使徒キジールと呪われた獣①

 今や不浄の血は視界のあらゆる場所から揮発して消え果てて、白雪よりも尚白い肌をした金髪の少女が、冥府の高名な将軍に召し上げられた花嫁のようなドレスに包まれた、その細い体を起こそうとしていた。

 骨格筋や内臓の再構築が完了していないのだろう、バランスを崩して倒れた。

 しかし緑色の瞳は、明らかにアルファⅡへと視線を注いでいる。


『目標の再起動を確認。統合支援AIユイシス、貴官の精神機能の調整を終了します』


 演算領域を確保するため、ユイシスのアバターが消え去った。

 アルファⅡがバトルライフルを構えようとするとユイシスの声が警告した。


『仕様を鑑みるに、キジールに単純な戦闘用の機能は備わっていません。過度の警戒は無用でしょう』


「では好きにさせてもらおう」


 バトルライフルをスリングごと雪の上に放り投げた。話し合いの場において、大型の銃器ほど悪感情を煽るものはない。

 アルファⅡは起き上がろうとしては失敗しているその少女の元へ歩み寄った。


「キジールか? 君の名前はキジールだな?」


 アルファⅡは少女の小さな体の傍に跪き、黒い鏡面のバイザーで顔を覗き込んだ。

 敵意らしき物が見当たらなかったため、己の意識からナイフと拳銃の使用可能性を排除。

 体格差がかなりある。いざとなれば筋出力の差で押し切れるという打算もあった。

 さっと首筋に右手の指を当てて脈拍を確認し、目の前で指を立てて視線の動きを確認し、眼球の運動が正常性から演算された意識が覚醒していることを確認した。


 手を軽く握って、小さな握力の反射で以て肉体の再生が一応終了していると見做し、少女の矮躯の上半身を抱き起こした。


「先ほどの非礼を詫びよう。ヘリの墜落は不幸な事故だった。プシュケ・メディアの動作は正常か? まずは名乗るべきだな。私は調停防衛局のエージェント、アル……」


「ミラーズ……スムース……グリース……リーンズィ。チェルノ……」


 少女は譫言のように、リズムを奏でるようにして言葉を繋ぎ続けていた。


「どうしたんだ? ユイシス、彼女は何を言っている?」


『推測。視覚情報からの連想では?』


「……まさか私のヘルメットのことを言っているのか? 確かにミラーのようだし、滑らかスムースだし、レンズリーンズィのようにも見えるかもしれないが……。まだ意識が混濁しているのではないか。キジール? 大丈夫か、私の言っていることが分かるか? 人工脳髄を一旦引き抜いて人格の再構築を……あるいは他の肉体に移し替えるか。引き抜くにしても、どうするのが適切な手順なのか……」


 キジールのウェーブのかかった金髪に付いた雪を払おうとしたアルファⅡの右腕を、黒い聖詠服の腕が阻んだ。

 明確な拒絶の意思。


「……私の蕾に触れてはいけません」

 

 少女は艶やかな瞳を向けて歌った。


「実らぬ花でも、散らしてはなりません。偽りの魂であろうとも、そこに心の影があるならば、我々は尊厳を認めます。異教の民であろうと、我々はその献身を認めます。あなたがたは、違うのですか? 黒いレンズのスチームヘッド……」


 聖歌隊のレーゲントは、分からず屋の子供を諭すような口調で語りかけてきた。


「私の聖霊は、私の肉体にのみ適応するよう調整されています。無用な配慮です」

  

 おそらく人格記録も人工脳髄も専用のものであるから、干渉しないよう窘められている。無礼なことをした、とアルファⅡは反省した。


「私の言葉が分かりますね、リーンズィ。……チェルノ・リーンズィ……あなたの名前は、リーンズィですね」


「え? 何だ? 何がだ?」

 アルファⅡは困惑した。

チェルノ・リーンズィ黒いレンズ?」


「私が名付けます。あなたはリーンズィです」


「いや、何度も言うが、私はアルファⅡ……」

 

 言葉は中断させられた。

 キジールが金髪を揺らしながらふらりと立ち上がろうとして、また転びそうになったからだ。

 その小さな体を支えるためにヘルメットの大柄な兵士は慌てて動く羽目になった。


『推測。転倒は負傷によるものでは無いかも知れません。彼女の装甲服の伸縮性を考えると、着衣状態では自力で起き上がれない可能性があります』


 言われてみれば、キジールの制服は豪奢な装飾が施された拘束服のようにも思えた。

 布地が膝上までしかないのには特別な理由が無く、この仕様だとあまりに丈を伸ばすと脚がまともに動かせないという切実な事情があるのかもしれない。

 思考を巡らせる兵士の腕の中で、少女は甘やかな息で言葉を紡ぎ、レンズと形容したそのヘルメットを撫でた。


「赦します、リーンズィ。神は赦します。あなたの体温から、善き心が伝わってきます。悪意はないのでしょう。そう、誰しもが、悪意無く悪を働いてしまうのです。『わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている』……」


 キジールは再び捉えどころの無い動きでアルファⅡの手を逃れた。

 そしてさりげなく背中を押す兵士の腕の力を利用しながら、今度こそ雪原にブーツの爪先を埋めた。

 それから棺を背負った奇妙な姿の兵士のことなど見えていないと言った調子で、背後の雪原、森林との境を眺めた。

 溜息を吐いた。

 指先を己の薄い唇に当てて接吻し、額にその指を掲げ、胸に降ろし、左肩、右肩の順で動かした。

 十字を切っているらしい。


 改めて兵士に、アルファⅡに向き直る。

 諦観と幸福感に彩られた、例の退廃の気色漂う笑みを浮かべて、胸の前で手を組み、彼女はアルファⅡへと改めて口を開いた。


「リーンズィ。私は、鉄の雨において警告しました。血を以て危機を知らせようとしたのです。拙速だったかも知れません。きっとあなたは弾丸に恐怖し、あのような行いをしたのでしょう。私は赦します。私もまた、過ちを行いました。リーンズィ、私の知らない再誕者。赤い竜を従えた者。あなたもそうであることを期待します。あなたも私を赦してくれることを期待します。私の神を、あなたは知らなかった。私は私の神があなたを導くことを信じなかった……」


 些か宗教的な脚色が強いが、アルファⅡにも辛うじて意味を取ることが出来る。

 赤い竜を従えた者、というのは、おそらくヘルメットに刻まれた調停防疫局のシンボルマークのことだ。

 そして互いに不信があった点について反省しようと持ちかけている。

 実に平和的で、アルファⅡの期待通りの反応だ。


「もちろん、我々も君を許す。あれは不幸な行き違いだっ……」


「しかし、誰しもが、眠れる仔の前では、静粛にしなければならないのです」


 キジールの語りは、幼い顔立ちに見合わぬ泰然たる声音だった。

 体の線が浮き出た扇情的な薄い布地の制服は、むしろ無垢なる祈祷者の無謬性と儚い祈り、弱く美しい神聖の正当性を讃えるための有意な装飾に見えた。

 奇怪な聖性の発露に、アルファⅡは己の言葉を差し挟む余地を探しあぐねる。


「私は、止めようとしたのです。祈りを捧げていたのです。ですがあなたに通じなかった。いいえ、あなたを、信じなかった……。あなたに、神の、我らが父の加護があることを信じなかった。こうしてみると、私の信仰の至らなさがこの事態を招いたのでしょう。神との契約に基づき、我が仔は目覚めてしまうでしょう。ああ、ですが神よ、父よ、どうか御慈悲のあらんことを。彼らをお赦しください。彼らは、きっと自分が何をしているのか知らないのです。彼らの背徳は、むしろ私の咎なのです。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、 燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。善を以てしか善は導けない。それをひとときでも忘れた私の間違いだったのです」


「何を言っている、キジール? 意識がまだはっきりしていないのか? それともバッテリー切れが近いのか? 私のバッテリーにはまだ余裕がある。補給が必要ならすぐに行おう」


 嘘だった。戦術的には、他者に気安く分け与えられるほどの蓄電量ではない。

 だがアルファⅡにとっては分け与えることに躊躇は無かった。

 スヴィトスラーフ聖歌隊の『原初の聖句』は確かに危険だ。

 最上位の幹部層ともなれば、ただの一機で一つの街の全員を洗脳して、信者や兵士に作り替えることが出来る。

 だが、それだけだ。

 仮に世界に破滅を振りまくための機械であろうとも、意図された真の性質は、ある種の献身であるためだ。

 戦闘が成立しない状況下であれば和解の余地はあるはずだった。アルファⅡはそのためなら幾らでも譲歩をするし、そうしたいという欲動に突き動かされていた。

 それこそが調停防疫局のエージェントの使命なのだから。


「我々には、可能な範囲において必要な支援を行う用意が……」


「私は目覚めています。何も必要としていません。ただ神の愛のみを希います。……あなたは、私を知っていますか? スヴィトスラーフ聖歌隊を?」


「……知らないはずが無い。ロシア衛生帝国で軍の基地を占拠し、最初の高高度核爆発を引き起こした狂気的なカルト組織――スヴィトスラーフ聖歌隊」


 答えるアルファⅡの声に、しかし敵意や悪意はない。

 目の前の存在を、ただの感染者、保護すべき対象として扱うことに、迷いはなかった。


「……青い竜を背負った人々は、かつて私に銃を向けました。あなたは、そうではないのですか?」


 青い竜?

 その単語に対して、ユイシスが世界保健機構のシンボルをサジェストする。

 杖に巻きついた蛇の、青い色彩の旗。

 国連軍と合流して戦闘に参加していたWHO衛生維持軍のことを指しているのだろう。


 あちらの紋章に描かれているのは竜ではく蛇で、アスクレピオスの杖というギリシャ神話に由来した医療のシンボルなのだが、何事にも己らの宗教的解釈を持ち込む彼女たち聖歌隊の世界観では、攻撃を加えてきた集団は竜、悪魔の手先なのであろう、とアルファⅡは解釈した。

 説明するにしても難儀だ。

 であれば、率直に誠意を伝えるしか無い。

 問いかけてくる耳に心地よい声に、アルファⅡは不朽結晶連続体のレンズを黄色く発光させることで応えた。

 嫌が応にも不安感を掻き立てる沈みかけた黄昏の光から、キジールは目を逸らさない。


「……君たちは、罪人だ。私にとってもそれは代わらない。君たちは世界に不死病を蔓延させ、世界大戦の引金を引いた。どれほど美しい姿をしていようとも、どれほど哀れに振る舞おうとも、君たちの手は余さず血で染まっている。この時代、この不滅の時代が終わるまで、君たちは誰かから、永久に忌まれ続けるだろう」


 しかし不朽結晶の黄昏色の輝きは、地平線へ没したかのように静かにレンズから消えた。

 相対する者に心理的な隙をつくるための操作だ。


 アルファⅡは生身の右手で、キジールの右手を柔らかく握った。

 そして片方の膝をつき、親愛なる友人であるかのように、忠義を誓う騎士のように、風雪の原野で遭難者に身の安全を保障する救助隊のように、強く握りしめた。


「だが、それがために制裁を与える権利など、私には無い。そんなことには興味もない。無駄だし、無意味だ。もう猶予は残されていないんだ。不死病に感染していない人類はもうきっと存在しない。都市で、荒野で、地底で、宇宙で、死ぬことの出来ない哀れな人々が取り残されている。一刻も早く全てを停止させなければならない。さもなければ……永劫に続く無意味で無価値な、最悪の殺戮の連鎖が、いつかどこかで必ず花開くからだ。私の望みは全ての感染者を無意味な戦闘の災禍から救い、そしてその災禍を討ち滅ぼすことにこそある。信じてほしい。君を傷つける意思は、私には無い。過去に何があろうとも関係ない。私は君たち全てを、まだ救える感染者の全てを、守りたいのだ」


 訴えかけるように聞こえるよう調節されたアルファⅡの言葉に、少女は、ほう、と、生者のように息を吐いた。


 そして「ハレルヤハ」と笑った。


「仇敵が膝をつき、友愛を語る。素晴らしいことです。ああ……神の王国の来たらんことを。皆幸せでありますように!」


 歌う聖女に兵士は頷く。


「我々としては君たちスヴィトスラーフ聖歌隊と和解し、無益な争いを即座に停止したいと考えている。これは調停防疫局の総意だ。これを、どうか君たちの組織の統率者に伝えてくれないだろうか?」


「応えるまでもありません。たとえ眠っていようとも、我らが主、我らの父は、あなたを見ておられます。私の怪我を癒やしたその善心を、神はきっと見ておられます。しかし、それも――あやまちではありました」


「……何が、何だって?」


 先ほどから戸惑い通しだ。

 会話が噛み合ったと思った傍から、何か違う会話へと移ろっていく。

 スヴィトスラーフ聖歌隊に特有のプロトコルがあるのだろうと推測し、アルファⅡはユイシスにどういう文脈でこの会話がなされているのかを問いかけたが、返答は短い。


「不明です。サポート不可能です。彼女たちの教義は破綻しているのです。正統な解釈は通じません」


 返すべき言葉を探している間にも、キジールは夢見心地といった微笑で、聖典の切れ端に書き殴られた嘆きでも朗読でもするかのように繊美な声を奏でた。


「あなたは善なる者です。本性がどうであろうと、私はあなたの善性のために祈ります。ですが、あなたはあやまちを犯しました。我が仔は、私の芳香に、使徒の香りに、母たる私の香りに、安らいでいたのですから。私が聖詠を唱え、我が身が獣へと変じることを封じ、祝福された血を流している限りは、微睡みのうちに、我が仔は煉獄で安らいでいられたのです。私の信徒たちはもう僅かしか残されていません。再びの眠りを我が仔に与えられるかどうか、自信が持てません」


 少女は自分よりも遙かに背の高い兵士の胸に手を伸ばし、幼子を安心させるように優しく撫でた。


「しかしリーンズィ、あなたがまことの善を知る者であれば、神はお救いになるでしょう。疾くお逃げください。これよりは審判の時、殺戮と狂乱の時間です。私は今一度、私の血と祈りで以て、我が罪と悲嘆に報います」



 そのとき、幕を切るように、咆哮が轟いた。

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