絶滅の灼熱②

 赤熱した世界に佇むその兵士は、世界を救う何者かと言うよりは、やはり見知らぬ星に漂着した宇宙飛行士、あるいは望まれない来訪者のようだった。

 その二連二対の不朽の眼球を収めたバイザーを、リーンズィとミラーズに向けている。

 黒く歪んだ鏡像の世界に佇む大鴉の如き少女が、気高さを忘れて弱り果てた様子で大粒の汗を流し、震えているのを見た。背を押されている小さな少女の金髪が、しとどに濡れて垂れているのを見た。


「ここが限界か」と兵士は言った。


 襤褸切れの衣服を鮮血色の風景を靡かせたその姿は、致命の時を告げる死神じみて不吉だった。

 ライトブラウンの髪の少女は酷く驚いた。

 私はここにいるのに、どうして、私が話している?


「アルファⅡは私に意識を転写している。喋っていいのか? 自己連続性に破綻が……」


 ヘルメットの兵士は首を振り、ガントレットの左腕で光を照り返した。


「問題ない。現在は私と君の間に、知識・認知機能の面で著しい不均衡が生じている。その差異を以て一時的に我々の自己連続性は個別に保障がなされ、互いに独立しての発話と思考が可能になっているのだ。アルファⅡモナルキアとしての機能を大幅に制限されている君には実感しにくいだろうが」


「そういうものか……?」


 少女は目に入りそうな汗を人差し指で拭い、首を傾げた。

 アルファⅡは研究者のような口ぶりだった。


「なるほど。客観的に見ると、さりげなく動きがあざとい。ミラーズたちの教育の成果か。その調子で対人交渉術を磨くべきだろう。相手の脆弱性を突いて陥落させられるようになれば有利だ」


「私はこの肉体で何のトレーニングをさせられているんだ……? それで、私、アルファⅡ、いったいどうする。どういう事態が起きる? 嫌な予感がする。理性では無く肉体の直観だが、そちらの私とて、生身の肉体を借りている身だ。何も感じないわけではないだろう」


 兵士はくぐもった声で「いいや、私は既に情報を得ている。だから何も感じない。我々は朝に備えなけばならない」と返した。


「朝に備える?」


「リーンズィ、ミラーズの両名に通達。行軍停止だ。まさかここまでの路程で、クヌーズオーエへの接続面を発見できないとは予想外だった。せめて遮蔽物を確保したがったが、これも期待できない。遺憾ながらここで状況に対処する。私の後方で待機してほしい。都市焼却機フリアエからの情報に虚偽がなければ、それも半刻足らずの辛抱となる。ユイシスが全力で君たちをバックアップする。聖歌隊風に言うならば、君たちの前途に安らぎのあらんことを」


「何を……」


 リーンズィが続きの問いを口にする前に、兵士は空模様を観察して方位を定めた。

 グリッドに沿うような精密な動きで歩き始め、リーンズィの背後に立った。

 そしてその巨躯でもって、旗を結びつけた斧槍を掲げた。


「何をしているんだ、私?」


 兵士は応えた。「影を作る。私が盾になる。フリアエは、埋葬対象のいない墓を掘るしかなかった。それと同じようなことだ。エージェント・アルファⅡは、この環境ではそれしかできない。最悪の場合は非常事態と判断し、そちらの肉体に対してコロネーション・プロトコルを実行する」


 コロネーション・プロトコル。

 それは即ち、『アルファⅡモナルキア』の本体を別の不死病患者へ移管するための手続きだ。

 同時に、現在まで使用しているメイン筐体を何らかの形で使い潰すことをも意味する。


「そこまでの危機になるのか?」


「ならないことを期待する。そちらのサイコ・サージカル・アジャストは不完全だ。あまり考えないほうがいい。ミラーズまで引き摺られる。二人とも美しい貌をしている。それ以上曇らせてほしくない」


「自分で自分に歯の浮くような世辞を言うのは、どういう気分だ?」


「私は君ではないので、分からない。現在は思考を共有していないし、あらゆるリンクを切断している。君はヴァローナの人工脳髄まで演算に組み込んでいるから、別の人格だ」


 リーンズィは全身を汗で濡らしていたが、しかし、冷や汗が出る、という感覚をまさしく思い出した。


「まさか……我々は……分離しつつあるのか? この『私』は……隷属化デバイスの中に封入された、別の人格……?」


「現在のアルファⅡモナルキアには三人分の人格を演算する余裕がない。とにかく朝に備えてほしい」


「朝が来る……?」少女は我知らず息を殺した。「ああ、ああ、そうか! 現在の気温は?」


「摂氏では六〇度だ」


「……朝が来るとどうなる?」


 兵士は頷いた。「……フリアエの観測では、人類はこの環境では生存できない」


 そして地平線で帳が開いた。

 リーンズィは兵士の背後で世界が発狂するのを見た。

 空が炎上していく。目に見える全てが赤熱して血を吐き大地へと朱色を零し零れた朱色は大地を燎原に火の走るかのごとく世界をさらなる真の色、殺戮の子午線へと変容させていく。新しい死と新しい血、あるいはこれまで見て見ぬ振りをされてきた流血の歴史が、一挙にこの赤土の荒野へと流れ込んできたかのようだった。何もかもが失われた世界が透明な鮮血に染まりその強烈な輝きに目が眩んだ。何も見えない。全てが赤い。何もありはしない。赤だけが世界にある。リーンズィは顔を背け、視界の片隅で地平線を捉えた。陽光と呼ぶにはあまりにも熱く暴力的な色彩。直視すれば眼球が沸騰しかねない。


 墜落するヘリの機上で、地軸に異変が起きている可能性には気付いていた。

 迷宮の如き森の中でも方位など無意味になったことは知れた。

 だが地軸や方位の異常など、もはや些末ごととしか思えない。この世界の破局は決定的なものだった。

 単純な地殻変動があった程度では、このような破局の風景は現われないはずだ。


「う……?」


 ミラーズも、身を焦がすような暑さに目を覚ました。


「熱い……? ……痛っ、目が痛い! えっ、何も見えない! 赤い?! 全部赤い! リーンズィ! ユイシス! 何が起きてるの?!」


「大丈夫だ。落ち着いて。落ち着くんだ。私はすぐ後ろにいる」


 リーンズィは鮮血の暴風に目を細めながら、じたばたと暴れる小さな肉体を胸元に引き寄せ、囁いた。

 己の身体から放出される花の芳香を嗅がせて沈静化させる。

 一般に、不死病患者の香りは加工して瓶詰めにすれば商品として販売が可能なほど甘美だ。それが、新たな感染者の発生源に成り得るとしても。


「目を不用意に開けてはならない、ミラーズ。夜が明けたらしい。ただそれだけだ」


 そうして光源に向かって背を向けたまま、アルファⅡの作る影へと、慎重に体を収めた。

 庇うように抱きしめて、姿勢を低くする。

 ミラーズは汗の滴る甲冑の腕に縋りながら、洗髪される幼児のように目を恐る恐る開き、「どういうこと?」と戸惑いの声を上げた。


「ずっと夕方だったんだから、夜が来たんじゃないの? あ、いつのまにか一晩も歩き通したということかしら? それにしたってこれは変よ」


「違うんだ、ミラーズ。。夜通し歩き通したのは、そうだと思うが。ずっと夜だった。おそらくこの世界の夜は、暗くないのだ」


「……気付かなかった。ここはどこなの? 土の質が、フリアエお姉様の掘っていた場所と違うわね」


「そうなのか? じゃあ知らない間に時空間の継ぎ目を通っていたのか……?」


「ずっと、ずっと……あの明るさで、夜? ああ、だから朝がこんなに暑いのね」ミラーズは奇妙な理屈で納得を得たようだった。「ああ、熱い……熱いわ。磔にされて火にかけられているぐらい、熱い。これが朝? 整えられた空も太陽も、ここには、ない、ではありませんか……」


 けほけほと咳き込む。その口中には唾液が存在していない。

 ミラーズは帽子を下ろして胸に抱え、細い指先でリーンズィの唇を探し、切り整えられて永久に伸びることのない爪の先で撫で、口を開くように促す。

 リーンズィがされるがままにしていると、ミラーズは背をリーンズィに預けたまま、手探りで唇を合わせた。少女の精悍な顎先を抑えたまま、執拗に水分を舐めとって嚥下し、息を整える。


「ふう。ここは、空気が乾燥しすぎね。気をつけないと声が枯れてしまうわ」


「い、今のは?」

 日光を受けて赤く燃える髪をした少女は、毅然とした気配をいっとき失って、とろけたような、呆けた顔をして、口を押さえる。

「いきなりだったので驚いてしまった」


「え? 口づけなんて挨拶じゃない。まだ慣れないのですか?」


「でも、普段とは全然違う……びっくりした……」


「驚かせるつもりはありませんでした。リーンズィは変なところで純真なのですね、気をつけます。でも、この暑さだと躊躇していてはなりません。水分は貴重です、出来るだけ融通し合わないとね」


「水分補給か……」


 ミラーズはおかしそうに笑ってリーンズィの頬から汗を舐めた。「こんな荒れた野の真ん中に、お水はないでしょう? そういう時は親しい再誕者と体液を交換するのが普通です。そうしないとあっというまに干上がってしまいますよ」


「普通。普通ではないと思うが」


「普通じゃないのはこの朝の方ですよ。リーンズィ、フリアエと遭ったときと同じぐらい、自分が怖がっているのに気付いてる?」


「怖がっている?」


 ミラーズはまた口づけをして、背伸びをして、自分よりも幾分背の高いリーンズィの頭を撫でた。


「こんなに体を強張らせて、怖がっていないわけがないでしょう」


「……そうなんだ、非常事態らしい」迷子になった猟犬のように眉根を下げて、少女はミラーズにおずおずと口づけを返した。「ユイシスが全力で生命管制をしてくれているが、不死病患者でなければ数分も持たない事態になるそうだ」


「再誕者の肉体でも、もうとっくに耐えられる温度ではないわね」


 ぱちん、ぱちんと胸元で音がした。リーンズィにはよく見えないが、行進聖詠服の留め金を外していると分かった。放熱効率を上げているのだろう。


「エージェント……ミラーズ。日光浴は体に良いと言うが」

 声を放ったのはヘルメットの兵士だ。

「君たちには悪いようだな。どんどん普通じゃなくなっていっているぞ」


「あれっ、そっちのアルファⅡも喋れるの?! ……けほっ、けほっ、リーンズィ……」


 ミラーズはヴァローナに接吻した。


「えへん。えへん。あーあー。よし。いいですか? 意識がリーンズィと同じだとしても、覗き見は感心しませんよ。互いを知るための夜でもありませんし、覗かれて困ることでもありませんが、リーンズィはまだ乙女なのです。恥ずかしがりやなのです」


「君は乙女になったのか、リーンズィ」


「どうだろう」酷暑とキスに晒されて、少女は火照った顔をしている。「ユイシスとミラーズと比べれば乙女かも知れない」


「そうか。君も大変だな。……ああ、私はただの日傘だから気にしなくていい。君たちだけでは深刻になりすぎるからな。現在は冗談を担当している。冗談は大事だとユイシスに教わった。適当にアナウンスをするから、何か方策があるなら二人で進めてほしい」


「ミラーズ。あっちの私は我々を保護するための独自行動の最中らしいが、いっぱいいっぱいのようだ」

 どこかまだ照れた仕草で、大鴉の少女は花飾の人工脳髄を触った。

「しかし、人がキスしているところをじろじろ見るなんて。端から見るとここまで空気を読まないのか、私は……」


「そうだな。私もその空気を読む機能とやらを獲得したい」


「はいはい、静かにしてください。今はリーンズィの綺麗な声以外聞きたくありません。男の人の声って暑苦しいし……リーンズィ、唾液ではすぐに追いつかなくなります。こういう状況では血を使うのが一番手っ取り早いわ」


 リーンズィは頷いた。体液の流出は問題だが、体外温度の異常な上昇の方が致命的だ。

 手甲を外し、土の上に放り捨てる。手を噛み切って、再生を抑制し、出血させた。ミラーズも同様に己の手を噛み切った。

 その手で互いに触れあい、特に重点的に脳を収容する頭部に血液を浴びせた。

 不死病患者の体液は体外へ出ると恒常性から切り離され、数秒で蒸発を始める。こうした特性はほとんどの場合大気を汚染させる以外の意味は無いが、蒸発する際に当然に熱を奪うため、ミラーズの提案したやり方は理に適っていた。

 力加減を掴みかねているリーンズィとは異なり、ミラーズの冷却作業は相手から不安を取り除くことを意図して優しい。リーンズィは頭の芯が痺れて呆とするのを感じて戸惑った。微笑しながら見守るミラーズに対して急に恥じらいのような感情が湧いてきて、自分が何を見ているのか、瞳に映る少女がどれほど美しく思えるのかを隠すために、さっと視線を背けた。

 二人の少女は、己らの糖蜜のような香りのする血で、お互いを冷やし合う生暖かいのは一瞬だけだ。すぐに蒸発し、独特な冷感が異様な体温上昇を相殺する。

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