セクション1 調停防疫局 エージェント・アルファⅡ
デッド・カウント①
何者かの声がする。言葉が渦を巻き、終わらない暗夜に生まれた盲目の蜥蜴のように、意識の根底を這い回っている。
探索せよ。
痕跡を探せ。
闘争を調停せよ。
戦闘行為を根絶せよ。
ポイント・オメガへ辿り着け。ポイント・オメガへ。ポイント・オメガへ……。
その部屋には光がない。
その部屋は目の前には存在していない。
その部屋はこの時代には存在しない。
その女はその現実には存在していない……。
丸椅子に腰掛けた白衣の女が、何事か話しかけている。
あなたが私の言葉を再生する機会が何回あるのかは分からないわ。ごめんなさいね。一晩たっぷり考えたのだけど、正直、私の言葉があなたの旅路に役立つとは思えない。必要な情報は全部ユイシスが拾い上げてくれるし……私だけの特別な知識なんてないから。
だから、あなたがしなくちゃいけないことだけを、繰り返し言っておくわね。
その過程で遭遇した戦闘行為は、全て停止させて。もう戦争している余裕なんて誰にも無いの。
それから……ポイント・オメガに辿り着いて。
最後の作戦目標には、何の意味もないけれど……あなたはそこに向かわなければならない。
声は誰かに似ている。馴染み深い誰かの声に。
だが、その声が具体的に誰なのか、兵士には思い出せない。
「探索せよ……調停せよ……到達せよ」
兵士は掠れた声で幻聴に唱和していた。
「探索せよ……調停せよ……到達せよ。殺せ。殺せ。殺せ。世界を再生しろ」
溺れた魚のように息をする……。
兵士の頭部は、砲金色のヘルメットで完全に装甲されていた。
選択的光透過機能を備えたバイザーは、覆面のように頭頂部から口元までを覆い隠しており、酸素マスクすら備えていない。
その黒い鏡のような表面から、人間的な感情の変化を読み取るのは不可能だ。
だがバイザーの下では、おそらく、苦悶に顔を歪めている。
『警告。意識レベルが低下しています。自己定義の連続性を確認してください』
どこからか女の声がした。
事務的でありながらも玲瓏なその声は、同時に微笑をもイメージさせた。
親愛を決して想起させない硬質な微笑。
冷笑や嘲笑に近い。
兵士は声に対して何の感情の変化も示さなかった。ガチガチと歯を鳴らしながら、何事か
女の声はそれら一切の苦鳴を無視して言葉を繰り返した。
『回答を入力して下さい。回答を入力して下さい。回答を入力して下さい。回答を入力して下さい。入力を確認できません。仕方ありませんね。生命管制の優越権を行使し、意思決定の混乱に対する支援措置を開始します。3、2、1……』
カウント・ゼロで、兵士の左腕を包む奇妙な形状のガントレットから、その内側に存在する生身の腕へと電流が放たれた。
兵士は痙攣した。
息を吹き返した。
『聞こえますか? エージェント・アルファⅡ。自己定義の連続性を確認して下さい。作戦目標は?』
「探索……調停……到達だ」
アルファⅡと呼ばれたそのヘルメットの兵士は、低い声を絞り出した。
「探索……調停……いや……他にも何か……あったような……」
『戦時中であることは理解していますか?』
「理解、している。しかし……私の敵は、誰だ? 何と戦えば良い?」
どうしても思い出せない。
痛みすら催す冷風が全身を突き刺している……。
兵士、エージェント・アルファⅡは自己連続性のチェックを一旦保留にした。
「さっきのは、電気ショック、か?」
『肯定します。身体の恒常性に損傷を与えるレベルではありませんので、ご安心を』
「逆、だ。生命活動を停止させるレベルで、やってほしい。生体脳にノイズが乗りすぎて……まともに……思考できない」
兵士は途絶えがちな息で、酷く苦労して言葉を発する。
「身体の、環境適応は、まだなのか?」
『デッド・カウント、変異レベルに到達していません。生命管制は安全域で推移。任務を続行して下さい』
「任務。任務……。探索だな。了解した、探索を続行する……」
アルファⅡは黒いバイザーの下で目を凝らした。
頭上をプロペラが通過するのが見えた。そのたびにひとかけらの雲もない澄み切った蒼穹から降り注ぐ陽光が遮られる。
視界そのものが瞬きをしているかのような不可思議な感覚。
剥き出しの眼球に焼き付けられる、掛け値無しの世界の実像。
バイザーに絶えず暴風細かい氷の粒を孕んだ風が吹き付ける。
熱を奪い、表面を淡く凍らせる。
何秒か経つと太陽光にとろけて、涙のようにヘルメットを伝い、暴風に吹き流されて後方へ流れていく。
一瞬でも気を抜くと視界が霞んでしまう。
剥き出しの右手、変色した生きた肉の手でバイザーを拭うが、変化はない。
「生命管制……私の視界が見えているか? 視界不良だ。眼球に再生リソースを重点的に配分してくれ」
瞼の裏で火花が瞬く。
視界が明滅し、それから、遙か彼方から近づいてくる上陸予定地点を視認することに成功した。
雪で薄らと化粧をした海岸は、陽光を受けて白く輝き、地平線の果て、見下ろす世界の先端から、ゆっくりと海の領域を侵犯しつつあった。
丁寧に研がれたナイフを思わせる鋭い輝き。
しかしその切っ先に輪郭は水面に揺蕩う月のように曖昧で、雪が溶けて蒸発しつつあるのだろう、陽炎に揺れる様は、溶けた飴にも似ている。
岸辺には、何か塔のようなものが立ち並んでいる。
連想するのはバイオハザード・シンボルが描かれた立入禁止の標識だ。
それらの塔は、灯台にしてはあまりにも数が多く、密集しており、そこかしこから、煙のようなものを立ち上らせている。
海岸で朽ち果てた墓標の群れのようにも見えたが、周辺に生える木々と比較するとあまりにも巨大で、やはり『塔』という言葉が思い浮かぶ。
流氷の溶けきらぬ海を超えた先に待ち受ける奇怪な塔の群れ。
沈黙のうちに威圧感を放っている。
立ち入ってはいけない領域ではあることは明白だった。
それら奇妙な景観の全てが、バイザーを通して兵士の網膜へと投じられている。
アルファⅡにはそれが現実の光景なのかそうでないのかの区別が出来ない。弁別するための能力が極度に低下している。
誰かが囁く、あるいは、あれは低温の雪と熱せられた水蒸気の層が複雑に作用して発生した鏡映蜃気楼かもしれない……。
「ユイシス、あれらの塔は全て実体か?」
淡々とした女性の声――ユイシスが、どこからか返事をした。
『現時点では解析不能です。残念ながら、貴官からの情報入力は不十分です。貴官にあれが塔にしか見えないのであれば、当機にも塔と判断する他ありません。質問する前に、もう少しやることがあるかと思われますが、如何でしょうか』
「そうかもしれないな」
アルファⅡはぎこちなく頷いた。首の関節が軋んだ。
視界は凍えている。世界が凍えている。
即ち自分自身が氷に鎖されつつある。
触れるもの全てを氷の塊に変えんとする雪花の暴風に抗いながら、己の側頭部、ヘルメットの右の側面へと手を伸ばした。
右の腕自体に感覚が殆ど残されていない。凍っている。
何もかもが、致命的に凍り付きつつある。
砲金色のヘルメットの小さなダイヤルを回そうとして、何度も失敗した。
ヘルメットの側面に描かれた赤い世界地図を背にした剣と、それに巻き付く二匹の蛇を、指先が何度も擦った。
やがてダイヤルに引っかかった。
歯車が噛み合い、バイザーの内部に組み込まれた可変機構が動き出した。
広角レンズモードに固定されていた二連二対の不朽結晶連続体が幾何学模様を描いて組み代わり、望遠モードへと切り替わった。
兵士は見た。
塔。
沼地。
人影。
血と臓物。
骨に継がれた奇妙な巨人たち。
無数の瞳。
「ユイシス……何が見える?」
そこで思考が途切れた。
数秒後に目覚めた。
気絶というには深すぎる断裂。
途切れがちだった呼吸は一層浅く、弱々しくなった。
『警告。意識レベル、急速に低下。自己定義の連続性を確認してください』
「じこ……てい……ぎ……何、を……?」
思考が混乱していた。脳髄が暗黙の死へと急速に沈降しつつある。
「何を……すれば良いんだった……?」
辛うじてユイシスが何かを言っていることは理解出来る。
だが意味のある言葉として認識出来ない。
その兵士は単純に、死にかけていた。
さもなければ、今まさに死につつあった。
何ら不思議なことではない。
息をするだけで肺腑が凍て付く。
そんな状況で生きていられる生物は存在しない。
いずれ何もかもが熱を失い、言葉が散逸し、瞳に映る世界は解体される。
死の暗闇へと、単純に落下しつつある。
兵士はまた気絶した。
首の筋肉が弛緩して、ヘルメットのバイザーが空を仰いだ。
すぐ目を覚ました。
手を伸ばせば届きそうな位置で、雲の群れが目まぐるしく形を変えていく。
圧縮された時間の流れが具象化したかのような風景。
しかし現実に高速で移動しているのは空ではなく、時間ではなく、兵士自身の方だった。
高速で飛行するヘリの機上、コックピット、操縦席があるべき位置に兵士はいた。
搭乗している、というのは適切ではなかった。
革を剥がれたシートの骨組みに、兵士は貨物懸架用のワイヤー・ロープで自分自身を括り付けていた。
その姿は不格好な船首像か、古い時代の狂気的な宗教儀式の生け贄、晒し者にされた罪人のようであり、いずれにせよ悲惨だった。
飛行に影響しない全ての部材を撤去した不格好な戦闘ヘリの、もはやコックピットとは呼べない空間で絶えず身震いする肉体は、奇妙な熱を帯びている。
分厚い筋肉を備えた四肢を、雪原向けのデジタル迷彩を施した戦闘服で包み、その上からさらに着込んだタクティカルベストには、対感染者用の拳銃とナイフを収納している。
冷気と衰弱を迎え撃つには、甚だ脆弱な装備だった。
氷花の嵐から身を守るにはいっそ城壁のような遮蔽物が必要だ。
『フロントガラスまで外してしまうのは、愚策だったかも知れませんね。まさか貴官に受理されるとは予想していませんでしたので、ついつい提案してしまいました』
無感情なユイシスの声に、曖昧に首肯する。
アクリル素材のフロントガラスは、基地を出発する前に外してしまった。
邪魔だったからだ。
少なくともその時は、兵士にはそう思えた。
今でも、間違ってはいなかったと考えている。
エージェント・アルファⅡの擬似人格が起動し、アルファⅡモナルキアとして活動を開始し、ヘリを発見したときには、もう基地のどこにも燃料が残されていなかった。
世界を焼き尽くすつもりかと言うほど保管されていたはずの燃料がどこに行ったのかは分からない。
使用されたのかも知れないし、ドラム缶から揮発したのかも知れない。
ただ、残っていないということだけが事実だった。
飛行可能な距離を稼ぐには可能な限り機体を軽量化するしかなく、そのために妥協は出来なかった。
事実、ガラスを全て取り除くことで、数十キログラムの軽量に成功した。
兵士には、切れ切れの息が自分のものであるという自覚がない。
寸時意識が途切れる。
目覚めたときにはあらぬ事を考えている。かりそめの自我は確実に崩壊しつつあった。
焦点が遙か前方の港に合わさる。
無限に連なる港に視線が滑る。
だが現実の視界に港など存在していない。
無数の非現実の港が意識の水面に浮上する。
非現実の塔が陸地だけでなく海面からも、あるいは空からも伸びているのが見える。
塔から灯台を連想し、灯台から港を連想している。
想起する事象の連鎖が、無限に続く海岸と港を脳内に創り出す。
冷風の奥で万華鏡のように景色が現われては崩れていく……。
「しかし、あの港には、見覚えがある。あの港には、あの灯台には……」
『警告。自己同一性に揺らぎを確認。思考をただちに中断してください』
高圧的な言葉を含んでいるが、ユイシスの声はあくまでも冷静だった。
アルファⅡは首を振って、何もかも忘れ去ろうとしたが、そもそも筋道を持った思考の枠組み自体が崩壊しかけている。
結果として、地平線の彼方を埋め尽くす港の妄想とともに、全ての思考が消滅してしまった。
何を命令されたのかも記憶領域からこぼれ落ちた。
兵士は、死んだ。
エージェント・アルファⅡは、丸椅子に腰掛けた戦闘服の男を見た。
暗い部屋で、彼は何事か話しかけている。
それが誰なのかは分からない。
――俺の言ってることを思い出してるってことは、お前はまた死んでる。安全回路が作動するたびに、意識の空白を埋める目的で、特定のプシュケ・メディアがデータを出力することになってるんだが……あんまり意味はないんじゃないか?
どうだ? 死に際して、俺たちの言葉は役に立ってるかな。もう何回ぐらい死んだ? この記録を再生するのは何回目だ? お前はもう理解してるんだろうな。嫌でも理解するだろう。お前は不滅だ。他の誰もがそうであるように、お前はもう絶対に死ぬことは出来ない。
お前にとって死ぬというのは、ちょっとしたイベントの一つに他ならないんだ。普通の感染者なら、何回か死んだら意識は完全に消えるんだが……お前はそうじゃない。
いいか、繰り返し教えておくぞ。
探せ、争いを止めろ、辿り着け。
まったく、気の遠くなるような任務だよな。
何にも良いことはないだろうが。
お前の旅が、せめて安息のうちに終われば良いとは、俺も思ってる……。
思うだけなら、願うだけなら、自由だ。無責任だよな。許してくれ。
兵士の肉体は息を吹き返した。
不完全な蘇生だった。
アルファⅡの意識は依然として茫洋とした暗闇にとらわれており、有意な思考は成立しない。
次に気がついたとき、関心事として脳裏に放り込まれたのは、眩暈を起こしそうな速度で後方へと流れ去っていく、ヘリの外の景色そのものだ。
我が身が過ぎ去った後の土地には、何も残らないのかもしれない。
概念としてではなく、物質界からも失われるのかも知れない。
そうした迷妄に突き動かされ、肩越しに振り返ろうとした。
『重ねて警告します。アルファⅡ、ただちに思考を中断して下さい』
アルファⅡは返事をしなかった。
衝動のままに振り返った。
視覚から取得できた情報はわずかだった。自分の背負っている、荷物を満載にした登山家のリュックサックにも似た、あるいは棺とも形容されるバックパック式
左側面に取り付けられた火炎放射器のノズルのような機械が何なのかは理解できない。
高熱の排気は漏れ出た傍から吹き飛ばされて冷却され、細かい氷の粒になって散り、フレームが残されただけの背もたれにぶつかって砕け、コックピットの外側の時速三〇〇kmで遠ざかっていく世界へと吸い込まれ、それから永久に見えなくなった。
『最終警告。意識の連続性の維持に務めて下さい。任務続行が困難な場合は、生命管制の優越権を行使し、自己破壊プロセスを実行します』
声に促されて、アルファⅡはようやく我に返った。
おそらく致命的な破壊に晒された肉体が、過酷な環境への適応を、急ピッチで推し進めているのだろう、意識だけは明瞭性を取り戻しつつある。
だが、他には好ましい方向へ転じる予徴がない。
肉体は死に瀕した状態で固定化されている。
兵士は考える。
……ならば一度、完全に。
完膚なきまでに、死んだ方がよい。
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