クヌーズオーエ操車場

 海辺を越えると、眼下の景色は途端に平穏なものに変じた。

 ただの荒れ地だった。

 おぞましく歪な塔の群れなど世界のどこにも存在しないかのように思われたが、しかし言い知れぬ圧力が、狂える世界の実像として、確かに背後に存在している。

 演算された偽りの魂がどのように感じようとも、かつて限られた生を生きていた肉体は、生理的な反応によって雄弁に現実を語っている。


 十数分後に、小規模な市街に行き当たった。

 ユイシスに街の名前を尋ねると、わずかな間を置いて『不明です』と返事があった。


『当機に収録されている地図情報が正しければ、この近辺に市街地は存在しません。地図情報に問題があるか、空路を誤ったかの、いずれかでであると推測』


「どうであれ、街は現実に存在している。局内規定に従って、呼びかけを行わなければならない。非常用周波数で改めて無線機を起動」


『了解しました。広域無線放送、レディ』


「……こちら調停防疫局、エージェント・アルファⅡ」

 兵士は淡々と語りかけた。

「応答を求む。こちら調停防疫局、エージェント・アルファⅡ。応答を求む。感染者、スチーム・ヘッド、人工知性、どのような形態でも当方は区別しない。現在、困難な状況にある全ての人類に対し、苦痛を取り除くための、最大限の支援を行う意思がある。意思疎通が可能な残留者は、どうか応答してほしい。こちらは調停防疫局、エージェント・アルファⅡ……」

 

 幾度か繰り返したのち、見えざる協力者に問うた。


「どうだろう、ユイシス?」


『応答ありません。一切の信号がありません。コーラの瓶がブラインドの紐に引っかかっている、ということさえ無いと予想されます』


「そうか」

 アルファⅡはこっくりと頷いた。

「ところで……それって、よくあることなのか?」


『主語が不明です』


「つまり、コーラの瓶がブラインドの紐に……」


『それは冗談です』


「何の? どういう? 冗談? 何がだ?」


 アルファⅡは至って真剣だったが、明瞭な返答はなかった。

 代わりにユイシスに『貴官はボケ殺しです。エースになれるでしょう』という賞賛をされたので、「そうか」とこっくりと頷いた。



 さほど広い街ではない。上空を通り抜けるのに時間はかからない。

 しかし、レンズによる望遠拡大とユイシスの解析支援を併せれば、十分な観察が可能だった。

 どこまでも荒廃していた。伝統的な色取り取りの屋根を持つ家々は色褪せて、腐敗し、崩れ落ちている。

 いっぽうで、急造されたと思しき無骨な鉄筋造りの収容施設は陽光の下に死の断絶を匂わせる灰色を晒して、全くの健在だった。

 草叢に倒れている看板を、視界の片隅に切り出して拡大する。

『クヌーズオーエ操車場』。

 ユイシスの地図情報には、そのような施設の名前は確認できない。


 街の路傍には、こちらを見上げている影が幾つもあった。

 不死病患者だ。

 服は朽ち果てていた。長らく風雨に晒されているのだろう。通常の手法で縫製された衣服は、そのような状況では、あっという間に崩れて、人間の肌を保護するという機能を失ってしまう。

 彼らは揃って裸の有様だったが、肌に汚れたところは一つも無く、土埃に塗れているべき髪も鮮やかで、機上からその色をはっきり判別できるほどに清潔だった。

 彼らは確かに生存していた。

 しかし、手を振るでも、追いかけてくるでもなく、エンジンの音に反応してこちらに視線を向けるだけで、それ以上の活動は見られなかった。未来永劫一人きりの楽園に閉じ込められた憐れな、幸福な者ども。


 手入れのされていないアスファルトは雑草に覆われ、あるいは忘れ去られた墓標のようにひび割れ、路上に放置された車は一つ残らずタイヤがパンクして、ボディの塗装も随分と剥がれている。ただし事故を起こした形跡はない。純粋に放置された結果のように思われた。

 痩せ細った野犬の群れが、人影の足下を擦り抜けて走り回り、じゃれ合っている。感染者たちはそれにも無関心だった。野犬も人間を無視していた。何を食べて生きているのかは不明だが生態系が根こそぎ消滅するような惨禍は起きなかったらしい。


 そうしたある種牧歌的な光景の中に、厳めしい彫像じみた鋼鉄が混じっている。


機械甲冑マシーナリー・ギアが展開している……?」


 漏れた呟きに反応したユイシスが、アルファⅡの視覚に、解像度を補正した画像を表示した。


『いずれも標準的な形式です。治安維持組織のものと推測されます』


「電子攻撃対策が済んだ後のモデルか?」


『不明です』


 機械甲冑マシーナリー・ギアは、金属の装甲板を備えた強化外骨格だ。

 いずれも黴が根を張り赤錆に塗れている。

 人体を容易く踏み潰し、無数の重火器を吊して活動する、それら古い時代の主力兵器は、もはや不用とばかりにあちらこちらに乱雑に脱ぎ捨てられており、空っぽのコックピットには、雪解けの水か、さもなければ雨水が、腐れた不潔な溜まりを作っている。

 まだ動く機体もあるのかもしれない。しかし、大半はスクラップだ。

 通常ならば放っておけるような資機材ではない。

 感染を免れた残留者が組織的な活動を継続している痕跡は皆無だった。


 街は低層建築物だらけだったが、一棟だけ高層住宅があった。

 あちこちの窓から多種多様な砲塔が顔を覗かせている。改築を経て、武装した監視塔として運用されていたようだが、やはり打ち捨てられていた。

 屋上には、常ならず重武装の機械甲冑が一機。

 機械仕掛けの巨人は横倒しにした電柱にも似た異常に長大な電磁加速砲を抱えている。アルファⅡの記憶が確かならば、その砲は本来は限られた状況においてのみ運用される兵器だ。

 とぐろを巻くように高電圧ケーブルが張り巡らされているが、電力の供給はとうに途絶えていることだろう。遺棄されて久しいらしく、機械甲冑自身の部品の継ぎ目からは、雑草が方々に生い茂っている。

 ユイシスが電磁砲の砲身に『解析:低純度不朽結晶連続体』とラベルを貼り付ける。何もかも朽ち果てた風景で、永久にして不滅であることを約束された物質で構築された破壊兵器だけが、製造当時の真新しさを誇って、冷たい冬の太陽を照り返している。

 砲弾を放つ機会は、この先、永久に無い。


 例に漏れずコックピットのハッチは開かれていて、しかし機械甲冑の傍らには、誰かが座り込んでいる。

 準不朽素材の薄汚れたパイロットスーツに身を包んだその兵士は、電極が露出した旧式の疑似人格再生装置プシュケ・ドライブのフルフェイス・ヘルメットを膝に載せて、呆然と空を見上げていた。

 スチーム・ヘッドなのだろうが、機能を停止している。

 終わらない任務に疲れを覚え、ほんのひととき機械甲冑を脱いで、ヘルメットを外し、空を見上げ、その青の美しさに生まれて初めて気付いたといった調子で目を奪われ、一通り泣きはらして、そのまま意識の揮発という最期の瞬間を迎えた。

 そのような姿に見えた。

 無論、想像に過ぎない。

「感傷だな」とアルファⅡは呟いた。そして頷いた。「これが感傷というものか。思い出した」 

 幸せな最後に見えた。


 気がかりなのは、その兵士と機械甲冑がということだ。

 何を警戒し、何のために大型電磁加速砲のような大仰な兵器を持ち出していたのか。

 何せ射出された弾頭が第二宇宙速度を超えてしまうため曲射が出来ないという極端な代物だ。威力は絶大であるにせよ用途は非常に限られている。


 海岸を背にして、陸地に向けて砲を構えていたというのならば、理解は出来る。

 他の都市で発生した悪性変異体。

 全自動戦争装置の統率する人類文化継承連帯。

 感染による人類救済を掲げるスヴィトスラーフ聖歌隊……。

 そういった、抵抗すべき敵と呼べる存在の殆どは、内陸部からやってきていたはずだ。

 一方で海岸の向こうには、アルファⅡたちが眠っていた、正真正銘の凍土が存在しているに過ぎない。少なくとも末期の調停防疫局を警戒する理由は無い。存在すら知られていなかったはずだ。

 他に思い浮かぶものと言えば、海岸を埋め尽くすあの忌まわしい塔の群れだ。

 兵士たちは塔の立ち並ぶ海岸を監視していたのかもしれなかった。


『視認した全ての全建造物と機械甲冑を解析しました。戦闘が起きた形跡はありません』


「仮想敵には、何を設定した?」


『人類文化継承連帯です。我々調停防疫局が北欧から撤退せざるを得なかった背景には、彼らの躍進もあります。ノルウェーは彼らの攻撃を受け、現在も占領されていると想定するのが適当です』


「奇妙だ。彼らとやりあったのなら、街も兵士も、無事では済まないはずだ。継承連帯のスチーム・ヘッドたちは物理的に壊すという機能に特化しているし、降伏勧告を突きつけるのは、決まって徹底的な攻撃を加えた後だ。起きるべき戦闘、あって然るべき破壊が、無い。何かがおかしい」


『肯定します。市街地の様態は、現在の敵対組織の戦力分布を想定する上での重要なファクターです。ただし、そのタスクの処理は、着陸後に回すべきかと思われます。現時点では如何なる脅威も確認できていません』


「しかし、どれぐらい前にこうなったのだろう。解析は済んでいるか?」


『機械甲冑の腐食の進行度を鑑みると、該当未登録市街が放棄されてから、最低でも三十年は経過しています。他はごく有り触れたものです。この街は、ただ単に、滅びています』


 三十年という歳月の経過には留意すべきだったが、ユイシスが指摘した通り、街のそのものに特異な点は無い。

 典型的な、この不死の疫病の時代の、不死の疫病によって滅ぼされた街の情景だった。

 急造された収容施設や、補強されて窓のない病棟のように作り替えられた家々。

 おそらく何百、何千という数の感染者が閉じ込められている。

 彼らは不死の病がもたらした醒めない眠りの中を揺蕩うのだ。

 餓えることもなく、乾くこともなく、喜びも、怒りも、悲しみもなく。

 この地図にない街の片隅で、永遠に、静かに、安らかに……。

 

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