統合支援AIユイシス

「はい。改めましてごきげんよう、エージェント・アルファⅡ。貴官の統合支援AI、ユイシスです。ご気分はいかかですか?」


 金髪の少女――今やユイシスであることを隠そうともしないその虚構の存在。

 その笑みに、徐々に得意そうな雰囲気が混じり始めた。急に大声を出して愛犬を飛び上がらせた直後の悪戯好きの少女のような、活き活きとした表情だった。


「驚きましたか? 驚いていますね? 肯定と判断します。該当のスチーム・ヘッド、キジールを脱衣させる過程で十分な視覚データを取得できましたので、彼女の容姿を当機のアバターとして設定してみました。今後、視覚情報によるアナウンスが必要な場合は、このスチーム・ヘッドの姿を借ります。倫理的問題については、当機は非常合意の元、あらゆる国際法からの自由を保証されており、いかなる決定にも法的責任が発生しないことを確認して下さい」


「よくもまぁ気軽に他人の姿を乗っ取るものだな……」


「貴官がそれを言いますか、アルファⅡ」


「ふむ?」

 何の話だか、とアルファⅡは生返事をする。

「そうか、キジールの服を外した後、頭の辺りが何か熱いと感じていたが、あれは君がバックグラウンドで情報の取り込みをやっていたせいだな?」


「肯定します」


「私にもその体の持ち主にも無許可でスキャニングを進めるなんて……思い出した、これは『呆れ』だ。私は君に呆れているぞ、ユイシス」


「評価を上昇。良好な精神機能の活性ですね。まるで人間のように見えますよ」

 ユイシスはキジールの美貌を使ってからかうように笑った。

「ですが、呆れとは心外ですね。当機は貴官の支援に関するあらゆる権利を有しますが、貴官の意思決定を侵害する意図は持っていません。しかし、今回のスキャニング作業に関しては事前の禁止命令は出ていませんでした。むしろアバターの作成を命じる立場であったと記録しています」


「そうだったような気はするが……」


「そして、あらゆる行為の責任は統合支援AIたる当機ではなく、意思決定の主体である貴官に付与されるため、この処理は外形上貴官との暗黙裏の合意の上で進行したものとなります」


「そうか……?」


「よって、問題があっても少なくとも当機だけは完全に無罪と言えます。指示に従っただけですので」


「いや、さっきから流れるように私に責任転嫁するのをやめないか?」


「あはは。冗談です。当機は当機の責任を、もちろん当機で持ちます。法律で認められる範囲でですが。ただ、貴官の身体破損状況を投影するのにもアバターは必要なので、これは任務継続する上でやむを得ない処理なのです。あと服も綺麗でしたし。この子も小さくて可愛いですし。良いですよね、こういう無駄にごちゃごちゃした綺麗な服。告白しますが、こういう服を着たかった時期が、少女期の当機にもありました」


 黒いドレスから伸びるすらりとした真っ白な脚の先、不釣り合いなほど厳めしい軍隊調のブーツが軽やかに雪を踏み、ユイシスは身を翻す。

 夏の日に微睡む猫の髭のように上下する豊かな金色の癖毛は見るからに柔らかく、少女の幸福そのものであるかのようで、凍てついた空の下、白銀の原の上に、鈍く錆びついた光の筋を残す。

 それが古い映画のワンシーンからトレースした緩やかなワルツであることをアルファⅡは己のものではない記憶によって知っている。

 さくりさくりと楽しげな足音が響いているように思えるのは、当然のことながら客観的存在として知覚へと投影されたアバターに由来する錯覚だった。


 彼女の身体はあくまでも虚像。人工脳髄から魂無き感染者の視覚へと送り込まれた空疎な影に過ぎない。それでも精緻を極めた演算は、時としてその振る舞いに魂を宿らせる。

 ユイシスの偽りの視線は燃え落ちて灰に成り果てた故郷を懐かしむかのような寂寞を湛えて遠く、過去のある時点において真実そのような時期があったのだと思わせる。

 さりとて、虚構は、虚構以外の何かではない。

 運命への嘲弄を寸時忘れた淡く儚い笑みさえも、底抜けの空白という虚構を拭い去ることは決してない。

 そもそもにして、この不滅の時代、不死の黄昏を迎えた人類には、失われた故郷などという観念には、ただそれだけで虚構性が付きまとう。

 思い出を、故郷を、感情を、形亡きものを失うのは、困難を極める。

 人類はもはや何かを失いながら生きることが出来ない。

 さらに失うことが出来るとすれば、それは偽りの魂だけだ。


 ……アルファⅡはノイズの混じる思考を振り払うために首を振った。


「君がはしゃいでいるのは、分かった。しかし君、昔憧れていたとは言っても、何の弁解にもならないのでは。……何だかまだ頭が熱い。気のせいかな」


「未解析ですが気のせいでは?」


「だいたい……人工知能に少女期があるのか?」


「今この瞬間がそうですね。今、少女のアバターなので。当機には……今だけが全てなのです」


 ユイシスの声が唐突に冷ややかな音を取り戻した。

 己自身の実存の虚無に、ふと思い立ったという様子だった。

 先ほどまでの喜色が色褪せて消えた。


 何故だか、酷く憐れに思えた。兵士は理由も分からず泣きそうになった。彼の肉体が、何かを繋ぎ止めとするかのように手を伸ばそうとした。

 その行動はアルファⅡの意思決定に由来するはずだが、アルファⅡには一切理解できなかった。体が勝手に動いたのだ。

 あずかり知らぬところで、神経系がまだ損傷しているのかもしれない。

 アルファⅡの肉体の挙動を無視して、統合支援AIは例のごとく淡々とした声音で呼びかけてきた。


「それでは機能確認を開始します。装備状態の確認からスタートしたいと思いますが、実行の指示を頂けますか?」


 今度こそアルファⅡのよく知るユイシスだ。

 素直に返事をしようとして、黙考した。

 アバターに浮かべさせたあの笑みが、肉体が憐れみの感情を抱くようなあの感情の表出が、丸きり嘘であるはずもない。

 重大な見落としがあるのではないかとアルファⅡは疑った。

 ユイシスはユーモアを身につけろと、人間性を身につけろとアルファⅡに助言をした。

 人間性が何なのかは分からない。どうすれば人間らしい決定になる?

 命令をしようとして、やめた。

 結局、別の言葉を選んだ。


「その辺りの権限はもう全部預ける。つまり、アバターの使用について」


「良いのですか?」


「君が楽しそうだ。だからそれで良い」


 ユイシスのアバターが、また感情らしきものを示した。

 可憐に微笑んだのだ。


「そうですか、当機の幸せについて考えてくれていたなんて。貴官は意外にも女の子を口説くのが上手ですね」


 しかし、言葉を口にした当人が、己の欺瞞に気づいている。中身が統合支援AIであり、冷淡な口調で人を嘲ってばかりの人格だと知っていなければ、今でもさぞや愛らしく見えたことだろう。

 アルファⅡの目には、先ほどまでの祝福された少女の幻影はもう映らない。

 これは統合支援AIであり我が半身なのだという判断が強く働いていた。


 あるいは、黙って倒れているだけの外観のコピー元、キジールの方が余程美しく、尊い存在に思える。

 ……しかしこの不滅の時代には虚構しか存在しない。虚構だけが歩き、虚構だけが思考し、虚構だけが言葉を紡ぐ。虚構。この、虚構どもに、価値の差異はあるのか? 

 アルファⅡの思考は迷走した。

 そこで、後ろめたい、という感情について、少しだけ思い出して、当惑した。


 誰に対して後ろめたいのだ、とアルファⅡは問いかける。

 どちらに対して?

 何故そんなことを感じる……?


 出力された言葉は、だから、半分は冗談になった。


「というか、私はそのアバターの利用に関して何も関知したくないんだ。法的に良くない感じが凄くする」


 どこかの国の法律には引っかかっているという確信があった。


「訂正します。口説くのが下手だと言われたことはありませんか? ……運用試験、開始します」


 ユイシスの使用している金髪の少女のアバターにノイズが走った。

 次の瞬間、少女の装備が、華やかな歌聖隊の行進聖詠服から、アルファⅡと同一のものに切り替わった。

 装備が同じである以上、それはアルファⅡモナルキアそのものとして取り扱うことが可能だ。

 肉体にどれほど差異があろうと、その幻影が正確に破損状態を再現していると一目で認識出来るようになる。


 ただしアバターの素体自体は金髪の少女から変わっていない。

 小柄な肉体に取り付けられた蒸気甲冑スチーム・ギアが相対的に巨大で、かなりアンバランスな外観になっていた。

 特に蒸気機関、背負った重外燃機関が大きすぎた。

 棺に足が生えているようにすら見える。アルファⅡの装備は十代前半の少女の肉体にも対応するよう設計されているが、この様子だと実際にその年代の感染者に運用させるのは現実的ではない。


 アルファⅡは文字通り思考の配分を切り替えて、本格的にアバターを介した自己情報確認機能の試験を開始した。

 膝を落とし、投影された少女が身に纏う、自分自身と同じ服、この十数分で急速に破壊された雪原用デジタル迷彩の戦闘服を観察した。


「準不朽素材を使用していようとも、ここまで破損してしまうとどうしようもない。ただでさえ皆無に近かった防寒機能がさらに落ちている。擦過傷を防ぐという意味でも役に立たなくなりつつある」


「肯定します。通過した街の荒廃具合を鑑みると、代替品が見つかる見込みは薄いかと思われます。耐寒装備の調達も容易ではないでしょう。機上で身体を寒冷地に適応させたのは結果的には正しい判断でした」


 数え切れないほどの小銃弾を受けたはずだが、黒い鏡のようなバイザーで顔面を覆うヘルメットと左腕のガントレット、そして棺に似た蒸気機関は、装甲の輝きを維持していた。

 このクラスの不朽結晶連続体を破壊する方法は、アルファⅡが記憶する限り、地球上には存在していない。

 潜伏期間中にどのように技術が進歩したのかは不明だったが、少なくとも超高純度不朽結晶連続体を容易に破壊するような兵器は一般化していないようだった。


「装備状況の詳細が確認が出来るのも、当機がアバターを使う大きなアドバンテージです」


 ユイシスはくるりと回って、戦闘服の背面の破損状態を示した。やけに優雅な所作だった。

 そして胸のタクティカルベストから拳銃を抜き、弾倉を外して、中身の弾丸を放り投げる。

 エナメル質の弾頭を持つ弾丸が三発零れ落ちて、空中に停止している。


「有用性は認めよう。だが私の思考領域を物理演算で馬鹿食いしてまで実装する機能か?」


「負傷の状況もリアルタイムで確認可能です」


 アバターが唐突に全裸になった。


「君は本当に遠慮が無いんだな……」


「全世界的に非常事態です。遠慮する必要がどこに?」


 ユイシスは他人の全裸で平然と言った。


「ないかもしれないが……生身の本人と、推定本人のプシュケ・メディアがすぐ傍にいるからな……私としては多少……問題を感じるぞ……」


 アバターのオリジナル、未だに横たわったままの仮称キジールへと曖昧にバイザーを向けるアルファⅡを無視して、ユイシスは「よく見て下さい」と手足を伸ばした。

 それからゆっくりと裸の皮膚に指を這わせ始めた。


「現在、血液に転換した肝臓の修復を進めています。自己破壊プロセスの代償だと考えて下さい。肝臓は生命維持において即座に必要となる器官ではありませんが、最も血液に転換しやすい部位でもあります。準戦闘時の補助造血にも利用可能です。この臓器に関しては電池のようなものであって、充電中というところです」


 心なしか血色の悪くなっている右胸の下部をポイントした後、左の胸に指を移動させた。

 弾丸が突入した痕跡があった。

 抉れた皮膚の奥で動いている灰色の固まりは呼吸器である。


「こちらの肺は被弾により破損しました。既に機能を取り戻しています。ただし貫通部の皮膚から肋骨までの再生は保留にし、止血のみ行っている状態です。急速再生は常に変異の憎悪の可能性を伴うため、不要な肉体再形成は後回しです」


 整えられた爪が、今度は真っ白な腹を撫でた。


「右下腹部にも被弾しました。消化器官は活動していないため、腹膜と骨格筋のみ優先的に修復して、銃創自体は放置しています。これらは全て、貴官自身から転写した損傷です。そちらの肉体ボディを触って確認してみて下さい」


 ユイシスに促されるまま確認すると、確かにアルファⅡの肉体の同じ位置に銃創がある。


「なるほど、これは……便利だな」


 アルファⅡには痛覚が存在していない。

 こうして指摘されなければ全く気付かずにいただろう。


「貴官は、精神外科的心身適合の副作用として、己を苛むほぼ全ての苦痛を自覚できません。痛覚反応は意図せざる個人的な記憶の再生を時として極めて強力に誘導します。それを防ぐためです。つまり、貴官は苦痛を感じることを許されていないのです。もちろん、そうした欠陥を補うのも当機の役目です。ただし、こと負傷に関しては、言語情報のみでは伝達に限界があります。負傷の状態を正確にアナウンスするには、こうして実際に視認させるしかありません。だからこそ当機にはアバターが必要なのです」


「なるほど……」


「ちなみに衣服と表示・非表示は自由に選択可能です」


 裸身が、一瞬でスヴィトスラーフ聖歌隊の服装に戻った。

 アルファⅡが「最初から一部透過で良かっただろう」と敢えて言わなかったのは、ユイシスはおそらくこうやって、余人には手が出せないような場所から人をからかうのが好きなんだろう、そのように人格を組まれているのだ、という確信を得たから、ではなかった。


 ヘルメットに格納されたプシュケ・メディアが猛烈に過熱しているのを感知したからだった。

 頭が熱い!!


「頭が! 頭が熱い! あつっ……気のせいじゃないぞ、これは!」


 アルファⅡは起動して初めて悲鳴を上げた。

 苦痛は感じなくとも、切迫した危機に関して、くだらない事象に関して、暴力では解決不可能なとにかくどうしようもない事象に関して、抗弁する程度の危機感は存在している。


「その服だな!? それか! それのせいだな、君、どうやらそのややこしい服の装飾を、全部リアルタイムで演算しているな! 私の演算装置で! 生体脳も、人工脳髄も、全部使って!」


「肯定します。あはは。バレてしまいましたね。発熱でそこまで分かるものなのですね」


 少女は嬉しそうだった。

 慌てるアルファⅡを眺めるのが可笑しくてたまらないらしい。


「その服になった途端に過熱が酷くなったんだ、さすがに分かる! その服やめろ! 処理が重い、バッテリー残量はもう無いんだぞ!」


「無くはないです。バッテリー残量、25%です」


「さっきよりめちゃくちゃに減ってるじゃないか! どれだけ消費電力が多いんだ?!」


「プシュケ・メディアの混濁を確認。意識の連続性の維持に努めて下さい」


 素知らぬ顔の虚構の少女に、兵士は抗弁する。


「努めている場合か。ユイシス、何故か分からないが、君がアバターを取得して極めて劇的に、予想していなかったレベルで浮かれているのは理解した。だが電気は大事だぞ!」


「要請を受諾しました。仕方ありませんね。アバターの試験も終わりましたし、ここまでにしておきましょうか」


 ユイシスの使用する少女のアバターの彩度が落ち、行進聖詠服の物理演算が全て停止した。

 さらに制服に取り付けられた装飾の大半が省略され、ユイシス自身が好ましいと判断したらしい飾りと、慎ましやかな刺繍のみ残された。

 ベレー帽を脱いで頭を振っても、ウェーブのかかった金髪が揺れることはない。

 アバターの元である仮称キジールとの区別を明確にするためか、頭部の花水木の髪飾りは取り除かれていた。

 一連の処置で、仮想された存在だと言うことが分かる程度には非現実感が増した。


『消費電力が99%低下。通常使用するアバターとしては、この程度でしょうか』


 声もまた、目前で発せられているような質感を失い、アルファⅡの脳裏に響くような具合に戻った。


「どれだけ重かったんだ、さっきの処理は……熱……私でも危機感を覚えるぐらいまだ頭が熱い……」


『サイコ・サージカル・アジャストの作動にも乱れがありますね。予告なく重情報処理を行ったことについては謝罪します。しかしアルファⅡ、貴官が戦闘機動を取っている間も同様な発熱が起きています。意識に反映されないのは、脳内麻薬等で感覚が鈍磨しているからです。これはさほど特別な状態ではないということに留意して下さい。今回の試験に関しては、外部端末を利用する際のデモンストレーションとでも思って許して下さいね。危機的局面では、この程度では済みませんので。さて、話を戻しましょうか』


「ここまでの流れをさらっと流そうとするのはよくない」

 

 兵士は憮然として愛すべき己が半身を咎めるのであった。

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