こちら移動式モーニングセット提供所①
手探りで通路の突き当たりに辿り着いて、少女は指先で触れたドアノブの冷たさに小さく声を漏らした。
そのとき、ようやく自分が手甲を身につけていないことに気付いた。
格闘戦の要となる大事な装甲部品だ。忘れてきてしまった。置いてきてしまった。あの、私を必要としていない部屋に……。
取り乱して、首輪の側面を撫でて、それから胸に掻き抱いたウサギのぬいぐるみの香りを嗅いだ。
焦げた中にも、不死病患者によって丁寧に扱われた品物特有の、甘い芳香が芳しい。その香りに埋もれて荒れた息を落ち着けた。
ミラーズに優しく抱擁された記憶が蘇り、心臓が鈍く震え、熱くなり、また虚しさを覚える。
勇士の館の廊下にも窓はあるが大半は鎧戸が下ろされている。振り返れども振り返れども、待ち受けているのは部屋の窓辺で見た景色よりもずっと深い沈黙の黒。過ぎてきた曲がり角の奥に目深に帽子を被った背の高い男の影が過ぎったような気がして身を強ばらせる。男は帽子の下にある蒼く燃える眼球でリーンズィを見ていた。蒼く燃える眼球は七つあり、手には炎上する球状世界の模型が握られていた。
「げ、幻覚、幻覚だっ」と少女は上ずった声で唱えた。
ぎゅっとぬいぐるみを抱いて、繰り返す。
「だいたい、この照度では身体強化したスチーム・ヘッドでも視界を確保出来ない……! 論理的に考えて、見えるはずが無い、だからそんなものは、存在しないっ」
目を瞬かせると、やはり男などどこにも存在しない。
何も見えない。何も。見えるモノは一つも無い。
リーンズィ自身が看破した通り、廊下は煙る暗闇の深度に揺らぎ、己のブーツの足先さえも覚束ない。
異様な存在がなくとも、この世界はリーンズィに非友好的だった。
極度の緊張が、常ならぬ異常な知覚体験をさせているのだろう。リーンズィは肋骨の奥で激しく脈打つ心臓を、服の上からぐっと押さえつけて、分析の真似事をして、意識を変性の状態から引き戻そうと努める。通常ならばユイシスが施す
加工されていない抜き身の生理的恐怖に、リーンズィは適応出来ないままでいた。不朽結晶製の聖詠服は、朽ちる定めにある万事を拒絶する。刃も、銃弾も、血も肉も。
しかし心まで硬く鎧ってくれる道具ではない。
窒息しそうな明け方の闇を意識すればするほど、押し潰されるような感覚が身震いを誘う。逃げることも進むことも出来ない。もし引き返そうとしたとしても、もう自分の部屋があった位置に自信が持てない。帰り着いたとして、ミラーズやアルファⅡモナルキアに、仲間として受け止めてもらえるか、自信が持てない……。
そうした判断にすら当然、根拠は無い。漠然とした恐怖感、見放されたのだという絶望感には、証となるものは無い。恐怖と絶望は常にそうだ。この世界で唯一、証明も対価も要求せず、常に人類の傍にある。
真実、この暗闇で、リーンズィには何のしるべも無い。
それだから、ぞっとするようなドアノブの手触りだけが確かだった。
冷え込んだ感触はきっと、館の外側から漏れてきた世界の輪郭だった。
手の中に世界はある。少なくとも、その切れ端は掴んでいる。
少女は決心をして、ノブを捻り、押し開いた。
目の奥がぱっと華やいだ。
ドアの向こうには、糸を辿るような儚い薄明がある。
最初に翡翠色の瞳へ光を入れたのは、あまねく黎明に淡く白ばんだ空。聳え立つ家々、ちぐはぐに改築された摩天楼どもに切り取られた空は地上のことなど一度も気にしたことが無いといった具合に澄んでいて、羊か兎のような形をした柔らかな雲が、温かな火を孕んで、優しい輝きを放っている。
リーンズィは胸いっぱいに空気を吸い、深く、深く息を吐いた。
雪原から掘り起こされた遭難者じみた真っ白な顔に、僅かに赤味が差した。
細い息を引きながら歩む少女の影法師。かつん、かつん、と無骨なブーツが外階段のフロアを鳴らす。補強に補強を重ねられて随分と歪な外観をしていたが、崩落する心配は無さそうだった。どの床面を見ても無数の爪先に擦られて磨り減っていた。ただ、幾つかの段は最近に再塗装を施されたらしく、奇妙なほど新しく見えた。
手摺りの向こうには、紺碧色をした沈黙の降りた大通りがある。
ずっと背後で、外に出るとき使ったドアが独りでに閉まった。不審に思って鉄扉を振り返ったのは数秒のこと。かつん、かつん。不朽結晶製の鋼板を仕込まれたブーツが、再び小気味のよい足音で階段を刻む。少女はライトブラウンの髪を風に任せながら、手摺りに素手を滑らせて、ゆっくりと館の下へと降りていく。
タングステン合金弾さえ徹さない突撃聖詠服も、冷厳な空気を完全に遮ることまでは出来ない。体を湿らせていた汗が結露して、露出した腕の柔肌には朝露が降りて濡れ始めていた。体感気温はどうしようもなく下がっていた。それでも視界の明るさと眺望の良さにリーンズィの気分は若干の和らぎを得た。
階段の最後まで、ついに誰にも出遭わなかった。
ふらふらと大通りに出た。息を押し殺した青黒い光の静けさ。平等の天秤を頂く女神の盲目の眼差しが、あまねく全ての上に注いでいる。目に映る一切合切が霧に包まれたかのように仄暗く、得体の知れぬ影のように見えた。無数に設置された街灯は一つも点灯していない。逍遙する人影は疎らで大半は不死病患者だった。管理外なのかそのように設定されているのかは分からない。陳腐な映画のゾンビさながらに、漫然と、のたりのたりと歩みを進める様は、しかしリーンズィとそう大差ないように思えた。
私にも彼らにも魂なんてものは無いのだ、と少女は少しだけ自嘲をした。いつわりの、いつわりの魂。どこにも向かう先なんて無い。
朧気な光の中をライトブラウンの髪の少女は歩き出した。行く当ても無かったが立ち止まっていると落ち着かない気分になった。誰にも出遭わない。あるいは、もう、あちらこちらの建造物の中では、スチーム・ヘッドたちが出発の準備を始めているのかもしれないが、攻略拠点の夜明け時は、活動を開始するには早すぎる時間のようだった。死して蘇った、死から拒絶された、憐れな不死病患者どもが、数えるほど僅かに、無目的そうに歩いているのみだ。
そんな中、街路にレーゲントが佇んでいるのが見えたので、立ち止まった。夜警かも知れないし、自分と同じように暗い街へさまよい出た類なのかも知れなかった。いずれにせよ、誰かと話したい気分では無かった。
レーゲントの顔かたちははっきりとは分からない。
ただ、動きに見覚えがあった。
観察していると、そのレーゲントはソプラノの声で楽しげに歌いながら、数匹の猫に纏わり付かれたり、その猫を持ち上げたり下ろしたり、猫と一緒になって転がったりして、遊んでいるようだった。
氷雪の粒子を呑んで銀灰色に煌めく濃紺の街並みを背にして少女が小動物と戯れている風景は、気鬱に塞ぐ印象派の画家が昼の冬庭で寒々とした空気を吸いながら手慰みに描いた空想の落書きのように、胸の休まるような牧歌的な色彩と、不吉なほどに場違いな印象を湛えていた。
自分も何かしようかとリーンズィは考えて、試しにウサギのぬいぐるみを上げたり下ろしたりしてみた。特に何の感慨も無い。そうして、自分には何も無く、そして何も無いのだということに、改めて打ちのめされた。酒場で地図と有り金を盗まれたことに気付いて遠くから踊り子を眺めている以外には何も出来なくなった行商人のように途方に暮れ、立ち止まったまま猫と戯れるレーゲントをぼんやりと眺めた。
暫くすると通りの向こうから異音が聞こえてきたので、今度はそちらに眼差しを向けた。
異音はどんどん大きく、重くなり、そのうちに整備不良の小型自動車が部品を落としながら走っているかと思わせる極めて不安定な音色になった。
暗い空に立ち上る、なお黒い煤けた煙のおかげで、蒸気機関を積んだなにがしかの機械が接近しているのだと理解出来た。
猫のレーゲントが全く気にせず遊び続けているので、リーンズィも特に警戒しないことに決めた。
これからどうするかを考えることの方が余程重要だった。
でも、幼いその少女には、何が近付いてくるのか、どうしても気になる。
見えてきたのは、奇妙な車両だ。荷台のような大道具を積んでいる三輪バギーだったが、近付くにつれてフレームにあり合わせの駆動部品を詰め込んだだけの恐ろしい工作物であることが段々と分かってきた。
車輪にはスチーム・パペットの何らかのリング状部品を転用しているらしく、前進する度にサイズの合わない古びたゴムタイヤからゴリゴリと石臼を回すような音が鳴っている。蒸気機関をエンジンにしているのだろうという予想は大凡正しかったが、中規模の蒸気機関がフレームの外側に明らかに無理矢理設置されていた。
知識が無いまま、形だけ整えて、とりあえず動くようにしただけの車両。リーンズィにはそのように思えた。とにかく意図の分からない部品が満載されていて、細部が識別出来るようになった頃には、リーンズィは困惑と興味で、考え事どころではなくなっていた。
三輪バギーの本体には潜水士めいたヘルメットのスチーム・ヘッドが跨がっていた。
彼は猫のレーゲントに手を振るなどしながら(無視されていた)、アクセルを緩めることなく近付いてきた。とは言え、恐ろしく緩慢な走行速度だ。牽いているのは荷台ではなくキッチンカーのジャンクだった。
どこに注目しても今にも事故を起こしそうな恐ろしい外見だったが、移動販売をしている車だということは辛うじて判断出来た。
どのみち自分とは関係が無い。リーンズィは興味が無い風を装いながらも感心を隠せない。腕を組んで細い顎に指を這わせ、ふむ、と考え込んだ。
「どう考えても軍事行動の一環では無い。クヌーズオーエ解放軍というからには、スチーム・ヘッドは戦うばかりが任務だと考えていたが、そこは人類文化継承連帯に連なる組織と言うことか……。スチーム・ヘッドも商いをしているのだな。どうやら思ったよりも多彩な行き先があるらしい」
リーンズィは行き先を、見捨てられた自分自身の行き先を考えた。
「いっそ彼らに紛れ込んで、普通の人間の、かつて生きていたような、商い人のような真似をして、調停防疫局なんかとは関係ない生活をしてみるのも良いのかもしれない……」
などと空想を巡らせているうちに、三輪バギーが目の前で停車した。
潜水士に似たヘルメットの販売員が「お、やっぱり噂のアルファⅡじゃないか」と陽気に声を掛けてきた。
そしてリーンズィの抱えているウサギのぬいぐるみを見て「ははぁ、なるほどなるほど」と頻りに頷いた。
リーンズィはびくりとして、それから「……私は君の考えているアルファⅡではない」と控えめな声で返事をした。
販売員は鷹揚に手を広げた。
「心配するな、余計な詮索はしないって。そうさ、俺の前では誰であれ、何であれ関係がないんだな。だって、それが俺の流儀だ」
「そうなのだな」既に余計な詮索なのでは? 少女は訝しんだ。
「でも一つだけ確認させてくれ。その大事そうにしてるぬいぐるみはウンドワートに貰ったんだよな?」
やっぱり詮索してくる。リーンズィは不親切な人リストにこのスチーム・ヘッドを登録した。
だが問いかけに応えないほど淡泊な気持ちにはなれない。
男の余裕に満ちた態度のおかげだろうか。
「……不本意ながら、そうだ」
「そうかぁー。あいつも、もうそこまで……。成長したなぁ。感動的だよ。友達第一号じゃないかね?」
リーンズィには何のことやら理解出来なかったが、一人で何らかの何かを分かった様子で、そのスチーム・ヘッドは三輪バギーから降りた。
そしてバギーの蒸気機関を停止させた。
どるん、どるんと名残惜しそうな音を立てて歪な車体は完全に停止した。
「どうして止まった?」
「良い質問だ。そう、本来このメインストリートは駐停車が禁止されている。到着して一日二日でこの攻略拠点の規則を把握してるなんて、さては優等生だな? でも俺はこの時間帯限定で営業許可を貰ってるから、どこで止めても大丈夫なんだ」
「いや、そうではなく」
何の話をしているのだ、と言いかけたが、不意に訪れた飢餓感に口を噤む。
不死病患者にあるまじき欲望。食欲をそそる香りだ。
キッチンカーから、芳醇な甘い香りがしているのだ。
リーンズィの精神は移ろいやすい。アンカーを降ろし損ねた嵐の日の貨物船のように。販売員の言うことよりも、彼の扱う商品のほうが気になり始めていた。
意識の空白を突いて、ヘルメットの奥からくぐもった低い声が問いかけてくる。
「それであんた名前はなんて言うんだ? モナルキアってのは、何人かいて、それぞれ別人なんだろ。あんたはなんて呼べば良い?」
応えるつもりは無かったが、甘い香りに誘われて、無意識に名乗っていた。
「リーンズィ」
「よろしくリーンズィ。今後とも贔屓に頼むよ。それで、紹介で買いに来てくれたんだよな。それともお遣いか? いやどうでもいいか。それこそ余計な詮索ってもんだよな。何にする? 何を買う? 久々の新規顧客だしサービスするぞ」
「……さっきから何の話だ?」
「何って、だから、俺に用があってここで待ってたわけじゃないのか」
「私は君を知らない」
「あれ、そうなのか。あいつから名前聞いてない? 名乗らない俺も悪いか。とりあえず今の俺は『マスター』と呼んでくれれば良いから」
「マスター? だれの主人なんだ。私は君の部下ではない」
「いや、この店のだよ。見ての通り、店のマスターだ」
「理解しない。どこに店がある?」
「これだよ、このバギー。キッチンカー付いてるだろ? 立派な店だよ。この手塩に掛けたオンボロが俺の店さ」
販売員は三輪バギーの座席を軽く叩いた。
そして何度か咳払いした。
「口上とかあげていいか? 宣伝文句みたいなやつ。恒例のやつなんだけど」
「こんな暗い時間帯に私一人に口上を上げて意味はあるのか?」
「おおう、辛辣。でも俺の心は真っ昼間だよ。これ言うとき割とウキウキするし」
全く口の減らないスチーム・ヘッドだった。
この奇妙な街で移動販売店を営むにはこれぐらいの図太い神経が必要なのかも知れないし、あるいは不死であるがために頭の箍が外れているのかも知れなかった。
「うーん……私に君の自由を制限する権利は無い」
「それじゃあ改めて。おほんおほん! 遠かったら口コミサイトで見よ、近い人はオルガン音で察せ! これこそは攻略拠点を旅する軽食店、知っている人には知っていて欲しい感じの、隠れた名店……」
リーンズィはミラーズの教えを思い出した!
「自分で隠れた名店とか言う手合いは信用するなと教えられているのだった」
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