赤涙兎の騎兵隊①

『どうして私とあんたが戦っているのだか。因果なものよね、目指してる場所はきっと一緒だった。きっと道が違っただけ。あんたは理想に殉じる方を選んで、私はそんなガラじゃあなかった。……隠し事無しでちゃんと話し合ってさえいれば、今頃同じ側に立ってたのかもしれないわね』


 独白する赤い瞳は敵を見ない。

 全ての動作は、彼女が敵を像として認識するよりも前に確定している。

 赤く発光するレンズに映じるのは、コマ落ちしたフィルムのように不可解に蠢く狼の騎士。

 変異体・不朽結晶併用型スチーム・パペット、フェンリル型ベルリオーズ。

 極小範囲で展開されたケルビムウェポンに焼灼された異形が炎に飲まれて黒く淀んだのは刹那、影が揺らめき復元の完了した怪物が再出現する。

 復元と攻撃姿勢の変更は同時であり、正常な人間の知覚ではその不自然かつ急速な変移に対応出来ない。


 しかし赤い瞳は光を映さない。

 装填された不死病筐体ファウンデーション生体CPUリアクターは、敵を認識しない。

 理解しない。

 判断しない。

 そもそも加速度に耐えきれず身体は圧壊している。

 だから、ウンドワートの魂はそこにない。

 ただ、頭部から兎のような二本のセンサーポッドが僅かに蠢いた。


 現実など、理解する必要が無い。三十基もの人工脳髄による環境シミュレーションが世界受容を代替する。数百倍に加速された時間の中で行われる予行演習/事前意志決定/人知を越えた不可知速度領域への突入。

 それは機械たちの時間。

 0と1で組み上げられた静謐の領域。

 そこに人間性が介在する余地は無い。


『正直なところ、あんたと私にそこまで差があるとは思わないわ。性能は比較にもならないけど、精神性って言うのかしら。あんたは抑止に拘った。私は……強い自分を維持することに拘った。どうしてあんたじゃなく私の方が不滅者になってないのか不思議なぐらいよ』


 独白を聞く者はいない。

 機械で鎖されたその世界にはウンドワートしか存在していない。

 彼女の人工脳髄の内側にのみ浮かぶ泡のような思念。兎の騎士は赤いレンズから涙の如く光を漏らしながら、静止した世界を勇躍する。

 全ては虚構、全ては虚像。

 夢が終わり、現実が始まり、虚構に描かれた絵図が現実の爪痕を刻み込む。

 完全架構代替世界触媒式先進的破壊事象干渉。

 オルタネイティブワールド・カタストロフ・オペレーションの発動だ。


 ウンドワートに搭載された三十名分の人格保存媒体アイ・メディア装填済人工脳髄、その超高度演算装置に匹敵する処理能力に任せて生成される現実世界の完璧な写像。

 ウンドワートは、夢を見る。

 テクスチャを簡略化された灰がかった街並み、抽象化された瓦礫と標識の群れ。

 解決すべき主要な課題である狂乱の大鎧、不滅者ベルリオーズの周囲には、既知の行動パターンに関するタグが無数に貼り付けられ、そこから派生し得る攻撃のうち、蓋然性の高い最初の一手が、数十ほど重なり合った状態で表示されている。


 一切が静止していた。

 一切が虚像であった。


 夢の中で狩りをする。デイドリーム・ハント。蒸気甲冑の頭部のセンサーポッドや、全身に配置した観測素子で収集した情報から人工脳髄が組み上げた電子の代替世界。午睡の夢の殺戮の箱庭。

 ウンドワートの意志と思惟を無視しては誰も眠らず、誰も一つの言葉も紡げない。


 現実世界の選択的写像であるこの演算領域において、ウンドワートは絶対だ。

 この代替世界の幾ばくかの刹那を垣間見、好きなだけ巻き戻して自分の取るべき解を選択し、善き狩りを楽しむ。

 どれだけ通常のスチーム・ヘッドが加速したところで、機械たちが夢見る戦術的判断の一瞬の閃きと比べれば、何者も止まっているのと同じだ。

 望むがままに未来をデザインしたならば、あとは確定させて目覚めるだけ。

 少女の赤い瞳は何も見ない。すぐに潰れて、眠ってしまうから。


 演算完了。兎を模した大型蒸気甲冑が胎内に格納した不死病筐体の耐久性を度外視した極限加速を実行する。

 ベルリオーズは鎧を鎖鋸のように組み替えて周囲の建物ごとウンドワートを轢断しようとしたが、その切っ先はついに何を切り裂くことも無かった。

 ウンドワートは建造物群の狭間を縦横無尽に跳ね回り、死角から重外燃機関を引き裂き、胴体をケルビムウェポンで焼灼し、一繋ぎの輪となった連結刃の装甲群を、紙切れのように裁断する。


 ウンドワートが老爺の声で吠え猛る。


『曲芸師の真似事は終わったかぁ!? いい加減に戦士としての意地を見せればどうじゃ? 犬ころにそんなプライドがあるならばの話じゃがのう!』


 その言葉に熱は無く、心は無く、魂は無く、一瞬の静止のあと、目覚めて、夢を見る。

 夢から覚めて、敵を狩る。

 狩りの最中にまた眠る、壊して、壊して、壊し続ける……。



 割って入ろうというものは一人もいなかった。ただその完璧な合理性に裏打ちされた破壊に魅了された。

 誰もその動きに追いつけない。意識や推測が及ぶことさえ無い。


 人間という存在は、遅い。

 遅い時間に囚われて生きている。

 根本的な問題として、人体を構成する器官は、人間性を超えた領域に対応していない。例えば外界を受容するための『見る』という行為それ自体に、耐え難いほどの遅延が存在する。

 水晶体が光を捉えて網膜に投じ、パルスが視神経から左右の大脳視覚領域に到達し、さらに脳髄のそこかしこに情報を伝達。補正された情報が、意識を実行する主体へと入力されるのだが、この時点で実に20ミリ秒以上の時間が必要となる。

 そこから如何に身体を操縦するかについて判断を下し、改めて全身の筋肉へと信号を送らなければならないのだ。

 最終的には、人間が理解する現実と、絶対的に存在する客体としての世界は、大きく乖離する。


 無論、人間たちの時間を基準とした都市、人間たちの可知世界では、その程度の遅延は何の問題にもならない。

 それが人間たちの時間。

 死に急ぐことを免除された安逸だ。

 だが破壊的抗戦機動に突入した戦闘用スチーム・ヘッドならば、20ミリ秒もあれば敵の抵抗能力を削いで首を刎ね、人格記録媒体を破壊してもまだ猶予がある。


 ウンドワートはさらにその上を行く。

 状況を判断して一連の連続破壊を実行し終えるまでの時間は、恐るべきことに3ミリ秒にも満たない。

 執拗にシミュレーションを繰り返し、数度の試行でベルリオーズの言詞甲冑を最高効率で破壊するルートを確定。

 静止した電子の箱庭で朦朧としながら少女は思い出を紡ぐ。


『最強の座をかけて争ったことなんて、どうせ覚えていないんでしょう。お互い死に損ない、お互い勝ち続けるしか能が無い粗大ゴミ、仲良く出来るかもしれないと思ったこともあったけど、結局はこうなる』


 白昼夢は閉じ、現実が開き、そして赤い瞳は何も見ない。

 未来予測演算を利用して最適な攻撃パターンを入力すれば後は何もしなくて良い。フレームを策定して超高度演算装置を補助する。それが、最大の戦闘能力を発揮する段階において、彼女が担うべき役割の全てだ。


 ウンドワートの影が閃光となった瞬間に何が起きているのか、その場にいる誰にも正確に認識出来ない。

 人間たちの時間はこのレベルの超加速を解釈できないためだ。

 機械たちの時間は、人ならざる身でありながら人間の時間に囚われている狼の騎士ベルリオーズにも当然反応不能だ。

 主観時間ではほぼ同時に撃ち込まれた複数の致命の一撃に『ぎ、が……?』と唸り声を漏らす。


『遅い遅い遅い遅い! どうしたベルリオーズ、浅ましい猫の奴隷に成り下がったと聞いたが、猫というのは然様にのろまで、情けない生き物だったかぁ!?』


 その嘲笑の声すら事前に設定したもので、リアルタイムで発声しているものではなかった。ウンドワートの魂は眠っている。思考が可能な状態ではない。極限加速の加重と震動によって彼女の生体脳は著しく損壊し、生体CPUとしてはまともに機能していない。

 全力を発揮する場合、ウンドワートは思考判断から動作実行までの全行程を人造脳髄と蒸気甲冑に依存した機体にならざるを得ない。最大加速度でのデイドリーム・ハントの後に発される言葉は全て完全架構代替世界でリハーサルした行動をなぞったお遊戯に過ぎない。

 これも三十名分もの人格記録媒体装填済人造脳髄を超高度演算装置として利用しているからこそ出来る荒技だが、だからこそ生体CPUが存在としてあまりに軽いことが浮き彫りとなる。


 ――とは言え、人間とはしょせん、その程度のものだ。生得的に与えられた領分を超えられない。本来的には、何十倍にも加速するような不自然な挙動は実装不可能だ。そのような力が出せるように設計されてはいないし、仮に実現可能でも壊れてしまう。

 戦闘用スチーム・ヘッドならば、勿論事情は異なる。

 使用している不死病筐体ファウンデーションも結局はヒト由来のものに過ぎない。如何にも脆く儚い血肉である。

 しかし、不死病の再生と適応の特性がそれらを解決する。破壊的抗戦機動の回数を重ねる毎にその致命的な過負荷に順応していき、やがて生体脳の神経伝達経路は最適化され、神経網すらも不朽結晶を含んだ高速通信回線へ置き換えられていく。さらには人工脳髄も超高速機動の演算を補助する。

 だが、それら超人的な身体運動も、所詮はヒトのカタチ。その枠内に収まるものだ。

 ただ限界に肉薄するのみ。

 次の段階へ、存在としての『臨界』を迎えることはついぞ叶わない。


 あるいは不死病筐体自体は、いつか変移の果てに人類を超越するだろう。陥穽はむしろスチーム・ヘッドに偽りの魂を吹き込む人工脳髄、その人格記録媒体にこそある。

 不死病筐体で実行されている擬似人格、その抽出元は、人間の粗い感覚器で知覚可能な狭い宇宙しか知らない。

 肉体がどれほど高度化しても、今度はソフトウェアがそれに対応しなくなる。

 スチーム・ヘッドは人間の時間の囚人に過ぎず、人間に見えるものしか見えないし、人間に聞こえるものしか聞こえない。

 人工脳髄で拡張しても、人間は人間の時間からは逃れられないのだ。


 だから、ウンドワートは赤い瞳は何も見ない。

 現実など必要ない。

 人間たちの時間は遅すぎる。


 必要なのは機械たちの時間だ。


 再生を遂げた赤い目が開かれ、景色を写す。その瞳は何も見ない。


 生体CPUリアクターの再生完了と同時にウンドワートはデイドリーム・ハントを即時再発動。

 写像の王国に一人佇むウンドワートは、現とも幻とも言えない浮遊感の中で周囲の環境から取得した情報を精査し、ボロボロに引き裂かれたベルリオーズの姿を確認した。

 未来予測演算通りの結果だ。一度行動を確定させてしまうと実際の経過がどうなろうとも全工程が終了するまで止まらないのがデイドリーム・ハントの難点だが、こと不滅者との戦いにおいては不利益にはなり得ない。


『悲しいわ、悲しいわ。以前のベルリオーズなら私のデイドリーム・ハントにも少しは対応してみせた。腕の一本は切るのを免れたり、脊柱まで断ち切られるところをギリギリで食い下がったり……だけど残念ね、数えるほどのパターンと反射的な迎撃行動しか取り得ない不滅者だもの。もはや少しの智慧も働かない』


 ウンドワートは嘆息する。

 実際にはその世界に肺はなく、口はなく、呼吸すら存在しない。あくまでも感覚的なものだ。

 同時に限りなく現実的である。


『不滅者のオーバードライブは、他の不死病患者の生体脳髄に相乗りしたもの。最大出力ならば人工脳髄だけで稼動出来るのがデイドリーム・ハントなんだから、その機動には干渉できないのが道理。分からないでしょうけど、ベルリ、最初から勝負になってないのよ。もうどうしたって私の独壇場になる』


 ウンドワートが独白している間にも、写像の世界は未来の鏡となって眼前に立ち現れる。

 右腕の関節を延伸させたベルリオーズが泥のようにまとわりつく空気を割り進んでくる様が在り在りと見えた。

 のたうつ右腕はフェイントを交えつつ自分の左腕を掴んで引き千切り、射程を単純に倍加させ、ウンドワートをその旋回半径に捉える。

 刃の鞭で胴体を捉え、絡め取って、ウンドワートにアームの先端を打ち込もうとしてくる。


『はい、リテイク。あと何万回でもそれやってて』


 ベルリオーズの状態がデイドリーム・ハント発動の初期位置に巻き戻された。超高精度の未来予測の空間においてウンドワートは無敵だ。

 基本的にベルリオーズよりもウンドワートの完全架構代替世界触媒破壊による行動の方が桁違いに速い。極めて物理的に、シンプルな意味で速度が違う。この零落したオオカミの騎士が相手なら、策を弄さず真正面から殴りに行っても全く問題無いと兎の騎士は判断する。


 だいたい、とベルリオーズの行動を呆れながら品評する。この阿呆の狼が猛烈な勢いで行動し続けるがために、対手は勝手に怯み、迎撃に際して混乱してしまう。

 きっとそれは凡百の兵士を滅殺するには最適の技法なのだろう。

 だが動きの所作を丁寧に解体して分析すれば、ベルリオーズの戦闘機動など最短経路での最大破壊を狙うばかりの単調で退屈な行動パターンの集合に過ぎないと分かる。それ以外の派生行動、例えば反撃された際の選択肢など、まともに用意していないに違いない。


 つまり最後の粛清戦以来、ベルリオーズは何の進歩もしていない。むしろ退化している。彼を駆り立てた狂気によって。

 狂ったその日を、永遠に繰り返しているだけ。

 戦闘という対話が成立していない。ベルリオーズからの攻撃にいちいち創意工夫に富んだ応答を返すのも馬鹿らしくなり、ウンドワートもまた定石通りのパターンを入力して応戦する。

 夢が閉じ、現実が開く。

 赤い瞳は何も見ない。


『遅い遅いッ! 欠伸が出るぞベルリオーズ! そんなにナマスに刻まれて市場に並べられたいかぁ?!』


 アルファⅡウンドワートは先行入力された通りに音声を発しながら、世界が瞬きをするのと同じ速度で懐へ飛び込んでいた。

 カウンターで繰り出された大型蒸気甲冑の左の爪が、異形の狼の胴体を貫き、同時に射撃の委託先を確保。右腕を頭部から破砕して、顎部へと電磁加速砲の銃身を突き刺して、ケルビムウェポンの磁場安定器を射線に捉え、体内に向かって不朽結晶弾頭を乱射。

 ベルリオーズと弾頭の間に結晶純度に大した差はないが、膨大な量の弾丸はいずれ全ての障害物を磨り潰して敵中枢を撃ち貫く。本来なら不死病筐体が存在するべき部位へ執拗に弾丸を流し込む。

 通常のスチーム・ヘッド戦ならば既に決着が付いているレベルの速攻である。


 ベルリオーズは抵抗しない。あまりにもウンドワートの攻撃が速すぎたため、自分が破壊されたことに未だ気付いてすらいない。

 そして、そこまでの行動を終えても赤眼の兎の騎士は、己の時計を止めていない。

 不朽結晶装甲の第一層がベルリオーズの粘菌流動人工筋肉と癒着する前に、理性的な動きで以て退いて、背後から迫るベルリオーズの刃の鞭へと自分から接近。大兎の五本の爪をピアノ演奏者の如く振るって切断する。


『見えるぞ見えるぞ、止まって見える……どうしたベルリオーズ、情けないではないか。犬死にするのが趣味になったのか? ならば犬ころらしくくたばって、そこで無様に果てるが良い!』


 崩れ落ちるベルリオーズを前にして、しかしウンドワートは自分が何を言っているのか理解していない。

 これも全てデイドリーム・ハントの最中に先行入力した合成音声だ。

 全自動連続攻撃を解除したウンドワートは一時半自動モードに切り替えて、鎧の内部での生命管制を重点強化。圧壊した不死病筐体の肉体再生を開始。

 一方で熾烈な連続攻撃を受けたベルリオーズの言詞甲冑は、同時に複数箇所を破壊されたことで多重構造連鎖恒常性リダンダンシーが崩壊していた。狼を模した、もはや狼とも言いようのないガラクタの大型蒸気甲冑は、捻れて歪んで膝をつき、行動を仮初めに停止させている。今や見る影も無い。何の価値も無い瓦礫の山に過ぎない。

 不死の実態を知らぬ幸せなものからすれば、それは命潰えた残骸だ。


 だとしても、滅びることは決して無い。

 肉体ではなく己の使命オーダーを真実、存在継続の礎として、人間としての言葉を捨て去り、大主教ヴォイニッチの祝福を受け、己自身を忌むべき宿命そのものへと仕立て直した存在。

 ――それこそが、不滅者テスタメントである。

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