エンカウント・フォール・アウト②
エマージェンシーモードの起動とともに、アルファⅡの生体脳髄に、即座に通常の人間ならば死亡するレベルの脳内麻薬が放出された。
全ての感覚がブーストされる。
心音のごときヘリのエンジン音、風切音の音階の微妙な変化、太陽の光の繊細なグラデーションの移り変わり。
地上、ヘリに巻き上げられる雪花の溶けて形を失っていく様まで、つぶさに知覚可能となった。
『警告。不明勢力の展開を確認しました』
> もう見えている
アルファⅡは声ならぬ声で吐き捨てる。
レンズを汎用モードに切り替えた。
それと同時にヘルメットが甲高い音を立てた。
衝撃で首が傾いた。
反射的に、装甲されていない生身の右手を前に突き出す。
強い光を遠ざけるように。
すると指が千切れ、手首に穴が穿たれ、ついに吹き飛んだ。
銃撃されている。
アルファⅡには飛来する銃弾がはっきりと見えた。
対感染者用の標準的な弾頭。強烈な破壊力がある。
本来ならば右手全体が離断するところだが、コンバットモードは、戦闘による負傷に特に適合した状態だ。引き千切られた肉の断面から血が噴き出したのは一瞬で、すぐに血管が閉止した。
さらに、傷口から繊維異質の構造体が飛び出し、空中の肉片と即座に結びつく。
剥き出しになった神経や筋組織が、肉体それ自体から独立した生物、例えば粘菌や線虫のように傷口から伸びて、互いを引き寄せあい、そして瞬く間に手首を繋ぎ止めた。
『銃撃、尚も継続しています。防御して下さい』
アルファⅡは装甲された左手で右肩を掴み、左腕全体を覆うガントレット――超高純度不朽結晶連続体で構築された蒸気甲冑で胸部を守った。
降雹の只中に突っ込んだかのような衝撃が全身を揺り動かした。
身を竦めようとする筋肉を制御し、銃撃の方向を見据える。
2kmほども遠くの丘から火線が伸びていた。
ヘリのプロペラやエンジンにかき消されるせいでもあるのだろうが、銃弾が掠める音は殆ど聞こえない。
しかしガントレットに守られた胸とヘルメットは、遠方より飛来する弾丸によって常に打ち据えられ、調子外れのマーチング・バンドのドラムロールのような、けたたましい騒音を発していた。加速した知覚野では特に耳障りだった。
不明勢力は、的確に弾丸を致命的な部位に集中させているのだ。
生身の人間では実現し得ない精度である。
『貴官の予想は正しかったようです。戦争は絶滅していないと断定』
> 警告も無しに発砲してくるとは心外だ。抗議の窓口があると良いが。
『解析するには情報が不足しています。今は堪えて下さい』
> 堪えるのは気楽だ。待っているだけで良いわけだから。この距離では、敵が
雨嵐と降り注ぐ弾丸に忙しなくヘルメットを揺らされながら、アルファⅡは平然と尋ねた。
そうしている間にも成人男性の指ほどのサイズの弾丸がバイザーに命中して、ひしゃげて潰れて、張り付いた。
首を振るとその潰れた弾丸は無害な水滴のように離れていき、コックピットから吹き飛ばされた。
『不朽結晶連続体を破壊できるのは、同クラスの不朽結晶連続体のみです。スチーム・ギア、損傷率0%で推移。通常の弾丸では、雨粒と変わりありません。肉体に関しては、被弾により重要な血管が複数破裂しています』
> えっ?
『急速修復中。出血を補うため、短期の生存活動に不要な臓器を造血に転用します。悪性変異抑制のためにメインバッテリーを優先的に使用中。注意:戦闘終了後に充電が必要となる可能性あり』
> これ以外に何発か食らってるのか。
アルファⅡは昆虫のように不規則に痙攣する、再生した右手を見つめる。
> 気付かなかったな。
『貴官の意識には情報を反映させていません。そもそも手足が吹き飛ぶ程度であれば、再生速度がダメージを上回ります。だから何と言うこともないのですよ。海上飛行の方が危険だったぐらいです』
右手は既に何事もなかったかのように治癒した。
弾丸の雨を受けながら、座席の下で掌を開き、閉じる。
手先まで感覚が行き渡っている。
> 攻撃停止の勧告は?
『利用可能な全ての帯域に、常時行っています。応答はありません』
「そうか。あちらはあくまでも事を構えたいらしい」
アルファⅡのバイザーの下、レンズ状の透明な不朽結晶連続体が、黄色く発光を始めた。
警告色だ。こちらには迎撃の準備があるというサイン。それ以上の意味はない。
敵対勢力からの自発的な攻撃停止を促すことを期待して搭載されている機能だが、アルファⅡモナルキアの開発者たちが考えていたとおり、実際には効果は無いだろう。
砲金色のヘルメットの中で、アルファⅡは武装勢力の布陣を冷静に観察した。
黒い鏡面のバイザーに映る景色に映る人影は十三名。
ユイシスの解析によればほとんどが7.62mmNATO弾を使う一般的なバトルライフルや機関銃で武装している。
陣を構える面々は、その服装から過半数が正規軍の兵士だと判断できたが、ある者は雪原迷彩、ある者は都市迷彩、ある者は砂漠迷彩と言った有様で、著しく統一感に欠けていた。
どこからどう寄せ集めたのかすら想像が付かない。
おまけに、ユイシスがあらかじめ示唆したような継承連帯の機体、巨体のスチームヘッドは、何故か全く見受けられない。
目立った蒸気機関を身につけている個体すらいなかった。
敵勢力は目を見開き、この動作をこなすためだけに大量生産された機械であるかのように、一糸乱れぬ狙撃を続けている。
ただし射撃姿勢は棒立ちに近く、射撃のたびにこくり、こくりと居眠りでもするかのように揺れており、ナーフガンで射的に興じる子供の方が余程兵隊らしいという有様で、何故飛行するヘリに搭乗しているアルファⅡにこれほど正確に命中弾を送り込むことが出来るのか、理解できないほどだった。
> どうにも腑に落ちない。何だあの部隊は? 彼らは本当に継承連帯か?
アルファⅡは弾丸の雨に打たれながら率直な疑問を投げかけた。
「現地調達の感染者を使った
『警告。敵陣営最後尾に位置している、特異な感染者を認識していますか?』
「いいや。どの個体だ? ……言われてみれば、武装しているかどうか、どういう戦闘服を着ているかしか判別が出来ていないな。相貌失認のようなものか。生命管制から補正は可能か?」
『認知能力に問題が生じているようですね。サイコ・サージカル・アジャストの副作用でしょう。言語隠蔽値を減少、視覚野の言詞回路をスチーム・ギア内部の演算領域で補強増設。設定値の適応を開始します』
一瞬だけ視界が揺らぐ。
すると、自然に意識は不明勢力から逸れていった。
最後尾に佇む異物へと意識が集中した。
「何だあれは?」
疑問に思わなかったのが異常であるのは明白だった。
雪のかかる丘に展開するには場違いな服装。
武装集団の中でも一際に奇妙な出で立ちをした存在。
少女だ。
年齢は不明だが、他の人影よりも頭二つ分は小さく、とにかく少女としか言えないシルエットをしている。
この距離では意匠の細部までは観察できないが、金細工で装飾されたアンティーク調のドレスを身に纏い、羽根飾りのようなものが付いたベレー帽の下、ゆるくウェーブのかかった夢のような金色の髪を、荒ぶる風に任せている。
愛らしい造形の顎先が上下しているのが見えた。
何か唱えているようだったが、唇の動きを読んでも何を言っているのか理解出来ない。
「発話している? ではスチーム・ヘッドか。照合は可能か?」
ユイシスの声が脳裏に響いた。
『敵勢力のスチーム・ヘッドを確認しました。スヴィトスラーフ聖歌隊の
>
狙撃を受けて、ヘルメットの首がまた傾いた。
> 何で聖歌隊がいきなり出てくる。ここは継承連帯の勢力圏のはずでは? こんなに撃ってくるのも不自然だ。彼女たちは基本的に先制攻撃をしない。そもそも直接的な暴力の行使にも反対の立場だった。
『この土地にとっては、いきなりではないのでしょう。我々が当地より本拠地を後退させた段階では、ノルウェーは確実に人類文化継承連帯の攻撃に晒されていました。徒歩での行軍を好むスヴィトスラーフ聖歌隊の侵攻は、連帯に対し圧倒的に遅れていたはずですが、年月の経過は移動速度の劣位を覆します。我々の潜伏中に事態が変化したと考えるのが妥当かと』
> ……聖歌隊の調停防疫局との関係は?
『表面上の方針としては、全面的に敵対していました。補足すると、我々と友好的な組織は一切存在していません。世界保健機関との関係も微妙です。しかし、停戦交渉を持ちかける余地はあるでしょう。もはや我々人類には、浅はかなイデオロギーや宗教的対立のために争っている時間はありません』
> その方針には賛成だが、この調子だとまともに話は聞いてくれなさそうだ。……未だに通信の応答はないのか?
『肯定します。通信手らしき兵士も確認できません。現代的な電子機器の使用を嫌うのは聖歌隊の特質でもあります』
> 音声なら応えてくれるかもしれない。このヘリに、スピーカーとか、マイクは?
『報告。そこになければ、ないです』
> 難儀なことだ。……聖歌隊と言うことは、あの少女型スチームヘッドが『原初の聖句』で周囲の感染者を操っているのか。
『可能性は高いと思われます』
> 迂回して安全な場所に降りて、声で攻撃停止を呼びかけながら接近し直すのはどうだ。
『燃料に余裕がありません。不意な攻撃を避ける観点からも、対応しないことは推奨されません』
> このまま行くしかないか。よし……交渉のとっかかりは、こんな感じではどうだろう。
アルファⅡは頷いた。
> ヘリでこのまま突っ込んで、兵士たちを機体で潰し、あの少女型スチームヘッドを殺害する。どうせあちらのプシュケ・メディアも不朽結晶連続体で構築されている。それぐらいでは壊れないだろう。交渉するには対等である必要があるからな。着地と、敵戦力の排除と、交渉開始が同時に出来る。一石三鳥だ。
『何がよしなのか理解しかねますが。ヘリを突撃させるなど非人道的ではありませんか? 当機としては賛成しかねます。我々にはもっと合理的かつ公平性を担保した選択肢がある筈です。当機は、当機の良心、非常に人道的な観点から警告しています。回答の入力を』
アルファⅡは頷いて断言した。
> 残念ながら、これは不幸にもあのスチーム・ヘッドを巻き込む感じで起こる、偶発的な墜落事故だ。
『受諾しました。事故なら仕方ないですね。記録にも残しておきましょう。燃料切れの警告音もオンライン』
けたたましい警告音が鳴り始めた。
『こちらアルファⅡモナルキア、ロストコントロール、ロストコントロール。乗員は耐ショック姿勢を取って下さい。近隣住民はただちに退避してください』
ヘリは弾幕を避けることもせず、真っ直ぐ敵集団に向かって行った。
精密狙撃は続いていたが、ヘリそのものを撃墜するという発想や、それが可能な装備は存在していないらしく、誰もヘリが丘の斜面に激突するのを止められなかった。
そして、衝突した。
雪と土の塊の大瀑布。
凄まじい衝撃に、身体を座席に縛り付けるワイヤー・ロープがアルファⅡの腹に食い込み、ほとんど斬り込むような形で肉を裂いた。
想定していた通り、ヘリは墜落の衝撃で即座に自壊を始めた。
部品が飛び散り、フレームが砕け、テールロータが火を噴いた。
だがその程度の破壊では、現在までの飛行を保証せしめていた猛烈な推進力は消滅しない。
己の躯体を飛翔させていたエネルギーを維持して斜面を進み続けて、進路上にいた兵士五人を巻き込んで押し潰した。
さらにその先に、目標の少女がいた。
発動機から見放されたプロペラブレードは、それでもなお殺人的な回転を続けている。
螺旋を描いて土を抉り飛ばし、機械仕掛けの切断装置と化して少女に迫っていった。
アルファⅡは少女を見た。
黒を基調とした軍隊じみた色彩のアンティーク・ドレスの膝丈の裾が暴風に煽られて踊るように揺れて、素足にブーツを履いただけの細い脚が露出し、ベレー帽は吹き飛ばされて飛んでいった。
逃げる素振りがない。
何も理解していないのかもしれない……。
プロペラの刃が少女に触れる寸前、目が合った。
こちらの視線はバイザーに阻まれ、あちらからは見えないはずだが、アルファⅡは目が合ったと感じた。
ティーン・エイジャーと呼ぶことすら躊躇われるほど幼い少女だ。
あどけない顔立ちには、侵しがたい聖性が滲んでおり、そのくせ蠱惑的な色彩を帯びて美しい。
波打つ金色の髪。
白い花水木の髪飾りをしていた。
加速された知覚野、引き延ばされた時間の中で、少女はアルファⅡに微笑みかけてきた。
真珠のような白い歯。顔立ちは目を見張るような繊細な造形だったが、おおよそ国籍が不明だった。
穢れというものとは無縁な笑み。
死という望まれざる来訪者すら、その胸に迎え入れるかのような。
その微笑みの意味を推し量ろうとしている間に、メインローター・ブレードが、少女の胸から後ろの腰にかけて、斜めの角度で、そのか細い胴体へと叩き込まれた。
衣服ごと真っ二つに引き裂かれるかと思ったがそうはならなかった。ブレードは回転方向に沿って胴体を思い切り砕いて叩き割り、ドレスに守られた腹の部分を完全に押し潰したが、ドレス自体は全くの無傷だった。
『解析:不朽結晶連続体』という文字列が、アルファⅡの視界の、死と婚約した花嫁のような意匠のドレスの傍らに表示される。
不朽結晶。不死病のもたらした恩寵の一つだ。
不滅であることを約束されたこの物体は、高速回転するブレード程度では破壊できない。
少女の肉体は、ドレスごとメインローターの回転に巻き込まれた。襤褸人形のように振り回されて、とうとう衣服だけは無事なまま、肉体だけが決定的な破断の時を迎えた。
スカートの裾から、瑞々しい臓物の破片と一緒に、裸の下半身が打ち出され、それはあろうことかアルファⅡを目がけて飛んでくる。
ヘリのコックピットでワイヤーロープを切断するためにナイフを抜いていたアルファⅡに肉付きの薄い脚が直撃し、砲金色のヘルメットが血と臓物で濡れた。
上半身はと言えば、羽衣のように、伽藍堂のドレスの腹をなびかせながら、丘のさらに向こう側へと吹き飛ばされていった。
そうして呆気なく雪面に墜落した。
聖なる影が介在する余地はどこにもなかった。
半分だけになった体で成す術なく雪原に投げ出されたその小さな影は、どのような陰惨な道を辿ってここに至ったのであれ、今は破滅的な運命に撥ね飛ばされた、哀れな存在に過ぎなかった。
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