分割された花嫁②

 アルファⅡはスヴィトスラーフ聖歌隊のスチーム・ヘッドの服を外しにかかった。

 当初、この衣服は貫頭衣のような構造ではないかと考えたのだが、襟元は完全に詰まっていて、留め具らしきものもない。傷口があるはずの部位まで服を捲れないかとまた試したが、不朽結晶連続体の繊維はいかなる方向にも伸びない。

 ユイシスが視界をポイントし、裾を飾る金属質の銘板にキリル文字で『キジール』と彫り込まれているのを見つけた。

 キジール。

 おそらく、この少女の形をしたスチーム・ヘッドの名前だろう。


『悪性変異が進行しています。極めて低速ですが、急変する可能性あり。ご注意を』


「落ち着け……落ち着け……。観察だ。観察し、発見する。基本だ」


 アルファⅡは一度、手を止めた。

 アンティーク調の行進聖詠服の前面に施された、その豪奢な金色の飾緒をしばし眺めた。


「……いったい何なんだ、この服は」


 不朽結晶、重機関銃の弾丸すら通さない祝福された物質で構成された衣服だと言う点を無視しても、ゴシック風の丹念な装飾が施されたその黒いドレスは異様だった。

 由縁の知れぬ、宗教的であることだけは分かる奇妙な装飾は、作り手の信仰を感じさせる精巧さだが、実際にはそうではないということも同時に理解させてくる。あまりにも異質だ。宗教家の着る服とは思えない。戦列歩兵の指揮官を務めた貴族の方がまだいくらか落ち着いた服装をしていたことだろう。

 全体として視覚に訴えてくる印象は抑制的ではあったが、戦場に立つ人間が着る装束とは到底思えない程に華美で、布の下にある肉体の形がはっきりと浮き上がりそうなほどに布が薄い。


「どこが……何で……何なんだ? どこに、どういう機能があるんだ?」


『端的に言えば、これは芸術品です』


「芸術品か。スヴィトスラーフ聖歌隊の指揮者は、宣教師のような役割も兼ねているというのは聞いたような覚えがある。うまく思い出せないが。……この娘も綺麗だ。年齢がちょっと幼く見えるな。どこかで見たような顔だが……どこだったか……」


 右手の指先で衣服を探っていく。

 服の継ぎ目らしきものは見つかるが、ファスナーのような目立った留め具はなかった。

 手を動かしながら、焦躁を抑えるために問いかける。


「芸術品というのは、つまり、この服は彼女たちの美という能力を拡張するための道具と言うことか?」


『いいえ、基本的に無意味で無価値で、何の役にも立たないという意味です』


「……また冗談か?」


『もちろん冗談です。彼女たちは美と祈りで人々を引き付けます。その性質こそが聖歌隊そのものと呼んでも問題ないでしょう。大企業が傾きかねない額の費用を投じて、彼女たちに永久に朽ちることのないドレスを装備させるのは合理的です。武装としては役に立たないというのは、単なる事実ですが』


 胸の下の、ベルトに似せられた装飾を試しに探った。しかし元より何かを留めておく効果は無い様子で、乳房を持ち上げて膨らみを強調する他に機能があるようには見えない。そもそも服の丈も長いとは言えず、下半身が繋がっても、生身の脚が膝の上の辺りまで露出するだろう。

 神の名を讃える者を形ばかりなぞっただけの、いっそ冒涜的な衣服であった。

 あるいは死と生の連鎖する汚辱に身を浸す者としては、象徴的であるかもしれない。


「本当に、何なんだこれは?」


『残念ながら芸術品に関するデータはありません。スヴィトスラーフ聖歌隊には不明な点も多く、また現在の貴官にはクリアランスが存在しません。いずれにせよ、彼女たちの装備に統一的な規格は存在しないのです。懸念を提示しますが、これはもしかすると貴官には脱がせられない服では?』


「いいや。落ち着け。落ち着け」

 誰かが囁いている……。

「大動脈解離を起こした患者の救命処置なんかよりも楽な仕事だ……」

 アルファⅡはぶつぶつと自分でも理解していない言葉を呟いた。

 誰かが囁いている……。

「問題ない、意味不明な飾りが多すぎて手間取っているだけだ、この手の装甲服なら基本的な構造は、どこの組織でも共通のはず。我々はそれを知っている」


 不朽結晶連続体で形成された衣服を作成する上で最も困難なのは、留め金に相当する部品を用意することである。

 通常の材質では風雨に晒されて朽ちてしまうため、当然留め具も不朽結晶連続体で作成するのだが、繊維状の不朽結晶と固形の不朽結晶を接合するのは容易な仕事ではない。

 純度の僅かな差を計算して巧妙に利用しなければ、日常を過ごしているだけで自壊する可能性すらある。

 おまけに布状に加工したところで、余程の工夫をしない限り生地は伸縮しない。

 そんな難物に手を加えて、留め具のような複雑な機能を持たせること自体が一つの障害になるのである。


 根本的な問題として、不朽結晶連続体で衣服を作ること自体が稀である。

 不朽結晶は同質量の金より遙かに高い価値があり、加工も難しい。

 聖歌隊のスチーム・ヘッドが着ているような立派な衣服に仕立てるとなれば、これは狂気の沙汰である。

 ……つまるところスヴィトスラーフ聖歌隊とは、そのような組織だった。

 ある種の狂気こそが彼女たちの本質なのだ。


 だが、聖歌隊をもってしても、不滅の装具を設えるにあたっての制約は、無視できないはずだ。

 エージェント・アルファⅡを構築する人格記録には、不朽結晶連続体で作成された衣服について一定の知識が備わっている。

 かつて、戦闘用スチーム・ヘッドの軽量装甲として採用されたケースがあった。それらはどれだけ複雑な構造に見えても、大抵は前合わせで、はだけるのを防止するための、やはり不朽結晶連続体で出来たロック機構が幾つか設けられているだけだった。

 アルファⅡは装飾の一つ一つに指を当て、探り、衣服の上から肉を押して、不自然に浮き上がる部品が無いかを確認していく。


 誰かが囁いている……。


「不朽結晶の装甲が完璧に着脱不能な形で感染者の肉体に取り付けられることは基本的にない。スチーム・ヘッドは肉体が死を失っているのだから当然に不死で……不死ではあるが……たとえ不朽結晶連続体で防御を固めていようとも強い衝撃を受ければ装甲の下で肉体は損壊し血肉がぶちまけられる……そして血液は肉体には戻らない。そうだな? 間違っていないだろうか、ユイシス?」


『肯定します。肉片は再生の部材として体組織に回収されますが、消費された血液は新造によって補填します。体外に流出した分に関しては恒常性から切り離され、存在しないものとして扱われ、消滅します』


「だが例外もある。場合によっては泥と混合したりして、蒸発前に固まったり、運動や皮膚感覚を阻害する不快な膜となって体表を汚す。穢れは、感染者の肉体から不死病の浄化作用によって徹底的に濯がれる、が……通気性も伸縮性もない不朽結晶連続体のせいで、それが上手く機能しないことが度々ある……」


 アルファⅡは『私』を名乗る己には存在しない、誰の者とも分からない無数の経験の断片を拾い集め、自分に言い聞かせるようにして知識を確かめ続けた。

 汚損が激しくなれば、服の内部と体の両方を洗浄する必要が出てくる。

 そのときスチーム・ヘッドの人格記憶媒体が正常に稼動しているとは限らないし、五体満足ではない可能性もある。

 誰かが本人に代わって洗浄してやらなければならないことも多いだろう。

 そうした事情から、不朽結晶連続体の服は、本人が抵抗しないことが前提だが、脱がせられるように出来ている。例外があるとは考えにくい。


 夥しい数の装飾の中から、やっと三カ所、留め具を見つけた。

 ミリタリードレスの右側面、首元、胴、腰といった部位に取り付けられている紋章付のバッジや金色の装飾の幾つかが、執拗なほど丁寧に偽装された不朽結晶製の固定具だった。

 見た目には他の装飾と全く違いが分からないが、機構は簡素で、ドレスの前部と後部に設けられた異様にタイトな穴を貫通するか、外側から挟み込んでいるだけだった。


「聞こえるか、スヴィトスラーフ聖歌隊のスチーム・ヘッド。キジール……。キジールというのが、君の名前だな? 違っていたらすまない」


 アルファⅡは先ほど発見した銘板に刻まれていた文字を参考にして、ロシア衛生帝国の言語を選択し、呼びかけた。


「これからこの服を開放して、傷口を処置する。もう撃つことはしない。少しの間だけ動かないで欲しい」

 

 余計な刺激を与えないように配慮しながら、分厚い本の表紙でも開くようにドレスの前を開けた。

 露わになった肉体は、触れるのも躊躇われるほどに華奢だった。肌は上質な絹のようで、穢れた部分など一片もない。前方から抉るような形で下半身を引き千切られているのを無視すれば、均整の取れた美しい肉付きをしている。節々が骨張っており、成長途中であるように思われた。

 小振りな乳房は生暖かい血にまみれていて、肋骨の下から露出している損壊した灰色の肺が呼吸をしようと蠢くたびに不規則に動き、少女の喉に不随意の苦鳴を奏でさせている。

 服を開き終えて、アルファⅡはうんざりした様子で大きく溜息を吐いた。


「やっと外せた。死ぬよりも疲れた。不死身でも疲れるのか。心なしか頭が熱い気がする……」


『知恵熱かも知れませんね。精神外科的心身適合の機能が想定していないタイプのストレスの可能性もあります。お疲れ様です。ただ、貴官の使用している肉体で少女を組み伏せている図は、倫理的に問題かと思われます。警察が来る前に処置を済ませることを推奨します。なお、当機に弁護機能はありませんので、弁護士は自分で用意をして下さい。逮捕された場合は自動的にエージェント登録から抹消されます』


「我々が潜伏している間に不死病患者の人権周りの法律が整備されていたとして、これは何罪になるんだろうな……。ああ、やっと一息ついた感じがする。ホッとした、という感覚だな」


 少女の上半身の腹部の断面は、人工脳髄からの命令を受けて自己修復を進めていたのだろう、小さな独立した生態系の様相を呈していた。筋組織や神経組織、骨髄や臓器などが粘性の触手を伸ばして、それぞれ番うべき相手を求めてのたくっている。

 血管系は闘争する蛇のように鎌首をもたげ、隣り合った血管とぶつかりあい、間欠的に血液を噴き出していた。

 アルファⅡは再度、異様な感覚を得る。


「やはりおかしい。ユイシス、血管系を閉止しようとした痕跡はあるか?」


『貴官の疑義を肯定。痕跡を発見出来ません』


「やはりプシュケ・メディアか人工脳髄に不具合が出ているではないか? どうであれ、まずは修復か」


 傷口に下半身をあてがってやると、肉の触手たちは激しく脈打って絡み合い、互いに食い合い、溶け合うようにして繋がっていった。

 皮膚が大きく撓み、膨らみ、そして傷口が癒着して、数秒で消えた。


 ユイシスが音声や表皮の動きを解析して、少女の肉体の内部の変化を視覚化した。産毛一つ無い滑らかな腹の内側では、切り分けられていた臓器やその他の組織が順調に繋がりつつある。

 新造が始まっていた器官も分解、あるいは融合を始めている。

 血流と体温の急激な変化に耐えかねたのか、少女の顔貌のみならず白い肢体も仄かに赤味を帯び、小刻みに震え、口からは血ではなく熱病患者のような熱い息を吐くようになった。

 身体の活性化が進んでいる。

 じきに話が出来るようになるだろう。

 

 アルファⅡが『安堵』の感覚を再確認していると、ユイシスが嘲笑うかのように囁いた。 


『勘、と言っていましたか。貴官が警戒していたような事態は、結局起きませんでしたね。警戒と結果が大きく食い違うというのは、スチーム・ヘッドとしては危険な兆候です。要注意事例として記録しておきます』


「ふむん。非言語的な感覚を過信しすぎたか。肉体に特有の感知能力だから、何かあると思ったのだが。私自身が似たような光景をどこかで見ていたのかな。不規則に発生したデジャヴという線もある」


『後ほどサイコ・サージカル・アジャストの再調整を実施しましょう。さて、そろそろ彼女に服を着させてあげては?』


「そうだ、気が抜けていた。このままだと寒そうだ」


『その服を着てもあまり温かくはないと予想されますが。不朽結晶連続体の下がほぼ全裸では保温効果も期待できません』


「うーん、私のように寒冷地に肉体を適応させているのだろうか?」


 アルファⅡは少女に再び行進聖詠服を着させてから、ふと気がついて、周囲を見渡した。


「……蒸気機関がないな。どこかに飛んでいったか? 電力不足でプシュケ・メディアがダウンするのは避けたい。どんな形をしていたのだったか……ユイシス、衝突寸前の映像を再生してくれ。形状を確認する」


 アルファⅡは何も無い空間に首を向けた。

 意図を読み取ったユイシスが、無垢の雪原の上に、プロペラに切断される寸前の、二本の脚で立っていた頃の少女――仮称『キジール』の姿を投影した。

 情報を一部省略しているのか、実際に見た時のような微笑は浮かべていない。

 完全な無表情が張り付いた顔貌には、少女性に執着する人形職人の手になる精巧な細工のような、病的な美しさがある。


「……奇妙だ。最初からそれらしき装備をつけていないな。まさか生体電流発電式か? 実用化されていたのか……あり得ないと思っていたが……いや、何かがおかしいな、頭が熱い、記憶の読み出しが……」


 すると、空間に投影された金髪の少女の映像が。

 呆れ果てた、とでも言うような様子で首を振った。


「呆れ果てました」


 実際に言った。


 アルファⅡは突然の事態に硬直した。

 不意に吐き気を覚え、頭を押さえる。

 ヘルメット内部の無数のプシュケ・メディアが発熱しているのが分かった。


「何が……起きて……?」


 女は人形めいた退廃的な美貌を崩さないまま、無表情に口を開いた。


「貴官の知見を修正します。スチーム・ヘッドは、むしろ『蒸気機関』を装備していない機体が多数です。直接の戦闘を想定しない機体であれば、貴官の装備しているような重外燃機関はむしろ排除される傾向にあります。死荷重となる場面が多いからです。これはスチーム・ヘッドに関する知識の基礎中の基礎ですよ。そんな基本的な事実に思い至らなかったのであれば、貴官はプシュケ・メディアをオーバーホールした方が良いのではありませんか? あはは。冗談です。石頭ならぬ不朽結晶頭の貴官は、もはや再調整もままならない身です。壊れるその日まで動き続けるしかない。もっとも、こうした不具合が出ることは、想定の範囲内ですが」

 

 アルファⅡは愕然とした。

 ……仮称キジールが肉体の再生を終えて起き上がって、映像と重なるようにして立って、そして、前触れなく、何か物凄く感じの悪いことを言い始める。何という事態だろうか。合理的に考えれば、目の前のこれはそういう悪夢だ。

 一瞬はそう考えたのだが、ヘルメットのバイザーを向けると、水蒸気となって消えつつある血だまりの中で、件の少女はまだ横たわっていた。


 つまり、目の前に立っているのは、あくまでもユイシスが記憶領域から再生した映像に過ぎないということになる。

 顔かたちはもちろんのこと、複雑な装飾の施された制服も、長い黄金の髪の香しい煌めきも、横たわっている少女と何ら代わることがない。外観上は同一の存在と判断して差し支えないだろう。

 再生映像にしては、呼吸や、些細な肉体の仕草までもが生々しく、解像度が高すぎる。

 魂が宿っているか、人工脳髄が操る感染者であるかのように、明白な存在感がある。


 金髪の少女の、神に愛された均整の取れた細いかんばせが、不意に笑みの形に崩れた。

 涼しげでありながら、挑発的な色合いのある、かすかな嘲りの笑み……。


 アルファⅡはその笑い方で完全に理解した。

 一度も見たことはないはずだが、凄まじい既視感があった。

 彼女・・なら絶対にこういう人を馬鹿にしたような、悪びれたところのない笑みを浮かべながら喋るという確信があった。

 何より、外観を反映しているのだろう、どこか幼いような響きになってるが――。

 その抑揚のない喋り方には、聞き覚えがあるのだ。


「君は……」


 砲金色のヘルメットをノックして、問いかける。


「君は、わたしの頭の中にいる、ユイシスだな?」

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