絶滅の灼熱①

 赤土の荒野が初夏の夕暮れの凪いだ海原のように果てしなく横たわっている。

 海原との間に違いがあるとすれば、この荒野には見渡す限りどこにも生命が存在しないことだろう。


 少女たちはフリアエの指示通りに死の最果てを直進した。

 戦乱も疫病も真実途絶えて消え失せた終末後の静寂。

 赫赫たる斜陽。輪郭の見えない茫洋とした深紅の光だけが淡く散らされた雲を照らしている。

 太陽の姿がどこにもないことにリーンズィは気付いていた。

 何か終局的な破壊が訪れたらしい。世界は永遠の黄昏に微睡んでいるようだった。

 方位だけを示された旅程は未だ終点に至らず、起伏のほとんどない荒野は時折陽炎に揺らめく程度で、変化に乏しかった。

 いよいよ自分の足で歩くようになったミラーズも、この土地を移動することにまるきり興味を無くしてしまったようで、半自動モードに切り替えている。リーンズィも同様で、意識レベルを極端に落とした状態で行進を続けていた。


『天体観測、環境測定、全行程を終了しました。統合支援AIユイシスより各機へ通達。まことに遺憾ながら、認知機能をロックします』


 全天を覆い尽くす赤い光を浴びて歩き続けるうち、不意に淡々としたアナウンスが響いた。

 擬似人格演算を曖昧な状態で維持していたリーンズィは我に返り、伸ばした両手の先にあるミラーズの両肩を撫ぜて、それからベレー帽を乗せた緩くウェーブのかかった髪から漂う濃厚な花の香りを楽しみ、ようやく覚醒した。


「認知機能をロック? どうしてそんなことをする?」


 ライトブラウンの少女は視線を虚空へ彷徨わせながら、僅かに首を傾げた。その声がやや不服そうだったのは、微睡みながら歩いているミラーズの背中を押していることに関係していた。

 最初は自覚は無かったが、ユイシスの突然のアナウンスに、ミラーズの香りを嗅ぐ行為を咎められている気がしたからだ……と潔癖そうな顔立ちの少女の肉体が結論したのは、ユイシスに返事をして数秒の後だった。


「ああ、こうしてミラーズの匂いを楽しんでいるのがいけないのか? 風が、とてつもなく変な臭いがするんだ。それをミラーズの香りで相殺したいだけなのだが、やはり君の気に障ったのだろうか」


『いいえ、当機もそこまで狭量ではありません。当機が愛するその少女の価値を存分にご堪能下さい』ふふん、と得意げな声がした。『もっとも、彼女の愛は、当機にこそ向けられているのですが。実際、現在も夢の世界で彼女のアバターは当機のアバターと戯れている最中です』


「両方とも彼女由来のアバターだが……」


『ドッペルゲンガーの肝要な点は、同一存在でありながら両者が決定的に他者であるという事実にあります。当機のアバターが彼女そのものだとしても、彼女が世界に二人存在することはあり得ません。ですから、当機のアバターはミラーズと一緒だからこそ、決定的に彼女とは異なる存在となるのです』


「そういうものか? 何だかズルいことを言っている気がする」


 後ろからは横顔しか覗えないが、目を薄く開いて歩き続けているミラーズは心なしか幸せそうだった。荒涼たる景色の中で、そよそよと揺れるベレー帽の羽飾りもどこか長閑さを感じさせた。

 不死病患者は夢など見ない。見るとすればそれは作為的に構築された幸せな時代の虚像に過ぎない。

 偽りの時間に閉じ込められた幼い少女の貌は幸せを象徴する箱庭に飾られた人形のよう。後ろ腰に吊るした刀は儀礼用の装飾品で、きっと血を見たことなど一度も無いのだと信じそうになる。


 リーンズィは少しだけ素っ気なく「うん、でも、別に君と張り合うつもりもない」と言いながら、小さなミラーズの体に背後から抱きつき、彼女の豊かな金髪から放たれる花水木に似た香りを肺腑に吸い込む。


「ミラーズは本当に良い匂いがする。精神が落ち着く」


『随分とオリジナルのアルファⅡから個性が変化してきましたね。あの機体なら決してそんなことはしないでしょう。……この遣り取りは以前にもした記憶があるのですが、貴官のその行為は変態っぽくないですか? ミラーズは優しいので、直接的には変態とは言わないでしょうが』


「自分でもそのような印象はある」

 少女は頬が熱くなるのを感じた。羞恥。初めての感覚だ。

「でも、これがしたくて仕方ない」


 歩みを速めて緋色の空に燦然と輝くミラーズの金色の髪を胸に抱く。リーンズィは、ミラーズの後頭部のふわふわとした髪へ整った鼻を埋め、そして口の端を僅かに上げた。


「ヴァローナの肉体に意識を転写するまで、こんな感情はなかった。おそらく彼女の人工脳髄と肉体が、私の意識に干渉しているのだろう。彼女はミラーズが好きだったのだ。それにつられて私もミラーズを好ましく感じている。そして、好かれるつもりがないから、こういうことが出来るのだ」


『ミラーズは貴官のことも嫌いではありませんよ』


「夢の世界で彼女を独占していると余裕が違うらしい」


 甲冑の指で、ミラーズのお腹をさすりながら、少しばかりいじけた様子で溜息をつく。触れたとき、金髪の小柄な少女がくすぐったそうに喉を鳴らしたが、リーンズィを意識してのことではあるまい。

 おそらく封鎖された意識の世界でのユイシスとの遣り取りに由来している。肉体の反応はその副産物にすぎないはずだった。


「だから、彼女にこんなことをしても、君は全然気にしないわけだ」


『この地位は正妻の特権ですからね。より公正を期して正姉妹、いいえ、偽姉妹、真姉妹、真なる連なる姉妹の特権と換言しましょうか。当機はミラーズの鏡像、ミラーズは当機の鏡像なのですから、どれほど深く繋がっていても、それは自明の権利として処理されます。即ちミラーズの心は当機の心であり、逆もまた然りです。ミラーズが拒んでいないのなら、当機もそれを追認します』


「……やっぱり、なんだかずるい」

 リーンズィの潔癖と柔媚の同居する顔に翳りが射した。

「つまり私は、ミラーズに関して、一生君に勝てないということでは?」


『張り合うつもりは無いのでしょう?』

 ユイシスはミラーズの生き写しのようなアバターを表示して、妹をからかうような調子でリーンズィの鼻先をつついた。

『当機には肉体が無いのですし、リーンズィの感覚取得も控えている状態なのですから、彼女の意識を独占することぐらいは許諾して頂ければと』


「独占するも何も、アルファⅡモナルキアに従属しているにせよ、ミラーズは我々の所有物では無いと思うが……」


 そんなやりとりをしている間にも、時折強い風が吹く。空気は煙たく、硫黄のにおいを孕んで逆巻いている。

 リーンズィは咳き込んで、鼻先をミラーズの頭に寄せた。


『貴官の汗にも空気の浄化作用はあるかと思いますが』


「ミラーズがいい」


 この空間の風は酷く不快だった。

 奇妙な粘性を帯びており、生暖かく、頻繁に目に塵が入る。

 不朽結晶の装甲に包まれた指先で慎重に眦を擦りながら、半自動モードで稼働中のミラーズを押して、一定のペースを保って歩く。


「それにしても、先ほどの件だ。認知機能のロック。必要性を感じないのだが、何故そんなことを? もう全自動戦争装置と交戦の可能性は無いだろう。これ以上の機能制限は無意味では」


『肯定します。短期間に連続しての機能制限は非推奨行動であり、当機としても不本意です。しかし生命管制統括として、この処理を行わざるを得ないと判断しました』


 アバターを消去したユイシスは、破滅の預言書を読み上げる巫女のような静かな声で告げた。


『これから直面する危機は全自動戦争装置との対立以上に実際的なものとなるでしょう。対抗するために、リーンズィとミラーズの思考能力を一部制限しますが、これは精神外科的心身適応の範囲外の事象に対抗するための処置です。ご容赦ください』


「容赦するもしないもない。どうせもう、私の本体が、つまりアルファⅡモナルキアが決定しているのだろう」


『忠告。ミラーズに全自動戦争装置の存在を認知してもらったのと同様に、貴官にも事態の趨勢を飲み込む義務があるのです。リーンズィ、復唱してください。何があっても大丈夫』


「了解。なにがあっても大丈夫」少女はミラーズの髪に顔を埋めたままこっくりと頷いた。「……何が起きる?」


『説明の必要を認めません。当機はこれより、アルファⅡモナルキア、そしてサブ・エージェントたるミラーズおよびリーンズィの生命管制に全力を尽します。どうか当機を信頼してください。……夢の中でしか彼女を幸福に導けない当機の代わりに、ミラーズを助けてあげてください。大丈夫、当機は……貴官も愛していますよ』


 そうしてユイシスは声までも消え去ってしまった。


 十分もしないうちに異変に気付いた。

 リーンズィの手甲から、ぽたぽたと汗が滴るようになってきた。

 不死病患者の肉体の恒常性は通常の生物学の領域を越えて頑健である。オーバードライブへの突入などの異常事態や、体に異常に重い負荷がかかった時以外は、汗をかくことなどない。

 だが、事実として発汗が著しい。ミラーズの髪も汗に濡れ始め、いっそう濃く甘い、花の蜜のような狂おしい香りを振りまいている。

 先導するアルファⅡに照会して外気を確認すると、摂氏五十度を越えている旨が視覚の片隅に表示された。


 不死であるべき少女は焦燥して息を呑んだ。

 時間が経つにつれ、気温が上がりつつあったのは感じていたが、これ程まで上昇しているとは考えていなかった。

 不死病患者に特有の温度感覚の鈍さのせいだ。

 首輪型人工脳髄は、寒冷地に合わせてチューンされた肉体を、短時間でこのような酷暑の環境に対応できるよう調整できるほど高性能ではない。

 

 気温は過酷さを増し、ガス交換のために胸を膨らませるのが苦しく、乳房の下に大量の汗が溜まるようになったのが酷く気に障った。太股を伝った汗の悉くがブーツに流れ込んでいく。全身に大気がねばつく。泥濘地帯を踏破しているような心地だった。


 ああ、この風景は夕暮れなどではなかったのだと理解したのは、紫色の閃光が天地の狭間に瞬いたときだった。

 それを口火にして、世界の明度が増していく。

 急速に加熱された空気が地表からの熱と挟まれて撓みあるいは潰されて歪みレンズを作って方々の風景を歪ませる。一切合切がただ一道ひとみちに、恋に焦がれた少女のように加熱されていく。

 リーンズィは何度も振り返り、光の射す方向を探した。

 無駄だった。輝きの強くなる方角は定まらない。

 リーンズィたちが目指す方向を除いた全ての方角が、溶け落ちて赤熱していく。


 神の遺した綴織つづれおりを焼却して作られた絶滅の暁。定命の人間ならばとうに昏倒しているほどの酷暑。目の前の空気が歪み、息をするだけで苦痛が生じる。

 生理的な違和感に少女の肉体が竦むのをどうにか宥め賺し、リーンズィは歩いた。


 恐怖というものを知らない機体、アルファⅡモナルキア本体が残した足跡を命綱にして、目に染みる極彩色の赤い荒野を歩き続けた。

 しばらくして、先導をしていた兵士、アルファⅡが足を止めて、くるりと振り返った。

 事前に共有されていない動作だったため、リーンズィも慌てて止まった。

 ミラーズの動きも、肩を抑えて停止させた。


 

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