不死病
感染した者は、不滅となる。
死の概念が肉体から剥落する。
切り刻まれようとも、焼き尽くされようとも、決して滅びることが出来なくなる。
それが『不死病』と俗称される疫病の特徴であった。
不治にして不死に至る病。
統一的な名称は定められていない。カイン症候群、多発性多臓器過活性、ソドムヒトモグリ蛹竹による異常代謝、アレクシス・カイルの黙契、審判の徴。数千の医療機関と宗教団体が、数千の仮説を立て、数千の名前を与えようとした。
しかし、誰しもが、いずこかの時点で、それらを『不死病』と呼ぶ以外に無いことを諦観とともに理解した。
公に確認されている中で最古の不死病は、血液を介してのみ感染した。
二十一世紀の初頭、それは文明の発展に寄与する福音と誤認され、研究され、利用された。
感染者の治療施設で暴動が起きるようになり、小さな慈善組織が迫害された感染者を集めて聖歌隊を結成し、各国が人為的に感染させた不死の兵士を行進させるようになった頃、病の拡散が始まった。
不死病は考え得る全ての疫病と同化して爆発的に広まった。蚊媒介感染症としての性質を得た頃にはコントロールなど不可能になっていた。
そして同時多発的に発生した高高度核爆発よって電磁パルスが全世界で吹き荒れ、混乱状態に陥った民衆の間から、不死が『汚染された水から感染する病』という形で出現した時には――もう何もかもが手遅れになっていた。
世界最強の超高度AI、
異端の教義を唱える聖娼たち、スヴィトスラーフ聖歌隊の行進が始まった。
それだけではない。
世界中の全勢力が機械を埋め込んだ不死病患者に銃を持たせ、剣を持たせ、戦力化し、何もかもを不可逆的に変容させてしまった。
最後に発見された不死病は、空気感染した。
その頃にはとっくに世界は終わっていた。
「私はこの死に見放された世界を調停せねばならない」とアルファⅡは言った。「あらゆる迫害を、あらゆる戦争を、あらゆる不協和を、否定せねばならない。あらゆる苦痛の連鎖を破壊し、残存する人類を現時点で選択可能な最良の安定的状態へと導く。それが我々、調停防疫局の最後の任務だ」
その宣言はヘリのローターが立てる爆音の中でも、確たる意思を持って空気を打った。
『肯定します。それを忘れない限り、調停防疫局最後のスチーム・ヘッドたる貴官の自己連続性は保証されます。作戦行動を継続して下さい』
「作戦……私は……このヘリで……何をしていたのだったか。観測を……そうだ、観測を再開しなければならない。上陸し、着陸しないことには何ともならない。私は低体温症で意識を失う前に……安全にノルウェー国内に侵入できるルートを探していたはずだ」
『肯定。思考能力が随分戻ってきましたね。良い傾向だと判断します』
兵士は、己を乗せたヘリの、フロントガラスの無いキャノピー、その向こう側の世界を改めて眺めた。
随分と近づいてきた海岸が、意識に像を結ぶ。
極寒の環境に適応し、全身の各器官が正常に活動した結果なのだろう。視界は極めて清明だ。
観測を妨げるものはもう何も無い。
だから、今度こそはっきりと塔が見えた。
海と陸を隔てる楔のような無数の塔。
不朽結晶連続体のレンズで三十倍に望遠拡大された視界の中で、塔の群れが、やはり実体として、極めて狭い地域に乱立している。
いずれも現実感を狂わせるほどに高い。
適切な比較対象が視覚の中に存在しないが、二〇mから三〇m程はあろうかと思われた。
それらの輪郭は奇妙に脈動している。アルファⅡは注意深く観察した。塔の群れが細かく揺れ動いているのは、己の肉体の不調や、ヘリの震動から来るものではなく、見たままの現実だった。
極めて異常な光景だった。何か得体の知れぬ大いなる者どもが、海岸に壁でも作ろうとして、血と肉を育てて巨大な柱を作り、そこで作業を投げ出して去っていった、という様相だ。
さもなければ超自然の存在が、根源的な破壊に繋がる大きな問題を取り繕おうとして、地面に杭を打ち、楔を打ち、やはり失敗した後のような印象を受けた。
「ユイシス、あれらは実体なのだな?」
『視覚情報を解析。熱源反応を確認しました。実体であると推測されます』
「このまま上陸するにはあの塔の群れを越えなければならない。危険性は?」
『最大レベル。進路を変えますか?』
「必要ない」
兵士は無感情に首を振った。
「これが上陸への最短経路だ。燃料が惜しい。海上に落下すれば私の
『肯定します、アルファⅡ。我々には、もはや時間は残されていないのですから。……さて、今回のフライトでのデッド・カウントが9回になりました。猫レベルですね。記念に語尾をにゃんにしてはいかがかですか?』
「そうだな。いい加減、君は君自身の自己診断プログラムを実行したらどうだ?」
『あはは。冗談ですよ』
相変わらず嘲弄するような気配を含んでいる。
『それでは、提示する問いかけを変更しましょう。死んでいる間に天国を見たかと予想します。天国はどんな場所でしたか?』
「一体何なんだ? 何の尋問だ? 私は宗教をやっていたのか? どうして今そんなことを訊く?」
『貴官は、自分の脈拍の異常に気付いていないようですね。自覚できないのだと推測されますが、肉体が極度の緊張状態を示していますよ』
「緊張状態、と言ったか」
アルファⅡは意識して深呼吸した。
塔を直視していると、生身の右手が僅かに震えることに気付いた。
その震えは、風の冷たさや、壊死によるものではない。
「なるほど。
エージェント・アルファⅡには、極度の感情の発露と言ったものが存在しない。
閾値に達した感情は意識の運営に支障を来さないよう、全て機械的に切断されて、どこか知れぬ闇の中へと葬られる。それが
だが不死病を患い、自我が揮発してもなお肉体に刻まれている生理的恐怖、本能的な絶望までも打ち消せるわけではない。
『否定しません。貴官の肉体は、あの塔を恐れているのでしょう。ですから、貴官は精神的な作用によって、自分自身の肉体をリラックスさせる必要があります。別側面から理由を述べるのであれば、ユーモアの訓練ですよ。これは、今後の任務においても重要になるはずです』
「訓練、訓練か。そうだな……じゃあ……」
アルファⅡは穏やかに応え、少し咳き込んだ。まだ横隔膜が痙攣していた。
「天国は……フロントガラスを外したヘリコプターのコックピットにそっくりだった。天国は、ここそっくりだったんだ。最悪だった」
『ユーモアレベルの評価を上方修正。おめでとうございます』
「ユーモアというのは、今みたいな言葉のことを言うのか」
『肯定します。ユーモアを忘れないようにして下さい』
「ふむん。良いユーモアだったかな」
『内容について判定できません。当機は、ユーモア判定ロボではないので。でも個人的な評価だと100点満点で5点くらいですね』
ユイシスの平坦な声は、どこか冗談めかして聞こえた。
『しかし、内容はどうでもよいのです。貴官には生来、ユーモアが存在していません。ユーモアが、人間性を映す鏡だからです。それでも貴官は人間であろうとしなければならない。そのためにも、適宜ユーモアを口にしてください。当機を手本にしても構いませんよ。きっと当機のような一流の支援AIになれることでしょう』
「支援AIは目指していない。私はスチーム・ヘッドであり、エージェントだ」
『つれませんね。さて、肉体の緊張も解けたようです。アルファⅡ、任務の時間です』
「取りかかろう」
砲金色のヘルメットはこっくりと頷いた。
「そうだとも。私は……遣り遂げなければならない」
『肯定します。遣り遂げなければなりません。我々は、そのために製造されました』
エンジンと各種の機械部品を剥き出しにした奇怪なヘリは、ようやくノルウェー海を通過して、海岸へ辿り着いた。
氷河の浸食作用によって陸地が海に削られて無数の島に分かれている、というのがアルファⅡの記録しているノルウェーの海辺だ。
怪物が引っかき回して手当たり次第に砕いた後のような断崖や谷、一握りの土地が取り残されたように海上に浮かぶ……『フィヨルド』と呼ばれる特徴的な地形だが、現在観測できる範囲からは、そうした特異性は失われていた。
海岸線は、より歪なものへと変貌していた。
それらは今や塔の群れと、塔の属する異常な世界による汚染によって、不自然に接合されていた。
まるで、ホチキスで無理矢理塞がれた裂傷に、薄皮の膜が張り始めたかのように。
海岸は海岸でなく。
塔は塔ではなく。
世界は世界ではなかった。
遠方からは塔に見えた建造物は、接近してみると何か得体の知れない巨大な灰白色の塊、あるいは巨大な肉腫、あるいは硬質化した皮膚に似ており、見間違いようもなく物理的な実体を伴ってそこかしこに屹立し、根を張る地面までもを変質させて、酷いところでは土や岩、草木を浸食し、土や岩、草木では無いものへと作り替えている。
一見して、塔の存在する位置に規則性と呼べるものは存在しないかのように思われたが、取得した情報を解析したユイシスからの報告は端的だった。
『地形異常の境界線を走査し、現存する最新の
「何が原因であるにせよ、地形変化が急速すぎる。ここまで汚染が進むまで最低何年かかる?」
『十年以上が必要と予想されます』
「我々が、調停防疫局がグリーンランドに、あるいはアイスランドに潜伏して……それから何年経ったんだ?」
『不明です。しかし、極めて長期に渡る可能性があります』
「根拠は?」
『太陽の位置に注目して下さい。当機の解析が正しければ、本来在るべき場所から外れてしまっています』
「太陽が動く? 考えにくい自体だ。ということは……移動しているのは地軸か?」
『当機はそう推測します。このような重大な変化が十年数年以内に発生する予徴は、貴官が把握している限りでは存在していませんでした』
「……新しい時代ということか」
『マップデータも型落ちになっているかもしれません』
装甲も武装も持たない戦闘ヘリは速度を落としながらも、十分な高度を保ったまま塔の群れの上空を過ぎ去っていった。
エンジンとプロペラの轟音に反応してか、いくつかの塔に変化があった。
ある塔は、ヘリが付近を通ると壁面に切れ目が走って人間の眼球のような器官を百から二百ほど露出させた。灯台の投光器ほどもある瞳が、鬱陶しい蠅でも追いかけるかのようにヘリを視線で追った。
またある塔は身震いして断末魔の悲鳴のような音を発してのた打った。
別のある塔は、先端から根元までを巨大な口蓋のようにぱくりと割って、その内部から無限に二股分岐をし続ける骨肉の枝を恐るべき速度で伸ばし、血を撒き散らす異形の舌先でヘリを捕まえようとした。
アルファⅡは別の塔の根元で、人が手を振っているのを発見したが、それは腐肉で形作られ粘性の液体を滴らせる異形の影法師で、動くたびに血と脂が飛び散った。犬に似た形の、同様な塊が駆け回り、肉片をまき散らしていたが、いずれも崩壊する傍から再生し、再生しては崩壊するというサイクルを繰り返しているため、指向性を持つ肉の噴水がただ蠢いているだけのようにも見えた。
また他の場所では、寒冷であるべき地に砂漠が広がり、影絵のカモメが空にピン止めされたかのように固定され、そこからさらに何の脈絡もなく現われる沼地、さもなければ地下で海と混合している汽水域があって、桟橋には麦わら帽子を被った老人に似た何かが座っていて、じっと座って釣り糸を垂らしていた。実体ではないと分かるのは、老人を通して桟橋が透けて見えるからだ。その桟橋もまた半透明で、ヘリのローターに揺らされて霧散と再構築を繰り返している。
そして老人の目前には捻れた角を頭に生やした二足歩行の巨大な狼のような血まみれの呪わしい生き物が半身を沼に沈めた状態で沈黙しており、汚濁の水面に浮かんでいる、魚か、鯨か、少なくとも陸棲ではない、生き物のような何かを追いかけて、ぐるぐると歩き回っていた。
獣。獣であった。
悪性変異体だった。
世界を滅ぼした不死の病の産物。
永遠に死なぬ災厄の獣だ。
「……目の錯覚でなければ、収容対象が鎮静塔から逃げ出しているように見える」
『神経活性を解析しました。視覚欺瞞です。貴官が目にしているのは、実体ではありません。貴官の視覚は、該当する環境閉鎖鎮静塔に欺瞞されています。実際には廃墟と思しきビルが存在しており、変異体はその内部に閉じ込められています』
「では、あの沼地、いや汽水域か? ……私は何故汽水域だと思ったんだ? 沼地と判断するほどの視覚情報も無い。周りは砂漠だし……砂漠? 砂漠と認識するのもおかしい」
アルファⅡは唸った。
「これは、共同幻想だな。悪性変異体の見ている夢のようなものだ。私は彼らの思考ネットワークに取り込まれかけている」
『肯定します。該当の鎮静塔は電磁波を発信し、周辺の塔や貴官の脳髄に干渉して、ノルウェーではないどこかを、極めて高い精度でエミュレートしています』
「汚染が酷すぎる。通常なら隔離地域に指定するべき段階だ。この海岸に誰も立ち入ってはならない」
『肯定します』
「しかし、ここに人間が一人でもいただろうか? 保護すべき人間が。感染者が?」
『否定します。症状がセカンド・ステージに進行していない感染者は、貴官だけです』
「じゃあ、非常事態宣言はいらないか」
『宣言する相手が存在しない可能性が高いので、不要かと思われます』
「ふむん。どうしたものか。いや、一応勧告は行うべきだろう。無線装置で全回線に発信してほしい。我々の接近もそろそろ伝えておきたい」
『通信の試行は、離陸直後から実行しています。覚えていないのですか? 貴官の指示で行っているのですよ。自己破壊プロセスが、記憶領域を損傷させた可能性がありますね』
「そうなのか? それで、何か返事は? 何でも良い。領空侵犯に対する警告でも」
『応答はありません。残念ながら、今現在に至るまで、有意な信号を何一つ受信できていません』
「なら、ラジオはどうだ? ジャズとか、聞こえないかな。音楽は人間を超越する……らしい。そんな記憶がある。だから、音楽だけは、人間がいなくなって世界でも無事で、今でも電波になって、その辺をうろついているかもしれない……」
『ユーモアレベルの上昇を確認。貴官はジャズが好きなのですか?』
「いや。……そもそもジャズとは?」
『ご存じないのに、口に出したのですか? ちなみに当機は電子音楽が好みと申告します』
「単語を知っていたんだから、その内容も、知ってはいるんだろう。だが……分からない。この肉体が生きていた頃、死ねば終わるだけの肉の塊だった頃、好きだったのかもしれないな」
アルファⅡに過去は存在しない。
<それ>は、そのように作られたスチーム・ヘッドだった。
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