使徒キジールと呪われた獣②
アルファⅡはキジールを咄嗟に引き寄せて、己の背後に押しやった。
そしてバトルライフルを拾い上げ、バレルをガントレットで掴んだ。
意識して深く息をした。
腐臭がする。
脳裏をよぎるのは、雪原を渡る鴉の影。
光を通さぬ森林の薄暗がりと、燦々たる陽光の降り注ぐ雪原の境目。
そこに、突如として亀裂が走る。
世界の綻びを繕うための楔が、引き抜かれでもしたかのように。
一瞬の静寂。
次いで吹き荒れた遠雷の如き轟音が、雪原の静寂をこの地上から放逐した。
それは怒りのままに薄氷の空白を荒々しく突き破って現われた。
雪に覆われた地面から伸ばされる、皮膚の剥がれ落ちた巨大な腕。絶えず蠢き続ける赤黒い肉からは、汚濁した体液を吐き散らされ、あるいは出血して、震えている。肉は腐敗して残らず液状化しており、滝のように腕の表面を流れ、しかし地へと落ちることは無い。
腐肉の濁流は重力に逆らって体表を循環し続けている。
猛烈な異臭が、雪原の空気を地の底の監獄のように淀ませる。
それは、叫んでいた。
「MOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOM!」
天地を貫きなお響き続ける狂い果てた絶叫が雪原を震わせた。
アルファⅡの総身が毛羽立った。
「
選択は即時、戦闘行動を即決。
バトルライフルから右手を離し、左腕のガントレットのタイプライター調の鍵盤に指を走らせ、解除コードを入力し、入力決定のハンドルを引いた。
そして構え直したバトルライフルの射撃モードをフルオートに切り替えて、腰を落として射撃姿勢を取る。
キジールは腐肉の巨腕を見つめながら、敢えて前に進もうとした。
アルファⅡが静止するのにも構わず、首を振った。
「抵抗してはなりません。疾くお逃げなさい。あなたまでもが、ここで不滅の肉体を、その神に祝福された安逸なる肉体を失う必要はないのです」
「そうはいかない。非武装の感染者を、スチーム・ヘッドを、あれらから見捨てて逃げることなどあり得ない。あらゆる闘争を調停する。破壊する。根絶する。この地を平定するために来た。悪性変異体は鎮圧せねばならない」
ユイシスの声が耳朶に木霊する。
『生命管制フルオープン。感染者保護の優越に基づく局内法規を適応します。不明目標の解析を開始。待機して下さい』
「了解した。全ての計算資源を回してほしい。厭な予感が的中したわけだから」
「……あなたは兆しを見ましたか?」
キジールは不思議そうに問うた。
「神の兆しを、見たのですか?」
「MOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOM!」
再度の雄叫びに、肉体が本能的な怯懦を見せたが、生命管制がそれを打ち消す。
「キジール、君はここで何をしていた?」
「私たちは海岸には辿り着けませんでした。だから我が落し子をここに埋葬し、眠らせることに決めました。私たちは、凪いでいました。それなのに、あなた方の回転する羽の鉄の獣が、暗黙の眠りを引き裂いたのです……」
「ここに、じゃあ、閉じ込めていたんだ? あいつを、閉じ込めていたんだな? だから私たちを攻撃して、ヘリでの接近を止めようとしたんだな? あいつを起こさないように。
アルファⅡのレンズは怪物を注視している。
脆い雪花の檻の縁にかかる、流体の腐肉に包まれた呪われた怪物の腕。
二本、三本、四本と増えていく。
人為的に掘られたらしい巨大な穴からずるりと這い出た肉体も、やはり重力を裏切って循環する形無き水、泥濘の如き流体で形成された異形の腐肉であり、凍てつく大気を犯して溶かし不浄なる蒸気をたちのぼらせる。
物理法則をも穢す冒涜の巨人は、唸り声とともについにその全容を現した。
丸太ほどもある強靭な二本の脚に踏みしめられた雪原は瞬く間に腐った汁に染まり、吐き気を催す異臭を発する穢れた土となった。
振り回された四本の腕が背後で葉擦れの音を立てていた木を手当たり次第に粉砕しそのたびに衝撃で腐肉が狂おしく暴れ狂った。
巨大な怪物に首はない。人間らしい頭部がない。
流動する肉体が、自身の破壊した木々の倒れる音、風の吹く音に反応して、荒れ狂って波打った。
森から飛び出してきた鳥の群れに叫声を発して腕を降るい、嵐の夜の豪雨のように液状の腐肉を放射して群れに浴びせた。
鳥たちの羽は朽ちて、肉は見る間に腐り落ち、神に実存を否定された土塊であったかのように得体の知れぬ腐肉になって落下した。
死を振りまく腐肉の巨人は、醜悪だった。
背にした青空すらもくすんで見えた。
アルファⅡは唐突に、蒼穹を渡る白と黒に彩られた鴉を思い出した。
あのハシボソガラスは何故飛んできたのか?
「さっきの鴉は……あれが目覚めると知っていたのか?」
馬鹿げたことを考えるな、とアルファⅡは首を振ったが、キジールの翡翠の瞳に光が掠めた。
「……カラスを見たのですか?」
少女の声に、アルファⅡよりも早く怪物が反応した。
その清明な、聞く者の心に得体の知れない甘い感情の波紋を打ち出す声を、驚異的な聴覚によって拾い上げたらしく、腐肉の巨人はまた絶叫を上げた。
そして進むべき道を知らない盲目の殺戮者のように、一歩、また一歩と、近寄ってきた。
腐った汁が雪を溶かして、穢らわしい湯気を立てた。
キジールの問いかけを無視してアルファⅡは黙考する。
バトルライフルが通じるような目標ではない。
丘に戻り、さきほど轢殺した不死病患者から軽機関銃を取るか?
それでも火力は足りない……。
どう戦えば良い?
どんな兵器ならばあれを制圧出来る?
そして自分をじっと見つめたまま動く気配のないキジールに視線を向けた。
「……君は何故逃げない? あれをどうやって鎮圧したのかは知らないが、どれだけ危険か分かっているはずだ。このままでは君も同じ症状へと至る」
「私には使命があります。あなたは、どうなのですか? あなたは、兆しを見たのですか?」
「……ハシボソガラスを一羽見ただけだ。あちらの森から、飛んで来たのだと思う。あれの背にしている、あの森の方から飛んで来て……」
「兆しを見たのですね。ではリーンズィ、神は、むしろあなたを導かれたのかも知れません。神はあなたの背後を、まさに通っていたのかも知れません」
「申し訳ないが状況が状況だ、これ以上宣教に付き合っている猶予はない」
距離が縮まるほどに怪物の異様な姿が克明に観察できるようになった。
見上げるほどの巨体の中央が割れ裂けており、そこから蛆虫のような細かい肉に包まれた人間の上半身が突き出ているが、瞼はなく、眼球はなく、唇はなく、鼻はない。
ぐずぐずに腐り果てた手を前方へ突き出して、しきりに声を上げている。
いくら手を振り回しても何も掴めないことは明らかだが、彼、あるいは彼女には、その先に何も無いことが分からないのだろう。
アルファⅡはその姿に憐れみを覚えた。
精神外科的な切除では隠すことの出来ない哀しみに、胸が震えるのを感じた。
「ああ、さぞや苦しかろう。そうなってしまっては、不死の肉体は苦しいだろう。永遠に朽ち続けることの苦痛は、私には分からない。私にはもう君を救うことは出来ない。元の姿に戻してやることも出来ない。我々の力の至らなさを許してほしい。調停防疫局の敗北を許してほしい……だが、私は、私の全能力を以て君を解放することを約束しよう」
聖堂で告解するかのようなその言葉に、キジールは優しげに目を細めた。
そして模造の花水木を乗せた金髪を傾けて問うた。
「赤い竜の人。あなたは、何を携えてこの地に来たのですか? この最果ての地に?」
「さっきから何なんだ? 天国の東から炎の剣を持ってきたとでも言えば納得してくれるのか? ついでに言っておこう、時間が無いから。私の作戦目的は旧WHO事務局の安否確認、ポイント・オメガへの到達、そして遭遇した全ての戦闘行為の調停だ。……無差別破壊を引き起こす存在は絶対に放置できない。君は、即刻逃げるべきだ。現在の私、アルファⅡモナルキアに、非武装のスチーム・ヘッドを守りながら戦えるほどの余裕はない。正攻法では抑えられるかどうかも怪しい。だから君だけでも逃げて、私の言葉を君たちの主に伝えてくれ。もはやくだらない意見を争わせる
振り下ろされた斧のように、ユイシスの報告が荒々しく言葉を遮る。
『敵、悪性変異体を確認しました。非定型ではありますが、症例8号<雷雨の夜に惑う者>と判定します』
アルファⅡの視覚が拡張され、眼前の怪物――
悪性変異体の基本情報が展開された。
無数の忌名を与えられた呪われた存在。
不死病感染者の
悪性変異体との交戦に際して許可されるべき全ての倫理的例外についての事項がアルファⅡの言語野に次々にスクロールしていき、ユイシスによって一括して承認された。
『当機は、目標制圧のためにあらゆる支援を惜しみません。感染者保護の優越に基づく局内法規の適応範囲を拡大し、利用可能な外部端末の検索を開始。エマージェンシーモード、起動。コンバットモード、起動。オーバードライブ、レディ。オーバーライド、スタンバイ。非常時発電、スタンバイ。循環器転用式強制冷却装置、スタンバイ。機関内部無尽焼却炉、限定開放。炉内圧力、上昇しています。エルピス・コア、オンライン。
アルファⅡは、世界の混迷を映して鈍く輝く左腕のガントレット――
「仕掛けるぞ、ユイシス。目標、悪性変異体との交戦を開始する。我々は、このために造り出された」
怪物の唸り声を打ち消すかの如く
排気筒から鮮血の煙が噴出し、雪原とキジールを緋色に染めた。
この不滅の時代、この不死の時代、この不朽の時代において。
真実を巡る闘争の戦端は、例外なく宵闇の淵、夕焼けの緋の色をしている。
兵士の背で棺の如き鉄塊が臨界を迎え、世界の果てへと金属の擦れ合うような異音の汽笛を掻き鳴らす。
血煙は透明になり、光を透かす不定形の膜となって空へと吹き上げられる。
もはや涙も涸れ果てた。
人類の歴史、その最果てには、鮮血と蒸気、そして怪物以外には何も残されていない。
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