夜明け前に少女は②

『やっと気付いたのですか』

 ユイシスは仕方なさそうに溜息をつき、ふわふわの金髪を掻き上げた。

『生命管制ユイシスよりエージェント・ミラーズへ通達。エージェント・リーンズィは、現在、思考機能を停止しています』


「え? どうして? あなたがロックしたの?」


『否定。彼女が自分で止まったのですよ』


 リーンズィは真実、一切の認知機能を停止させていた。

 サイコ・サージカル・アジャストが最大レベルで作動しており、あらゆる情動が消え去っていたためだった。

 定命の人間にあてはめて換言すれば、リーンズィは気絶していた。


 リーンズィの起こした不具合によって、会合はなし崩し的に解散となった。

 コルトはリーンズィの急変を気にすることなく窓を開けて、そこからひょいと飛び降りて姿を消した。階下から「ええええコルト少尉?! 自由落下はやめてくださいって!」と悲鳴が聞こえた。

 一方で、自分のせいでリーンズィが壊れたのではないかと思い詰め震えながら癒やしの原初の聖句を唱え始めたロジーを、あんまりリーンズィたちを邪魔しちゃ悪いとファデルが抱えて引き摺っていった。


「あう、あうあうあうあああ……こんなつもりじゃ……り、リーンズィさんが起きたら、また、また謝りに来ます、お母様……」


「気にしないで構いません。あなたのせいでこうなったわけでは無いみたいですし、それにこれは、どうやら、リーンズィに与えられた試練でもあるようですから。今日は会えて嬉しかったですよ、ロジー」


「わ、私も、私も嬉しかったです、マザー・キジール……ごめんなさい、嬉しすぎて、気が動転してしまったみたいで……」


「ほらほらロジー、もう行こうな。ミラーズ、それにユイシス。リーンズィはマジで大丈夫なのか?」


 ドアの外に涙目の聖歌隊の少女を押しやりながら、ファデルが問うた。


『推測。一晩も経過すれば再起動するのでは。寝る子は育つと言いますので、この機会に精々育ってもらうのが良いかと』


「うわ、スパルタぁ……」


「本当に気にしないで。リーンズィは強い子です。何があっても大丈夫だから」


「なら良いけどよ。あ、そうそう、もうすぐ日が落ちるが、ここの攻略拠点、照明関係は節約してるんだ。日が沈んだら大概の場所は真っ暗になるから気をつけてくれ」


 一息に言い切り、頭を下げ、扉を閉めようとする。

 それをユイシスが呼び止めた。


『意見具申。アルファⅡモナルキアには、発電による支援を行う用意があります。電力不足と言うことであれば、当機らに要請にしてください』


「あ? 申し出だけありがたくもらっとくよ。いや、電気じゃなくて単純に照明器具が足りてねぇんだ、変な話だけど」

 

 小麦肌の少女はブランケットの下で肩を竦めた。


「電球は、鉛筆や白い紙と同じぐらいの珍品だからな。昔馬鹿安かったものほど、どこでも買えたものほど、貴重になっちまってるんだ。困ったもんだよ、電気と銃とスチーム・ヘッドはいくらでもあるんだがなぁ……」



 夜になってからはミラーズとユイシスの会話も殆ど無かったようだった。

 少なくとも音声で会話したログはあまり残されていなかった。

 リーンズィはアルファⅡモナルキア本体にベッドまで運ばれたらしい。

 ログを参照した限りでは、ミラーズに介抱をしてもらったようだが、リーンズィには全く記憶が無い。

 おそらくは、人工脳髄が過酷極まりない現在の状況へ適応するために、処理能力を限界まで酷使していたためだろう。


「……状況への適応? そんなこと……」


 薄暮の暗がりの中で、裸の少女は眉を潜める。

 そんなものは、数秒もあれば完了するはずなのに。

 本当に人工脳髄の再起動に一晩もかかったのかは疑問だったが、昼間の自分が生身の人間ならば昏倒に近い状態に追い込まれていたのは事実だ。


「私は……いったい何について、それほどまでに負荷を……」


 誰にも聞こえないよう、乾いた口の中で囁き、黙考する。


 ミラーズ、ひいてはその前身であるキジールに、実子が存在した。

 それは分かっていたことだ。直接的に尋ねたわけではなかったが、朧気に理解していた。ミラーズは、生前の実年齢は定かでないにせよ、子を持つには若すぎる外見ではある。多くのスヴィトスラーフ聖歌隊の所属員の母親代わりをしていたのであって、基本的に実の母親ではなかったというのも事実だ。しかしキジールとヴァータの関係が実の親子であることは、出会った時点でほぼ自明だった。

 だからそのことに関しては、意外なことは何も無い。

 大主教リリウムの初代だったのは驚いたが、驚いただけだ。

 さして重要な事案では無い。


 リーンズィは手先で髪をいじりながら思案する。ショックだったのは、キジールには、不死病患者になってから、スヴィトスラーフ聖歌隊の一員として産んだ娘が複数いた、そのことだろうか。 

 違う、とリーンズィは目を閉じる。これに関しては予想していなかったが、アルファⅡモナルキアが製造された歴史においても、スヴィトスラーフ聖歌隊には性的な価値観や生命に関する倫理観が破綻していた部分があった。

 キジールが生まれた歴史で、生物実験のような行為が蔓延していたとしても然程不思議ではない。他者を操れるほど強力な聖句遣いは、リスクを冒してでも『増産』するだけの価値がある。この程度の可能性を推測するのは、決して困難なことではない。

 それに聖父スヴィトスラーフは、意図して口汚く表現すれば、否、どれだけ上品に言おうとも、間違いなくカルト集団の長だった。信徒であるキジールにも手を出していただろうし、ユイシスの提唱した仮説、不死病の抑制が可能ならば妊娠出産も可能という予測が正しいなら、彼との間に子供がいても奇妙では無い。


 いいや、いいや、とミラーズは目を閉じた。

 そんなのは些末ごとだ。

 答えは、実は最初から理解している。

 私はもっと現実を直視した方が良い、と言い聞かせる。


 取られた、と思ったのだ。


「私は、ミラーズを取られたと……そう感じたのだ」


 ロジーとミラーズ。

 二人の少女は、母と娘として、真剣に心から通じ合っていた。

 それが、ひと目見ただけで分かった。

 互いを思い合い、愛し合い、かけがえのない存在だと感じているのがはっきりと理解出来た。

 理解出来てしまった……。

 自分とミラーズがいくら情愛を重ねても、そんなものはままごとに過ぎないのだ。


 支配と被支配、後天的に付与された関係性では無い、血を分けた母と娘の姿。

 強制力を介さず交わされる愛情が、真実、そこには存在していた。

 自分などが入り込む余地など無かった。どのように検分しても、自分は後から付け足された異物に過ぎなかった。


 私はミラーズが好きなのだろう、とリーンズィは熱っぽい息を吐く。

 好きとか愛していると言った感覚は、リーンズィにはまだ正確には理解出来ていない。だが、ミラーズの特別でありたい。そのような意識が悪性の腫瘍のように、演算された魂に強烈に巣くっている。

 否定するのは、もう不可能だ。囁かれる愛の言葉がどうしようもなく心の襞を刺激し、唇を軽く重ねただけでくらくらしてしまう。

 私はミラーズを求めている、とリーンズィは暗闇に目を落とす。

 だがミラーズとの関係はどうしようもなく偽物だった。

 不格好に歪められた親子、恋人、徒弟、適切な言葉を見つけられないが……紛い物だった。


 何もかも無価値で、自分が思い違いをしていただけだった。

 あるいは、そう振る舞うことで自分勝手に充足を得ていただけ。ロジーとミラーズが交わす真の情愛に比べれば、自分とミラーズの関係など、小さな舞台小屋で恋人ごっこを演じる木彫りの人形の方がいくらかマシなぐらいだ。


 ああ、最初から、私はミラーズにとって、何でもなかったのだ。

 そう直観して、強烈な喪失感を覚えたのだろう。


 人工脳髄が安定化した今ならば理解出来る。

 さっきは自分自身に強がりを言い聞かせていたのだ。

 現在のリリウムが、ミラーズとスヴィトスラーフ聖歌隊の教祖との間に産まれた娘であると言う事実にも、結局のところ、打ちひしがれた。

 聖父スヴィトスラーフなる人物がどのような人間なのかリーンズィは知らない。だが、ミラーズは彼に、リーンズィにかけるのと変わらない、あるいはもっと実感のこもった、甘く優しい言葉を囁いていたに違いない。

 そしてついに彼の子供を授かった頃の彼女は――ミラーズでは無かった頃のミラーズは、いったいどんな表情をしていたのだろう?


 予想は付く。

 きっと幸せそうな顔をしていた。

 心からの愛に頬を綻ばせて、生まれてくる我が子のために歌い続けていたに違いない。

 だが、それが具体的にどんな有様なのかは思い描けない。

 見たことがないからだ。

 リーンズィには何も無い。何も知らない。何も分からない。

 リーンズィには過去が無い。

 記憶も愛も無い。


 静かに寝返りを打つと、キングサイズのマットレスの上で、金色の髪の少女が寝息を立てていた。

 ミラーズだ。部屋が暗くてやることがないので、日が昇るまでスリープモードに入ることにしたらしい。

 一糸纏わぬ姿で眠っているだけなのに、薄闇に浮かぶ小さな白い肢体、肉の薄い肌は恐ろしいほど滑らかで、蠱惑的に淡い光を照り返し、乱れた髪が、そのように条件付けをされているリーンズィの少女の肉体に、愛情の熱をもたらす。

 彼女の甘い香りが恋しくなったが、何故だか香りを感じることさえ、酷く躊躇われた。


 代わりに嫌な気持ちのする想像が次々と脳裏を過ぎる。

 きっと同じ光景を何人もが目にしたのだろうと、ライトブラウンの髪の少女は身を起こして嘆息した。

 そして私が得るのは何もかもが偽物なのだ。この金髪の、ふわふわとした髪の美しい少女から、その真の愛を受け取ることは出来ない……。


 何もかもは、彼女が「本当に愛した」ものにだけ与えられているのだから。

 私は彼女に愛せよと命じているだけ。何一つ本物じゃない。

 私は偽物にすぎない……。


 マットレスの上にいるだけで息が詰まりそうだった。

 そろりとベッドから立ち上がり、目を凝らして端に揃えられていたブーツを探して穿き、足音を立てないようにしながら、リーンズィは少女の裸体を明け方の澄んだ空気に晒しながら部屋を歩いた。

 入り口に置かれていたハンガーコートから突撃聖詠服を取り上げて羽織り、寝室を後にした。


 居室の出入り口にはアルファⅡモナルキアが衛兵のように直立していた。

 百年も前からそこに設置されていた戦士の像。

 さもなければ死体の回収に訪れた、棺桶を背負った葬儀屋。


 リーンズィはぎょっとした。モナルキアの手が、大型のフルオートショットガンを携えていたからだ。不死病患者の制圧に特化した、散弾を毎分300発も発射可能な、極めて威力の高い武器だ。

 装甲無しでは、まともに連射を受ければ挽肉になることを免れない。

 その対面には椅子が置かれていて、何時の間に拾得したのか、あのアルファⅡウンドワートから投げて寄越された少し焦げたウサギのぬいぐるみが置かれていた。

 リーンズィはその場で捨てたつもりでいたのだが、誰かが独自の判断で回収していたらしい。


 ちょこんと座らされたウサギは時計を抱えていて、カチ、カチと刻む歯車の音色が幽かに響いている。

 これに関しても、何かをどうにかせよと命じた記憶が、リーンズィには無い。

 また意志決定の主体であるリーンズィを無視しての行動だ。


「君たちは……私を何だと思っているのだ……いや」


 私は、君たちにとって、何なのだ。

 少女は泣き出しそうだった。

 ひたすらに不愉快で、居心地が悪く、何もかもから見放された実感があった。


 意思決定の主体としての権限を剥奪されつつある。

 もはや疑いようのない現実だった。

 フルオートショットガンの時点で明らかだ。アルファⅡモナルキアが新たに武装を取得したという記録は、リーンズィには与えられていなかった。アルファⅡモナルキア本体かユイシスのいずれかが、独自の判断で武装を入手したのだ。


 ウサギのぬいぐるみが時計を抱えていたのが前からだったのかどうなのか、それは記憶にないが、少なくともこのようにして飾れと命じてはいない。

 五時三十分という素っ気ない文字盤に、自分自身の、浅ましい嫉妬に燃えた、暗い緑色の眼光が映っている。



 こんなときこそ、アルファⅡモナルキアとして性能を発揮しているときの全能感が欲しかった。冷笑的でありながらもつらつらと冗談を囁いてくれるユイシスの声が恋しかった。ミラーズに、大丈夫ですよと頭を撫でてほしかった。

 本体に情報の照会を求めたが無駄だった。ユイシスも応答しなかった。

 ミラーズは何か知っているかもしれない。だが起こすのが恐ろしい。


 リーンズィは底知れぬ不安感に苛まれていた。誰からもお前などは必要とされていないと嘲笑われている気がした。どこにも居場所がなかった。この部屋から出て行きたいという焦燥に駆られる。インバネスコートの留め金を上から順番に留めていった。コートの前を完全に閉じ、不朽結晶製繊維の冷たさに震えながら戸口に立ったところで、ライトブラウンの髪の少女はようやく異常事態に気付いた。


 咄嗟に首輪型人工脳髄に触り、息を呑む。

 機能していない。

 アルファⅡモナルキアに意識の大部分を代理演算されてるはずののリーンズィは、今や自分自身の首輪の中だけでその機能を完結させられ、完全なスタンドアロンの状態で稼動していた。

 自分は今、アルファⅡモナルキアとも統合支援AIユイシスとも、まさしく有効なリンクを確立していないのだ。

 それどころか、エージェント・アルファⅡと何の関係も持たない、全く別の個体として処理をされていると言って良い。

 モナルキア総体へアクセスできない無力な少女には、一体いつからそのような状態にあったのか、見当も付かない。

 ぞっとするほど冷え切ったドアノブに手を掛けたまま、自分自身の本体であるはずの、選択的光透過性を持つバイザー、その内側に収められた二連二対の不朽結晶製レンズを覗き込む。

 咎める声も、助言の一つもありはしない。見返してくるのは薄暗がりの中で慄然として目を見開いている少女の怯えたような表情。

 無機的なそのヘルメットの下で、自我が無いはずの大柄の兵士が何を考えているのか、リーンズィにはもう分からない。

 否、いったいいつからそうだったのだろう……?


 間違いなく言えるのは、今この瞬間、かつて『私』だった何かは、この私に、全く関心を向けていないということ。

 一切合切の価値が認知宇宙から剥奪されて崩れ落ちる。

 眩暈にも似た感覚がリーンズィの背中を強く押した。

 端正な顔が悲嘆に染まり、眦に涙を浮かながら廊下へ転がり出た。

 途端、廊下の静寂と暗黒が押し寄せてくる。リーンズィは上ずった声を出して踏みとどまった。こんなにも闇が恐ろしいと思ったのは初めてだった。アルファⅡモナルキアには暗視機能が備わっている。ユイシスは既に音紋走査や熱源探知を駆使してこの勇士の館と名付けられた集合住宅の全容を把握しているだろう。

 だがリーンズィはもうそのどちらにもアクセスさせてもらえない。

 後退りして、部屋に引き返し、何か自分を守ってくれそうなものを探した。

 何も無い。突撃聖詠服に据え付けの蒸気機関も、マウントした斧槍も、脅かされた自己連続性を守ってはくれない。

 どんな暴力も自分の価値を保証してくれない。


 自分を見てくれているのは時計を抱えたウサギのぬいぐるみだけで、自分が自由に出来そうなものも、それぐらいしかなかった。


 ウンドワートからの施しものになど頼るのは癪だったが、得体の知れぬ街の暗闇へ逃げ出す供が他に見当たらない。

 大鴉の少女は美しい顔を沈痛に歪めながら、無垢そうな真っ黒な瞳をしたウサギのぬいぐるみを持ち上げて、有りっ丈の想いを込めて抱きかかえて、お前などいらないと暗黙裡に大合唱するその部屋から、逃げるように転げ出した。


 まだ醒めぬ夜の闇が、冷たい手つきで肉体を苛む。

 リーンズィは見知らぬ土地に放り出された迷子であるかのように、親から捨てられたことを悟った力も名前も無い少女のように、ふらふらと廊下を歩いて行った。

 せめて誰かに縋りたかった。誰かに大丈夫だよと言ってもらいたかった。君は必要なんだよと。でも、誰もいない。誰もいなかった。

 青褪めた美しい少女の顔貌には、空虚な滑稽さを嘲笑う自虐的な表情が張り付いていた。自分の周りには、最初から誰もいなかったのだ。

 このアルファⅡモナルキア、エージェント・リーンズィは、きっとそういう存在だったのだ。

 エージェントという身分さえも怪しかった。

 勝手に思い上がって、自分こそが本物だと勘違いしていただけだと、強迫観念的に確信していた。


 自己否定の熱に浮かされて少女は彷徨った。

 連れ合う仲間はただの一個。

 焦げ付いた、見窄らしいウサギのぬいぐるみを抱きしめて。

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