キャットの説法①
アスファルトがなだらかに隆起したクヌーズオーエの外縁部。
固有の名前すら無い、この鏡像の迷宮に無数に、あるいは真実数限りなく配置された、ありふれた廃棄市街。
リーンズィはライトブラウンの髪に灰混じりの風を浴びながら、目を伏せ、長い睫で瞳を隠し、薄目で朽ち果てた風景を見送っている。
がたん、がたん、と歪な不可視の線路を走る荷車が苦鳴を上げる。
立ち並ぶ標識を見よ、悉くねじくれて、雷に打たれた古木のように割れて裂け、それでも尚、霞かかる空、何者もありはしない虚空へと、救いを求めるように、黒焦げた手指の如きその分かたれた破片を高く伸ばしている。
最早何者も標識の意味を読み取れぬ。僅かに遺された色は赤。赤は血に通じ、血は大量死に通じる。大量死は疫病を呼び、不朽結晶の翼と蠍の尾を持つ馬のような蝗を招くだろう。しかしこの不死の都市、不死のともがら、滅びることすら許されぬ憐れな者どもは、流す血を誰もが失ってしまっていた。
殆どの不死病患者は、レーゲントたちが歌う人ならざる音声の鎮魂歌の中に微睡み、飲みさしで放り捨てた空き缶のような空虚さで佇む。
枯れ草の茂る歩道、赤色の標識が瞬いて、蒼く灯る日を待っている。
見上げるものは誰も居ない。
不死病患者たちは、夢を見ているのかも知れない。一切の精神活動が無いことは科学的に証明されている。だが、リーンズィは胸騒ぎとともに、形の無い空想を脳裏で検証する。魂無き者どもは、誰かが先に進めと言ってくれるのを、新しい魂が吹き込まれる日を、遺言を言いかけた途中で事切れた口元が、新しい言葉を紡ぐその日を、待っているのではないか。
私は彼らに何をしてやれるだろう? どんな安らぎを与えてやれるだろう。
リーンズィ。アルファⅡモナルキア。君は、何をしてやれる。リーンズィ。何のために創られた?
彼女の感傷を知ってか知らずか、SCARのガンナー席に座った猫っ毛のレーゲントは、雑多な色彩の絵が描かれた画用紙を掲げ、神や悪魔と論争をする年老いた狂える宣教師、さもなければ壇上の三文役者のように、熱の籠もった声で説法を続けている。
「そこに聖なる猫の使徒たち、戒めの十匹が現れたのでした! だだーん! だだだだーん! ずしんずしーん! ずしゃー! ぎゃー! ずばずばずば! 威勢も虚勢もどこへやら、恐れ、戸惑い、みっともなく暴れ回る悪魔たち! びびびーっ。どかーんどかーん! でもその呪いは戒めの猫にまでは及ばないのでした。そう、彼らには人を呪うことしか出来なかったのです。聖なる猫に呪いなど通じないのでした。星々の煌めきに祝福された、蜘蛛の如きしなやかな八つの関節を持つ、高潔なる五番目の戒めの使徒は、その類い希なる腕前のキャットクローで、シュババ、シュババ……このようにして倦怠の病魔を薙ぎ払ったのでした。そして飢えたる人々の前に突き立てられた第一の戒律者! 彼は水をワインに、砂を金に、パンを肉に変え、ここに人々へ神との新たな契約を宣言したのでした! ハレルヤハ!」
歓喜の声とは裏腹に冷静にページを送る。
「神を疑っていた人々は随喜の涙を流し10匹の偉大なる猫、戒めの猫たちの前に跪きました。猫は言いました。にゃーと。それは哀しみのにゃーでした。そう、民はまだ真なる猫の意思に気付かなかったのです。役目を果たして光の粒になって消えていく聖なる猫の半分の部分……きらきらきら……しゅわー。第一の戒律者の見上げんばかりの巨体から放たれた光は万里を照らし、長きにわたる戦い終止符が打たれたのでした……聖なる猫の福音書第58巻、これにて終わりです」
ふー、とロングキャットグッドナイトは息を吐いた。
「これで聖なる猫と人間たちの幸福な出会いについて分かりましたね?」
「ぜ、全然分からない……」
聞き流していたリーンズィは至極正直に感想を述べた。
丸きり何も聞いていなかったわけではない。基本的には別のことを考えていたのだが、キャットの説法はそれを抜きにしても意味が分からない。
高層建築物の壁面や屋上、そこいら中を歩き回る武装したスチーム・ヘッドたちも遠巻きに、横目で説法を眺めていたが、珍獣の博覧会か旅芸人の演芸を遠巻きに見ているような具合で、特に感銘を受けた兆候は無かった。
「分かるはずです。絵が下手ですか? 挿絵が下手で申し訳ないとは思うのです」
「挿絵というか、絵画というか、その絵はとても上手だと思うが……」
「それでも分からないのですか……」
異様に写実的な、しかし明らかに猫では無い何かの怪物、さもなければ怪物のような猫が描かれた、無数の黄ばんだ紙の束をまとめながら、ロングキャットグッドナイトは訳知り顔で何度も頷いた。
「仕方のないことです、人は全知では無いので。繰り返し聖なる猫の啓示に触れれば、自ずから光の意味を知れるので、ご安心です」
「ええと……そうではなく……」
あまりに自信満々で言うので、リーンズィは二の句を継げなくなってしまった。
人工脳髄から生体脳へかけて展開している簡易ユイシス、模擬演算された代理知性体に助けを求めても『論理的な理解は不可能です、そんなことも分からないのですか?』とバカにされるだけだった。
だから隣にあぐらをかいて座っているマスターに目配せをした。
レアと共通部分の多い顔貌、飛行服のような装束を纏う、短い金髪をしたそのスチーム・ヘッドは……。
「え、俺も分からん」と戸惑いの声を上げた。
「分からない。よね?」
「まぁ普通分からんだろこれ……」
二人は廃墟の只中を進む荷車、がたごとと揺れる箱の中、見せしめのように武装したスチーム・ヘッドたちの只中で粗末な木組みの荷台に座り込んでいる。
藁の代わりに化学繊維を敷き詰めているおかげで座り心地は悪くない。
諸処の手違い、さもなければロングキャットグッドナイトの裁きに関連する手続き上の事情から、リーンズィたちをおいて本陣は先に出立してしまった。
移動は比較的静かなものとなった。しかし、遅参した戦闘用スチーム・ヘッドたちに紛れて、些か珍妙な有様を晒してしまっているのが、成長しつつあるリーンズィには少し恥ずかしい。
ふざけているのかと言われかねない状況だったが、非難や誰何、詰問の類が飛んでこないのは、ひとえに懲罰担当官であるコルト少尉が付き添ってくれているからに他ならない。ただ、他のスチーム・ヘッドたちが「何らかの罰ではないか」と憶測を話し合っているのをリーンズィは聞いた。
まさか相乗りしている猫のレーゲントが下しているペナルティだとは思っていないだろうが、しかしコルトが容認し、こうして移動に協力してくれていると言うのだから、まさしくコルトからの罰と言っても間違いは無い。
荷車を牽引しているSCAR運用システムはおおよそ乗客について無頓着で、平原の街の打ち砕かれた道路、なだらかな丘陵の如き罅割れてささくれたアスファルトを、雄牛の勇猛さで直進している。廃坑の線路を転げる骨董品のトロッコ列車のような荷車は如何にも頼りなく、いつ脱線を起こしても不思議では無い状態だったが、それよりも酷いものがここにある。
ロングキャットグッドナイトが福音書と称する何かだ。
語られる物語には、そもそも辿るべき道筋というものが存在しなかった。
「ではでは、まだ質問はありますか?」
貨車の座らされた二人の前、SCARのガンナー席に相変わらずちょこんと乗っている、軽くて小さな体の聖歌隊指揮者。
何だか不安定で、多足の大量破壊兵器が瓦礫を踏み砕くたびに一緒に跳ね上がる。
居住まいのどこにも威厳は無い。瞳が酷く虚ろで、リーンズィたちを見つめているようでいて実際には何者も見ていないかのような印象を与えることを除けば、ただの愛らしい少女だ。
ロジー・リリウムや他のレーゲントと比較しても、さほど力ある存在には見えない。
さらには、レーゲントが総じてどこか悪い意味で浮世離れした気配を纏っているのに対し、ロングキャットグッドナイトは異様なほど無垢だ。愛らしい顔立ちだが、それはある種の隔絶した純粋さを保障されており、彼女が誰かを誘惑している姿など、想像することさえ困難だった。
それと同様に、誰かを説き伏せ、心を操り、人形のような己の信徒することも、あまり出来そうには見えない。
どれほど文化的な高尚さで見積もっても、公民館の小さな読み聞かせ会に参加している、奉仕活動に熱心なティーンエイジャーという程度の雰囲気である。
彼女は自分は本当は強いのだと言っていたが、リーンズィにはどうにも彼女が悪性変異体やスチーム・ヘッド相手に渡り合っている場面がイメージできなかった。
ちょっとパンチされただけで「あー!」とか言いながらひゅーんって飛んでいきそう、というのがリーンズィからロングキャットグッドナイトへの忌憚の無い評価である。
ライトブラウンの髪を触りつつ、貸与されたセラピー用の安全猫(何が安全なのか分からない)を膝の上で遊ばせながら、おそるおそる挙手をして尋ねた。
「いくつか良いだろうか? 良いかな?」
「ハレルヤハ、知らないの中に知りたいを求めるのは良いことですので」
「……縮尺が分からないのだが、聖なる猫というのはそんなに大きいのか?」
「いえ、普通サイズです。例えば猫は大きいですか? 猫は大きくないです。しかし聖なる猫に導かれし戒めの罪人などは、猫ならなざるものなので、大きかったり小さかったりします。しかしその真のスケールは猫ならざる身の目には見えないのでした」
「そうなのか、そうなの……」と曖昧な顔でリーンズィが頷き、またペーダソスに視線を送る。
質問をしようにもこの様態である。実のある受け答えが生じない。微妙な表情をしているのでペーダソスも同意見に見えた。
あぐらの間にくるまっている猫をわしゃわしゃ撫でていたペーダソスは、溜息を吐いて挙手をする。
「形而上の世界ではもっと大きいってことか? 不可知論とかそういうやつか? アルファⅢの代替世界みたいな……」
「むむ、ご静粛に。ここは聖なる猫の勇壮さと慈悲、戒める者たちの永遠に救われぬ戦いに思いを馳せる場面なので。科学とかはお亡くなりです。神智学とかもお亡くなりです。切り捨てご無礼です」
「ご無礼て」
「色々な学問がカジュアルに死ぬのだな……」リーンズィが呟いた。
「っていうかあの……根源的なこと言って良い?」
マスター・ペーダソスは頭痛に耐えかねたようにグローブの指先で眦を揉む。
「なぁロンキャ……あのさ、気にしないようにしてたけどさ」
身振り、手振りで困惑を伝える。
「さっきのが29巻で、最初が13巻だったよな。それで、今度はいきなり58巻だろ。そんなに飛ばされたら俺らには何が起きてるのか分からんよ……」
ロングキャットグッドナイトの説法は一貫していっそ清々しいほどに不完全だ。
巻数すら飛び飛びなのだ。
うんうん、とリーンズィが首肯する。分かるわけがない。聖なる猫との契約について語った絵図だというのは何となく理解できるが、それ以上は何も理解できない。
話が全編を通して全然繋がっていないのだ。
「ロンキャよ、たとえば今の話だと、まず最初の最初、『そこに』の部分から分からん。どこに係ってんの、それ。あと、その悪魔? 倦怠の病魔? との戦いは、いつ始まったんだ?」
「それは8巻で説明されています。そして福音書はあり、猫はいます。それ故に非共時的な連続性により担保されるので」
「猫の人、何にも言ってないのと同じでは……」
「とにかく大事なのは、猫はいます、ということです」
「いや確かに猫はいるけどさぁ」
いったいぜんたい何が分からないのですか、とロングキャットグッドナイトは不思議そうだった。
「でもでも、次の福音書を読めばきっと分かるので。それでは第172巻……」
リーンズィは絶句した。
172巻。
「飛びすぎでは?」
「悟性により脱落は自然に補完されるので。それではついに現れた四十四組の四人の騎士! 10の戒律者たちもついには猛き不浄のアビシニアンを残して眠りについてしまいました! ただだーん! だーんだーん! エッフェル塔も溶けて曲がり、ベルリン王国の衛兵たちも幸せで温かい塩の塊に変じてしまいます。首都パリを脱出したフランク王国民に最後の試練が! そこに大好きな猫のお医者様と優しい巨人の画家が……」
「待て待て待て」ペーダソスが静止した。「なん……何だ? どうなってんの?」
「知らないキャラクターと集団がまた一気に増えた」
「物語とはそういうものなのだと聞いていますので」
「なぁ、なぁロンキャ、全200冊なのに172巻まで一気に飛んでるんじゃ、もう俺ら話絶対分からないって。いきなり話が進んだとか通り越して、いきなり最終刊間近じゃん」
「76巻から120巻までは最初から存在しないので。578巻で終わりです」
「えっ」
「は?」
リーンズィは呆然として、ライトブラウンの髪の少女の首輪に触れ、統合支援AIに助けを求めた。
アルファⅡモナルキア本体とのリンクは回復させているが、リーンズィの自主性を育成する観点から常時通信は控えており、リーンズィの首輪型人工脳髄にマウントしたユイシスも最低限度の機能しか有していない。
それでも仮にも人工知生体を自称する何者かである。
情報処理を専門とする存在なのだから、こういう場面は得意なはずだ。
「ユイシス、ここまでのロングキャットグッドナイトの話をこう……情報解析的なもので要約してほしい」
『要請を受諾しました』
薄笑いを浮かべた金髪の少女のアバターが現れ、リーンズィの視界の隅でこれまでにスキャンした画像と、書き起こした朗読を一覧化した。
『分析を終了しました。人と猫がいると推測されます』
「それは分かる……」
『では、エージェント・リーンズィは該当レーゲントの論理を充分に理解している状態であると結論出来ます。それが理解出来ていないのは問題かと。初期化しますか? 一からやり直しますか?』
「そうか……いや、初期化はいい……あと何で君は軽量化モードなのにそんなに辛辣なんだ……?」
リーンズィは思い悩み、猫をそっと持ち上げて、ロングキャットグッドナイトの真似をして掲げてみた。
お手上げのポーズだった。
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