声は違うにせよ、喋り方でピンとくると思うんだが」


「そう言えばマスターには弟子がいると聞いていた……彼らは装備なども似ているのだとか」

 はっ、とライトブラウンの髪の少女は合点を得た。

「なるほど。弟子の人か?」


「だから、俺がマスターだよ! マスター・ペーダソス本人だ」


「……?!」

 リーンズィはペーダソスの、その成熟しきる前の段階で固定された肉体を見下ろし、戸惑った顔をした。

「でも、君はレアせんぱいの、その先輩かどうか、という程度のぐらいの顔と大きさだし、私の知っているマスターと比較して、かなりの差異がある」


 本気で分かっていないらしい。

 もしかするとこの機体はものすごく表層的な事実からしか物事を読み取れないのかもしれない。まるで子供のようで、不安であった。

 実際、ファデルからも、彼女はまだ子供のような人格なのだと聞かされていたが、ここまで洞察力に欠けるとは思っていなかった。


「よし、改めて自己紹介だ。俺こそが真のマスター・ペーダソスだ。言う機会無かったから言ってなかったが、こっちが俺のオリジナルの肉体なんだ。見ての通りガキで女だよ」


「そうなのか」


「そうなんだ。何だ、びっくりはしてないみたいだな」


「びっくりすることでもない。しかし、気付かなかったことを許してほしい」


「人工脳髄の本体はこの蒸気機関に搭載してるんだがな」

 こつこつ、とペーダソスは強化外骨格の背骨と一体化した外燃機関を叩いた。

「言っておくが、レアと違って、見た目通りのガキじゃ無いぞ。あんまり意味ないが享年もしっかり二十超えてるしな」


「では普段顔を合わせている不死病患者は? 不当に労務に従事させているのなら私も調停防疫局のエージェントとして放っておけない」


「そういうのには一人前に関心があるのか。面倒くさいやつだな」

 ヘルメットの下で眉根を寄せた。

「あれは軍時代の俺の親代わりって言うか……教育担当だった人の成れの果てだ。生前に許可は得てるよ」


「そうなのだな。手続き上問題がなく扱いが人道的であるのなら異論はない」


「それで? マジで俺が俺だって分からなかったのか? 全然? 割と分かると思うんだが……口調だって同じだろ」


「逆にみんなは分かるのか?」


「あーこれダメだわ。マジで分かってないわ」

 ペーダソスはレアに意地の悪い笑みを向ける。

「良かったなレア、鈍い後輩で」


「レアせんぱい、私はにぶいのか? にぶいの?」


「ううん。鈍くない鈍くない」

 レアはさりげなくリーンズィと手指を絡め、腕を抱く。

「ペーダソスの口が悪いだけよ」


「口が悪いとか、それこそどの口で言ってるんだ。ま、あんたのことなんか尚更分からないか。そのなまっちろいガキから、あっちのゴツいのにイメージ飛躍させるのは難しそうだし……おいレア、それを承知で黙ってるんなら、本当にそういうところだぞ」


「う……さすがのわたしも、反省はしてる……」


「情けない後輩を持って俺は悲しいよ」


「先輩ヅラをするな!」


「情緒面まで未完成品とは悲しいもんだね」


 途端、空気に火花が散った。


「……何。誰が未完成品って?」


 レアの赤い瞳が突如狂気的な輝きを帯びた。


「今、誰を未完成品だと言った?」


「あんた以外には該当機はいないだろ」


「人が言われるがままにされていれば!」

 レアが吠えた。理性による振る舞いと言うよりは、条件反射的な激昂である。

「ここぞとばかりに、完成された先達のように振る舞いよってからに! マスターだなんて偉そうにしておるが、所詮は高速戦闘機の失敗作だろうが! 未帰還が前提、使い捨ての運用しか考慮されていない試作機風情が、最高戦力の一つに数えられるこの機体を前にして、よくもぬけぬけと!」


「ああ? この期に及んで、人の開発経緯をあげつらって、その話題を蒸し返すのか? そこの新入りを騙くらかしてめでたくイチャイチャして、さぞや気分がいいんだろうな。いい機会だ、大好きなワンコの前で恥をかくがいい。俺だってあんたのその、性能に頼った腑抜けた性根について正直に言わせてもらうが……!」


「ダメだ! 二人とも、落ち着いて……」


 リーンズィが唇の前に指を立てた。


「三度目だぞ!」


「何がよ?」「何がだ?」俄に殺気だった二人が同時にリーンズィを睨む。


「夜が明けきる前に騒ぐのが。……猫の人が来てしまう!」


 にゃー、と猫の声がした。

 リーンズィはハッとした!


「来てしまった……!」


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