夜明け前に少女は①
墓場に満ちる濃霧に似た噎せ返るような夜の帳に祝福された薄明が降り始めた。
夜明けに焼かれた空が緋の色に焦がれたのは一つの吐息にも等しいほんの一刹那のこと。夜闇は程なくして濃淡の無い平らかな漆黒を取り戻す。やがて空を渡る淡雪のような雲が姿の見えぬ日輪の鞴から火の白を吹き込まれて蒼褪め産み落とされた不安げな種火が風の冷たさに頼りなく身じろぎをする速度で幽かに色づく。消えかけた焚き火を抱え込んだ世界。
夜の終わる。訪う朝の気配が、優しく、穏やかに、清明な声音で囁きかけてくる。
リーンズィは、ベッドに体を横たえて、首を傾け、薄目を開いてその風景を眺めていた。
スリープモード解除のプリセットに従い、日の出を感知して目覚めたのは数秒前のことだった。
何もする気になれなかった。
奇妙な倦怠感が全身に絡みついていて、呼吸をすることさえも煩わしい。
不死の病に冒された少女の肉体は聖詠服を剥がれ、鉄板の仕込まれたブーツも取り除かれて、今や一枚の布も身に付けておらず、夜露に濡れた無形のベールが、隙間風の指先で素肌を撫でるのに任せている。
あまりにも無防備で、無警戒だった。
本来ならばすぐに起き上がるなり、統合支援AIに状況を確認するなりして、状況を把握するところだったが、それさえも億劫だった。
ふわふわの羽毛枕が首を支えてくれるのに任せた。ただ呆然と窓外を見つめた。歩くような速度で褪めていくその暗夜の影を追った。
自分がこうしてベッドに横たわっている理由も、背を向けた場所から聞こえてくるささやかな寝息も、何もかもが夜闇の残渣に紛れて、曖昧だった。
ずっとこの輪郭の不確かな世界で息を殺していたかった。
そうしているうちにも、目前の世界は色づいていき、明るさを増していく。
不意に一筋、きらきらと輝いて、線を引くものが現れた。薄らと開かれた瞼が二度、三度と瞬きをすると、淀むところの無い翡翠の色をした瞳が煌めいた。
硝子に誰か見知れぬ少女が写っていた。リーンズィはじっと彼女の瞳と、彼女の肉体を見た。そこには娘が気怠げに身を横たえている。程よく筋肉のついた手足はしなやかで、年頃の少女としては出力が高い方だろう。しかし、しなやかな肉体は細く、焦れるほどに華奢だった。
少年のような毅然とした潔癖な顔立ちと、仄暗い淫靡さを漂わせる翠色の眼差し。相反した色合いを併せ持つ少女の顔には、見覚えがある。
リーンズィは奇妙な親近の念を感じながら、その少女をしばし見つめた。
上体をもたげて首を傾げると、ショートボブで切り整えられた髪を揺らして、その少女も首を傾げた。
霞がかった意識を徐々に覚醒させる。
触れようとして手を伸ばし、少女の首に首輪型人工脳髄を見つけたとき、「ああ、これは私だ」と少女は小さな声で呟いた。
夜が終わる薄明に照らされて浮かび上がり、鏡のように磨き上げられた窓硝子に映った自分自身の裸体を、リーンズィの人工脳髄はようやく『私』と同定した。
調停防疫局のエージェント、アルファⅡモナルキアが一人、リーンズィは、何故自分が知らぬ間に横たわっているのか、昨夜までのレコードを精査し始めた。
そうする過程で胸にわだかまるどんよりとした気持ちに気付いて、落ち着かなさそうに唇を舐める。
ミラーズこそが最初の大主教リリウムである、と分かったところまでははっきりと思い出せた。
だが、彼女の娘であるとされるリリウム・シスターズが数十名も存在し、うち何人かは実際にミラーズが出産していると聞かされた辺りから、記憶が怪しい。
他ならぬミラーズの口から「ロジーは私がお腹を痛めて産んだ子供の一人なのですよ」と聞かされたときには、頭を金槌で殴られたような錯覚があったのだ。
「実子なのか。キジールの。不死病感染前に、そんなに何人も……!?」
「ふん、分かってないわね。それは、私たちの長姉にしてスヴィトスラーフ聖歌隊の最初の戦士、真なる神の矛にして、キジール様が真に神に愛されし子であることの証言者である。定命の頃の実子はヴァータ姉様だけよ」
鼻を鳴らしながらロジーは聖詠服の胸を張った。
「私たちは、キジール様が神から不死の恩寵を授かった後に身籠もられて、褥を濡らす血で不死の洗礼を受けた新しい生命。新しい神、新しい世界、聖父様との約定による、神の愛の新しい証明のために魂を与えられた存在と言っても過言では無いわね」
「いいえ、過言ですよ」とミラーズが窘めるように付け足した。「あれ? 聖歌隊としてはそういう扱いなのでしたっけ。みんな可愛かったことしか思い出せないわ」
「ふ、不死病の患者が、どうやって子供を……」とリーンズィが気色ばんだところで、ロジー・リリウムが侮蔑を含んだ視線を向けてきたのだ。それも何となく覚えている。
「そんなの、神前で褥を供にする以外にあると思うの? 不死の恩寵のことを何も理解していないのね。
「そ、そんなこと出来るわけが……仮に、仮に妊娠出来たとしても、垂直感染で子供にもすぐ不死病が……」
『否定します。不死病の抑制が可能である場合のみ、理論的には可能です。シンプルな理屈ではありませんか。少しその熱々の頭を冷やしてはどうかと進言します。幸い、外気温は低いままのようですので、風邪を引かない考え足らずは外に出た方が丁度良いかと』
冷静に注釈を入れてきたのは、ミラーズと全く同じ顔をしたユイシスのアバターだった。
『完全に無毒化された不死病は、最初の生命活動の停止と同時に不死の特性を発現する、特異な身体状態に過ぎません。出産時点で胎児の肉体が無事ならば、母体が不死病患者であったとしても、胎児は通常と同様に出生すると予想されます。ただし、その時点で既に将来的な不死病の発症が確定している状態ではあります。しかし、なるほど、愛しいミラーズと当機の間にも子を設けられる可能性が……?』
「あはは。無理ですよ、私の愛しいユイシス。あの頃でさえ、最初から最後まで一秒も途切れることなく聖句を紡ぎ続けるのは大仕事だったもの。……リーンズィもびっくりしてるみたいだけど、ロジーの言うことはちょっと大袈裟だから。全部は信じなくて良いわ」
最初のリリウム、金色の髪をした小さな少女は、困ったように苦笑した。
やんわりとした否定を受けた栗毛のロジーが、拗ねた様子で身を屈めて、いかにも子供らしく抱きついてきたので、ミラーズは表情を和らげて彼女を抱いてあやした。
それから目を伏せているリーンズィへと言った。
「でもロジーが私の娘というのは真実です。キジールだった頃の私が、リリウムの名を譲ったレーゲントとの間に設けた……スヴィトスラーフ聖歌隊を拡大させるために授かった、聖なる子供たちの一人。女の子と女の子だから、身籠もること自体は学者さんの手を借りたわ。不死病のせいなのか聖句の力なのか、そういう加工がされてたのか分からないけど、どの子も実際に産まれてくるまで十月十日もかかりませんでしたし、成長も早かったのです」
「ま……待ってほしい。理解が……理解が追いつかないのだが……そ、そのリリウムとやらは……君がリリウムの名を譲ったその相手というのは」
ライトブラウンの髪の少女は青ざめて問うた。
「どこから来たの、だ……? 彼女はまた別のところから来た聖句遣い、レーゲントなのか?」
「いいえ? 私が聖父スヴィトスラーフと設けた最初の子ですよ。自然妊娠です」
リーンズィはくらりとした。
聖父なる人物と子供を作ったという事実で意識が飛んだ。
限界だった。
そこから後の記憶は、文字通り記録としてしか残っていない。
「不死病を研究していたあなたたちには、興味深い話かも知れないわね。一番最初の娘であるミチューシャ……えへん、地下街にいた頃に、あの口だけの憎たらしい不信心な男との間に授かった我が仔ヴァータが、私の力を部分的に濃く継いでいたのです。おかげで原初の聖句の才能はどうやら遺伝するものらしいって分かったの」
慌てて、ロジー・リリウムが耳打ちした。
「キジール様、聖句の件は聖歌隊でも最上級の秘匿事項ですよ。こんなどこの馬の骨かも知れない者たちに教えては……!」
ミラーズは目を細めた。
「どこの馬の骨か、と言いましたか。元を正せば、私もまた、どこの馬の骨とも知れない身ですよ」
「えっ。ち、違うのお母様、私は、そういうつもりじゃなくて……」
「そうでなくても、彼女たちアルファⅡモナルキアは、今は私の骨であり、血であり、魂のあるじです。私たちを救うために限界を迎え、あえなく黙契の獣へと堕ちてしまったヴァータ、あの子を救い、そして私を新しい旅に誘ったのが、まさしく彼女たちなのです」
ミラーズが淡々と言葉を重ねると、ロジーは途端に弱気になった。
「恩義はあるかもしれませんけど……でも……聖句は私たちの、スヴィトスラーフ聖歌隊の大切な……」
「今の私は、かつての私が彼女たちを通じて見ている夢のようなもの。しかも私の現在のた偽りの魂は、彼女たちの脳に間借りしたものなのですよ。つまり、彼女たちはその気になれば私の心など余すことなく覗くことが出来るということです。それを敢えてしない相手を、信じるべきでは無い。ロジーはそう言いたいのですか?」
怒気の欠片も込められていない、静かな威圧の言葉。娘はしゅんとした。
「い、いいえ、お母様が認められてらっしゃるのであれば。聖句の事実なんて、今となっては解放軍の幹部なら、誰でも知っていることですし……」
小麦肌の少女が口を挟む。
「そうだ、幹部って言や、アルファⅡモナルキアだって
「……わたしだってそれぐらい分かってるわよ、ファデル」
話を聞いているのだか聞いていないのだか分からない、そんな無関心さを顔に貼り付けていたコルトが不意に言った。
「だいたいね、ロジーくん。隠匿すること自体が無意味だよ。私たちフリアエ直轄機が皆似た顔をしている事実から、モナルキアは私たちが微細な差異を持つだけのクローンだと推測済のはず。君たちリリウムシスターズが同系統の顔をしている理由に辿り着くのも時間の問題だと思うよ。敢えてその妨害をする必要は、私も感じないかな」
「そ、そんな、コルトさんまで……」
誰よりもコルトからの追い打ちが効いたようだった。
「私は、た、ただ、お母様を想って……」
「皆さん、それ以上の言葉は不要です。ちょっと怖い言い方をしてしまいましたね。気を悪くしないで、私の愛しい娘、ロジー」
ミラーズは涙目で震える娘に優しく接吻をした。
「ただ、ここに迎えた彼女たちもまた、私の娘なのだと分かって欲しかったのです」
そしてリーンズィたちに言葉を続ける。
「……それでね、原初の聖句を遣う才能は遺伝するって分かったから、力の濃い聖句遣い同士で交われば、もっと強い聖句遣いが産まれるんじゃないかっていうことで、そういう計画が立ち上がったのです」
『納得しました。自然な流れですね』
硬直したままピクリともしないリーンズィに代わってユイシスが相槌を打った。
「その第一段階として、私に匹敵する聖句遣いだった聖父様との間に産まれたのが、我が子リリウムなのでした。……本当に天使のような子を授かったものだわ」
聖詠服の裾のあたりを掴みながら語る金色の髪をした少女は、少しだけ誇らしげであり、少しだけ恥ずかしそうでもあった。
「あの子が長じて、私たちを超える『原初の聖句』を示すようになったから、『妹たち』を増やす計画が聖歌隊で可決されて……そうそう、そうよ。そうです!」
何かに思い当たったらしく、ミラーズは目を輝かせた。
「やっぱりそう!
『ではミラーズの歴史にも我々、調停防疫局が存在したのですか?』
「いいえ、そのままの組織はありませんでした。名前がちょっと違ったと思います。防疫局ではなく、防衛局だったかもしれません。でも同じような人たちがいたはずなのです! ちょっと待ってね、記憶の残響を復元できるかもしれないから。えっと、何だったかな……えっとえっと……うーん。リーンズィ、それっぽい単語を挙げてくれない? ヒントになるかも。リーンズィ……あら? リーンズィ、どうかしたのかしら? 大丈夫? 顔が真っ青だけど……」
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