デッド・カウント②
自己破壊プロセスを実行せよ、と命じようとした。
しかし声を出せない。
舌は動かず、口から漏れ出るのは意味不明な音の連なりだけ。
それは喘ぐような呼吸音であり、死戦期呼吸のバリエーションの一つに過ぎない。
『聞こえますか? アルファⅡ、回答を入力して下さい』
ユイシスの声がする。
急かすような呼びかけだが、やはり実際に急かしているかのような感情は宿っていない。
兵士も取り乱すところはなかった。
戦闘服の袖から伸びる己の右手、凍り付き、変色し、壊死しつつある生身の指先を、可能な限り精妙に動かすことに集中した。
そして、左手の先から肩までを覆う
触覚はとうに失われていたが、ホームポジションに右手が着いたのを霞みがかった視覚で確認する。
視覚情報を頼りに、空間に対し手指の位置を補正する。
そして肉体が記憶しているままに、タイプライターを模した古めかしい意匠の文字盤を叩いた。
最後の力を振り絞って、機関銃のチャージング・ハンドル、あるいはレバーアクションライフルのループ・レバーに似た入力決定釦を引いた。
『支援要請を受理しました。当機の情報出力制約を一時的に解除します。……物理入力装置からのアクセスですか。どうやら貴官にはアナログ趣味があるようです。気が合いますね、当機も何分突き詰めればアナログな存在なもので。デジタルなのに人格があるわけですから、これはもうデジタル式のアナログ時計なわけで。あはは。笑うところですよ、アルファⅡ。意識の連続性を可及的速やかに当機に示して下さい』
ユイシスの声が、やけに饒舌になった。
限界を迎えつつあるヘリのエンジンから溢れる、雄牛の悲鳴に似た轟音も、プロペラの回転する世界の終わりに吹く風のような金切り音も無視して、その声は真っ直ぐに兵士の脳裏に響いていた。
意識の共有に関する重要な制限措置が幾つか解除された証拠だ。
「か……は……」
『今のは冗談です。応答する必要はありません。架構人格梁のリミッターを無効化しました。現在の我々は、ただ考えるだけで通じ合えるのです。改めましてごきげんよう、アルファⅡ。ご気分はいかかですか? こちらは
これらの言葉は、一瞬のうちに兵士、アルファⅡのヘルメットの奥に存在する脆弱な生体脳、その言語野へと直接書き込まれた。
鼓膜はただの一度もその声を捉えていなかったが、兵士の肉体は確かにそれを音として聞いていた。
アルファⅡは、あるいはその時初めて、ユイシスの声というものを実体として知覚した。
舌使いも発声も流麗で、どことなく気品を漂わせているくせに、人をからかうようであり、そのくせ奇妙なほど抑揚が少ないという、特徴的な『声』だ。
かなり年が若いような印象を受けたが、声しかない存在の年を推し量るのもおかしな話ではあるか。
……いや、何だこれは? アルファⅡは卒然と気付いた。本当に自分の思考なのか?
先ほどから声を全く出していないのに、己自身の声が音声として脳裏に響いている。
ユイシスの声と自身の声が、全く同じ所から聞こえてくるような感覚がある。
自分が出力した情報が無加工のままそのまま頭の中に流れ込み、そして逆流してくるかのような感触に、アルファⅡは当惑した。
自分自身の声もまた、このとき初めて認識したのかも知れない。
『相変わらず思考が乱れていますよ。貴官は、当機の警告を理解していますか?』
> 理解している。
アルファⅡは統合支援AIへ向けて思考を紡いだ。
『ご気分はいかがですか?』
> 具合が良さそうに見えるのか?
『冗談です。ユーモアは大事ですよ。ユーモアは苦境を乗り越える助けになると昔から言います』
> 君が何故今まで無口だったのか分かった。君の思考を全部出力していると私の使っている脳が焼けそうになるからだ。うるさすぎて。
『否定します。もしそれが事実だとしても、これが本来の仕様なので、受容して下さい。貴官の脳髄と
> それで、これは苦境なのか?
『それこそ冗談です、アルファⅡ。幕間にも満たない些末事です。本題に移りましょう。身体状態の解析は終了しています。音声入力を行えないのは、肉体の骨格筋が戦慄を起こして、呼吸自体が妨げられているせいですね。貴官は現在、発声を封じられている状況にあります。生命管制については一旦保留にしましょう。その前に、意識の連続性の確認を。貴官の所属と名称、任務を回答して下さい』
> 私は調停防衛局の全権代理人……、エージェント・アルファⅡ。
> 作戦目的は、旧国際保健機関事務局へのアクセスと、安否の確認。
> 遭遇した全ての戦闘行為の調停。
> そして……ポイント・オメガへの到達。
> しかし……何と戦えば良かったのか……。
> 何かと戦う必要が、あるのか?
『最低限の連続性は維持されているようですね。任務のことだけを考え続けて下さい。その任務は、貴官の存在意義と等しいのです』
> この肉体は、どこまで損傷が進んでいる?
『アバターを表示して、肉体の損傷状況を確認しますか?』
> やってほしい。
『アバターの表示に失敗しました』
> 立派な物言いでそれか。君は優秀なパートナーだ。
『皮肉は誰かを傷つける悪い冗談ですよ。非推奨です』
> 君は割とそういう分類の人格をしているようだが。
『当機はいいのです。AIなので。シリコン知性なので、ノー炭素倫理です』
> AIと、シリコンと、炭素基生命でないことに、倫理の有無は関係あるか?
『アバターを検索中。該当無し。アバターに使えるデータが無いなんて。奇妙ですね。貴官の記憶領域を検索中……「人間」に分類されているデータがありません。失礼しました、貴官は本格的な起動以後、鏡像も含め、一つも人間の姿を見ていませんでしたね。しばらくは音声のみでのサポートとなります』
> 何でも構わないが。
『上陸後に適当な自己凍結者をスキャンして、アバターにしましょう。どんなアバターが良いですか?』
> 分からない。任せる。
『では、選定は当機の判断で行います。当機は非常合意の元、あらゆる国際法からの自由を保証されており、いかなる決定にも法的責任が発生しないことを確認して下さい』
> 話を戻して良いか? 結局、私は危ない状態なのか?
『肉体が死亡しかけているのは事実ですが、
> 何故安心の話になるんだ?
兵士は不思議そうに思考を紡いだ。
>
『ええ、そうでしたね。貴官はそのように設計されています』
> 自己破壊をあえて実行する必要性はあるかな。
『生命管制については、当機に優先権が割り振られています。当機としては、不要と判断します。とは言え、最終判断は貴官に委ねられていますので、要請された場合は実行します。なお、現在確認されている情報から算出して、起動の提案が可能な支援プログラムは、やはり自己破壊プロセスの実行だけです。アポカリプスモードの起動も推奨されません。……もっとも、何事も、必要性という点では皆無です。何をしたところで、その行為に意味はありません。繰り返しになりますが、アルファⅡ、自己破壊プロセスを実行しないなら、可能な限り飛行に集中してください』
アルファⅡはユイシスの声から意識を離し、機上で頷こうとした。
しかし、もはや前を向いて、座っている姿勢を維持する、たったそれだけのことが、極めて困難だった。
鍛え上げられた肉体は前方から吹き付ける風に押し潰されて、挽き潰された蛙のようにコックピットで仰け反っている。
息を整えようとする。それも出来なかった。
体の中心部が取り返しの付かない勢いで冷却されつつある。
死が近い。
人格を構成する、肉体の基礎的な要素が、少しずつ解体されていっている。
時間という概念が破壊された世界の、崩壊した昼夜であるかのように、激しく視界が明滅する。
形のあるものは何も見えない。
肉体は苦痛に悶えているのかもしれない。実際のところは誰にも分からなかった。ヘルメットの兵士自身ですら、我が身の変調をどこか他人事のように受け止めていた。
目の前に己の分身が存在していたとしても、己の異常な状態は、おそらく理解できなかっただろうと漠然と思った。
彼は自分自身について理解をしていなかった。
自由にならない肉体の、朦朧とした意識を出力し続ける脳髄で、アルファⅡは己自身を見つめるもう一つの瞳、己の人工脳髄に組み込まれた形ならぬ魂、ユイシスに無言で問いかける。
> 状況をもっと明確に把握しておいた方が良さそうだ。このボディに具体的に何が起きている?
『低体温症の症状と予想されます。現在の体感温度は零下四〇度以下です。貴官の肉体組織は変性し、通常の生物学の範囲を逸脱して体温の生成に務めていますが、どれも無意味に終わっています。もっとも、これほどの極限環境下では、人間の肉体がどのような防御反応を示しても、さほど有効ではありません。現に、貴官の
> 離陸する前は……五回だった気がするが。
『肯定します。貴官は現在に至るまでのフライトで、既に八回凍死しています。気絶しただけと認識しているようですが。緊急性を有する要件でもありませんでしたので、特に報告しませんでした』
> 私はデッド・カウントの進行すら感知できない状態にあるわけか。やはり良くないな。
『推奨されない状態にあるのは事実です。ただし、現在の貴官の受け答えが正常であることは保証します。フライト終了までに悪性変異が進行することはないでしょう。寒冷地への適応は完了していませんが、着陸時の衝撃で貴官は高確率で死亡すると予想されますので、その際に纏めて対応してしまうのが最良でしょう』
> いいや。やはり判断能力に欠けたところのない状態で着陸したい。死んでいるところを敵に囲まれて、後手に回るような事態は避けるべきだろう。停戦勧告にしても、調停を強行するにしても、意識が明瞭でないと支障が出る。
『簡潔な要請を』
> 即時の自己破壊プロセス実行を。
『自己破壊プロセス、レディ。準備はよろしいですか?』
> ああ。とっくに。
『要請を受諾、自己破壊プロセスを実行しました。グッドナイト』
> グッドナイト? 君にはあの太陽が見えないのか?
『本当ですね、まだ昼でした。これは気付きませんでした。あはは』
ユイシスは空々しい笑い声を出した。
『死んでユーモアの無さが治れば良いですね』
> ユーモアの無さは、怪我か? 病気か? 死ねば治癒されるのか?
回答はなかった。
スチーム・ギアの統合支援AIのこの嘲弄に何の意味があるのだろう……と思考を巡らせている間に、アルファⅡは決定的な瞬間の到来を検知した。
自分の使っている肉体の、その心臓が止まったのを感じた。
脳髄の中枢が破壊された。
自発的な呼吸が止まった。
数秒後には脳波も消えた。
彼は死んだ。低体温症や凍傷のためだけでなく、明確な意思に基づく自殺であり、兵士の背負っている巨大な金属の箱、棺型のその蒸気機関に格納された機材で合成された、ある種の化学物質の効果だった。
中枢神経を侵して瞬間的に破壊することに特化したその薬剤は、合成されたあと直ちに左腕のガントレットへと送り込まれ、そこから体内へと注入された。
確実な死だった。
その兵士が死亡したことを疑う余地はどこにもなかった。
『蘇生まで、5、4、3、2、1……ゼロ』
そして、彼は蘇生した。
自然な反応――科学技術に頼らない現象として、死亡した肉体が活性化した。
壊死した全ての細胞が分解され、それらはただちに健全な細胞群を新造する素材として再利用された。
全身の骨格筋が一斉に小刻みな痙攣を開始して、急速に熱を生成し始めた。
筋肉、内臓、脂肪。熱に変換出来るもの全てが分解された。
体温がタンパク質が凝固を始める寸前にまで跳ね上がった。
活動を停止した心臓が再び動き始める。喘ぐように激しく脈を打つ。
凍り始めていた循環器系を、炎のような熱い血が駆け巡る。
熱感が、死亡してなお一秒も途切れることなく活動し続けている生体脳髄から、壊死と再生を繰り返す末梢部にまで浸透する。余すことなく酸素を送り届ける。
失われていた全ての要素が、兵士の肉体に戻ってきた。
『初期状態へのリセットを完了しました。アルファ型
アルファⅡの意識が脳髄に浮上した。
夜明けを迎えたかのように視界が明るくなった。
それからまたゆっくりと暗くなり始めた。
肉体がどのように変異しようとも、熱狂的に吹き付けて全身から体温を奪っていく見えざる悪魔の如き冷風は変わらない。
深く呼吸をするたびに、頭部の全てを覆うヘルメットの、その後方に設けられた排気孔から吹き出た水蒸気が一瞬で凍結して氷の粒になって陽光を照り返し吹き飛ばされて、遠ざかり続ける後方へ飲み込まれる。
何もかもが置き去りにされていく。
何もかもが。
無感情な空の反射した凍てついた湖面。
耳に籠もる吐息。
早鐘のような心音……。
『適応を完了しました。各種神経系の恒常性獲得と代謝の最適化を確認。血管の収縮と拡大による熱生産の安定を確認。褐色脂肪組織の増大を確認。悪性変異進行率は上昇しましたが、少なくともこの処置により、上陸するまで死なない程度には、健康体でいられるでしょう。緊急生命管制を終了します』
呼吸を繰り返すうちに、全身の動揺が、活動において無視できるレベルで収束した。
『意識の連続性を確認します。所属と作戦目標は?』
「……調停防疫局、エージェント・アルファ2。任務は、旧国際保健機関事務局の探索、戦闘の調停、ポイント・オメガへの到達だ。私はこの作戦を遂行するために作り出された」
アルファⅡは、はっきりと、一言一句を明瞭な発音で回答した。
「攻撃目標は全人類。戦闘行為を継続している全人類が、私の敵だ。私は、この死を失った世界から、戦争を根絶する」
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