最初の導き手③

「ありがとう。君の要請を受諾した」


 リーンズィはミラーズに由来する蠱惑的な笑みで少女の頬を撫で、そっと少女に口づけをした。そして少女の口の中の肉を噛み切った。

 震える少女を抱きしめて、舌先で傷口をなぞる。

 そして、糸を引く唇を離し、今度は生身の左手を少女の口に添えた。


「私の尊敬する人のように言うならば……」

 聖歌隊として生きてきたミラーズならば、きっと。

「『これを取って食べなさい』、だろうか」


 少女は赤らんだ顔のまま、鼻先を擦り付けるようにしてリーンズィの左手を吟味し、躊躇いつつも、薬指に舌を絡めながら、第一関節から先を口に含んだ。

 上目がちにリーンズィの顔を伺い、頷くのを見て、一息に指の肉を噛み千切って、嚥下した。


「……ああ、なんて甘くて、優しい味のする……」


「君は感染した。君は、不死の病のその感染者となった。これより一度の死を迎えた後、この病は完成する。君は永久に死なない体になって目覚める……」


 そして身体はリーンズィの不死病に準拠した状態に置き換えられる。

 少なくとも<時の欠片に触れた者>には少女とリーンズィは同じ恒常性を持つ存在として認識されるようになるだろう。


「不死になって、何か変わるのですか?」


「言い忘れていたが……私たち不死病患者には本来、自我と呼べるものは存在しない。不死病患者は完璧な肉体を持ち、飢えも渇きも覚えることはなく、少しの傷なら一瞬で再生するようになる。生きているだけで楽園にいるのと同じなのだから、外的要因がないのなら、能動的に活動する理由がどこにもない。三大欲求が喪失して、ただ、幸せに生きているだけになる」


「しかし、天使様は……」


「私はこの首輪と、頭の花飾りに偽りの魂を封じ込めている。それで喋ったり、こうして君の体を温めることが出来る」


「それがないわたくしはつまり、霊的に死ぬのですね」


「うん、ある意味では。満ち足りた終焉だ。何の不足も無い肉体に変わるのだから。でも、意識を保つための処置も出来る。私の世界へと至ることが出来たなら、智者たちが何とかしてくれるはず。でも、正直なところ、賭けになる……申し訳ないとは思う」


「いいえ、それで善いのです」少女は寂しげに微笑んだ。「この苦悩から解放されたいだけなのですから……でも、あなたさまにまた出会えるなら、寂しいことはないのかもしれません」


 背後に燃え上がる七つの眼球の気配を感じた。

 時間が来たのだ。予定されていた時刻が。

 ゼロ・アワーが。

 慌てて突撃聖詠の前を開き、裸の胸で少女を包み込もうとした。カタストロフ・シフトで転移した先から物を持ち帰れるかは分からない。

 全ては<時の欠片に触れた者>の裁量か、何か未知の法則による。

 人間を丸々一人連れ帰れる保障はない。だから、自分と可能な限り密着させようとしたのだ。


 服を開いて裸体を晒したとき、胸元から二本足で立った猫のぬいぐるみが落ちた。


「あ、猫の人が落ちてしまった……そうだ、君にこれを上げよう。猫の人なら、きっと君の味方をする。お守りだと思ってほしい」


 リーンズィはぬいぐるみを少女の手に握り込ませた。


「ずっと気になってはいたのですけど、このぬいぐるみはなんなのですか?」


「小さい猫の人だ」


「小さい猫の人」少女は復唱した。「大きい猫の人もいるのですか?」


 小さな猫たちと夜の街を逍遙する、偉大なる小さな調停者を思い浮かべる。


「いる。そう……神も裁き主もいない。だが猫はいる。そんなことを言う人もいるんだ。どうしても救いを信じられないなら……猫を探すといい」

 リーンズィはふと微笑んでいた。

「猫は温かくて、息をしていて、いつも私たちを見守っている。猫がいる場所には、きっと、まだ眠っていない人々がいるだろう。歌を歌うものがいるだろう。騎士たちがいるだろう……」


「天使様も、そこにおられるのですか?」


「私もそこにいる。天使ではないが……」ライトブラウンの髪をした微笑んだ。「君を待っている」


 裸の胸で少女を抱きしめ、時の嵐に備えた。

 背後に強い熱を感じる。

 燃え上がる七つの目を持つ超越存在が立っているのをリーンズィは知覚した。

 いよいよ転移が、元の世界への退去が実行されるのだろう。


「やはりあなたたさまは、御遣いです」

 胸元に顔を埋めた少女は、燃え上がる怪物を上目でじっと見つめていた。

「わたくしは、核戦争が起こる少し前に、あの七つの目を持つ熾天使様が、あらゆる都市、あらゆる家々、あらゆる人の周りに、何千、何万と浮かんでいるのを見ました」


「彼らは強大だが、それほど立派な存在ではない。だけど信用は多少出来る。君を大事にしてくれると良いなぁと思う。あの存在は、こういうときは返事はしてくれないけど……」


「そうですか。ふふ、熾天使様を相手に、そんなことを仰るなんて」

 少女はおかしそうに笑った。

 初めて心が溶けたような声だった。

「天使様。いいえ、わたくしの騎士様……最後に、お名前をお尋ねしても?」


「私はリーンズィ。アルファⅡモナルキア、エージェント・リーンズィだ」


 頭部のヴァローナの人工脳髄にデータをバックアップし、己の首輪型人工脳髄を初期化した。

 そして有無を言わさず少女の首に取り付けた。

 こんなことをすれば、リーンズィの人格は消えてしまう。

 だがそれで良かった。


 ずっと考えていたのだ。

 仮にリーンズィとともに転送されなかった場合、彼女は不死病の自己喪失に怯えながら嘆き続けることになる。この廃滅の世界で。

 それだけは避けなければならなかった。

 少女を真に救うには、これしかないと信じた。


「リーンズィ様、これは?」


 偽りの魂を失い、演算能力が消失し、脳髄からリーンズィという人格が揮発していく。

 帰還のために座標を定めようとしても上手く行かない。

 ヴァローナの瞳は方々へと移ろう。

 ミラーズ、レア、マスター、ロングキャットグッドナイト……。

 狂える鴉の騎士は未来を探す。

 この少女が救われた未来を。

 解体されていく意識の中で、リーンズィは意識の破片をたぐり寄せ、言葉を紡ぐ。


「私の魂を……君に……あげよう。不死の肉体になって、辿り着いた世界にそこに私がいなくとも、その首輪があれば……君の人格情報を首輪が……君は君でいられる……その首輪が、君を演算してくれる……」


「リーンズィ様、リーンズィ様……ああ、確かに胸に刻みました。このご恩は、必ず、神を愛するのと同じように、最大の親愛で、あなたにお返しします。だからどうか、リーンズィ様も、安らかに。ハレルヤハ」


「……うん。ハレルヤハ」


 吐き出せたのは、祝福の言葉が一つだけ。

 他には答える余裕は無かった。

 思考演算が停止したヴァローナの肉体は、まさしく神話の時代に創られた天使の似姿のように、静かに微笑むばかりだった。

 世界転移が始まった。

 猛烈な眩暈と自己解体の悪寒に震えながら、リーンズィは少女が胸元で神への祈りを囁いているのを聞いた。

 ああ、もしも神がいるのなら。

 ひとかけら遺された自我が思考を紡ぐ。

 それはリーンズィが愛する多くの人の祈り。


「この娘の命が、辿り着きますように……新しい空、美しい青、死の灰の晴れた無限の星の下で、愛を歌えますように……罪を忘れ、幸せに生きられますように……」


 それは果たして、何者の願いなのか。

 輪郭を失いつつあり意識が紡ぐ言葉は、やがて歌となり、リーンズィの唇から辿々しいメロディが漏れ出した。

 それはかつて、ヴァローナが愛唱したとされる交響曲の、継ぎはぎにされた一節。


「ざいと……うむしゅるげん……みりーおーねん……ふろいで……しぇーねる……げってるふん……けん……」


 五色の虹の光の渦が、リーンズィを飲み込む。

 最後に像を結んだ記憶は、天使のように微笑むミラーズの愛らしい立ち姿。

 駆け寄ろうとして、既に自分が何者なのか分からないことに気付いた。


 リーンズィは、そのようにしてその廃棄世界から追放された。

 いつわりの魂ごと、時間の彼方へと消し飛んだ。



「う?」


 リーンズィは廃店舗の一室で再起動した。

 店舗の二階、壊れた廊下の先だ。

 期待したようなものは何も無い。

 ベッドには二人の不死病患者が横たわっており、近くにある椅子には拳銃を持った不死病の男が腰掛けている。

 何と言うことは無い、一家心中の末路だった。

 ベッドに寝かしつけた二人を射殺した後、この男も後を追ったのだ。撃ち殺された小さな患者は、ぬいぐるみを抱えていた。

 どこにでもある終わってしまった、終わることすらしくじった家族の絵図だった。


 リーンズィはカタストロフ・シフトで転移した世界の記憶を再生しようとして、自分がまだ首輪型人工脳髄を装備している事実に気付いた。

 あの少女に渡したはずなのに。

 タイミングが無かったので捥いだ左腕ごと置いてきた手甲も何故か装着している。

 リーンズィは違和感の答えを周囲に探した。

 背後から声がした。


「それ、あんまり使わない方が良いね。まさか人工脳髄を無くして帰ってくるとは予想しなかった」


 すぐそばで、いつもの平坦な微笑に多少の呆れを滲ませたコルトが溜息を吐いていた。

 その胸には、あの滅亡した世界の少女に渡したはずの猫のぬいぐるみが抱えられている。


「……どうなっているんだ。いるの。何が起きた」


「混乱するのも無理もないよ。帰ってきた君が自己凍結状態に陥ってたから、私が復旧してあげたんだ。君が私に事前に予備の首輪型人工脳髄を私に渡していなかったらどうなっていただろうね。とは言っても、私もこの超レアな歩き猫ぬいぐるみをもらえたわけだから、お互い良い取引だったね?」


「予備の首輪型人工脳髄……?」

 リーンズィは己の首を頻りに確認した。

 失ったはずの魂の演算装置がそこに存在している。

「渡した覚えなんて……それにそのぬいぐるみは、転移先の世界に置いてきたはず」


「そんなわけないよ? だって、これは君が転移する直前に私に託したんだから。君の認識では違うの?」


「そんなやりとりはなかった……えっと、転移した先の世界に、生存者がいたんだ。私は彼女を救うために、首輪型人工脳髄を……そうだ、彼女は? ここにはいないのか? いないの? いないの、コルト少尉?」


「落ち着きなよ。ここにいるのは私たち二機と、三人の不死病患者だけ。そこで心中してる誰かと、顔を合わせたわけじゃないのかな?」


「違う。銀色の髪をした、未活性の不死病患者で……私は彼女に首輪を……」


「細かい部分は良いよ。つまり、転移前と転移後で世界に食い違いがあるんだね」


「うん。つじつまがあっていない……」


 コルトは曖昧に笑う。


「私からは何も変わっていないと見えるよ? もっとも、この世界は何か異常が起きてもすぐに辻褄を合わせて、無かったことにしてしまうから、そういうこともあるんじゃないかな」


「……何だか途方もない理屈を言っているように聞こえる」


「シンプルな話さ。<時の欠片に触れた者>が何もかもをめちゃくちゃにしてる世界だよ? 時間的連続性の可塑性に関しては折り紙付き。あの燃える七つ目が私の状態にだけ干渉して、記憶を書き換えている可能性もあるけど、傍証がないから証明のしようがないし。カタストロフ・シフト自体、別世界への一時的な転移と干渉なんだよね? 通時的な安定とか、まず用意すべき帰無仮説とか、そういうのを蔑ろにする部分があるんだから。そいうものだって受け入れた方が良い」


「そういうものなのか? ……そういうもの?」


「何が捨象され、何が新造されたのか、どんどん改変されていく単一の世界に生きる私たちに推し量る術はないのさ。現実は石碑に彫られた永遠の文字だけど、石碑をすり替えれば世界は書き換わる。そうだよね? とにかく、君のその機能は、危険な世界に飛ばされるだけじゃ済まないってことが分かったね。勧めてしまった私に責があるけれど、やっぱり、本当にピンチの時以外は使わない方が良い」


「どうやらそのようなのだった。しかし……あの女の子はどうなったのだろう。どうも、<時の欠片に触れた者>は彼女をどうにかしたいようだった。きっと私を意図的にあの世界に導いた……」


「助かっていて欲しい?」


「うん」リーンズィは不安そうに頷いた。「上手く導けたのだろうか……みんなのように、上手くはやれなかった。ミラーズや、レアせんぱい、ロングキャットグッドナイトなら、もっとちゃんと彼女を救えたに違いない……」


「そのために人工脳髄まで差し出したんだ?」


「他にももっと何かしてあげられれば良かったのに……」


「なるほど。君も立派な『導き手』だった、と言うわけだね」


「……? 意味を理解しない」


 コルト少尉はリーンズィのライトブラウンの髪を撫でた。


「我が身を顧みず、誰かを正しい道へ導こうとしたんだ。まるでリリウムの使徒みたいに。少し、君の評価を修正しないといけないかな。胡散臭いと思っていたけど、リリウム好みの人材だよ。リーンズィは偉いね」


「そう……? そうなの?」


「私には何があったか全貌が見えないけど、でも、君はよくやったんだと思うよ。きっとあの七つ目もその子を悪いようにはしないだろう、わざわざ君を遣わせたんだから。さぁ、ここにはもう何も無い」外で喇叭の音色が響いた。「集合の時間だろうし、凱旋しよう。ぬいぐるみたちを連れて」


「帰る、か。そうだな。世の中は難しい。レアせんぱいにいろいろ相談したくなった……」


「お疲れ様、というやつだね」


「うん。誰かを救うのはとても難しいのだな。いっぱい相談がしたい。でも、レアせんぱいとは今日は遭えないだろう。また明日か……会えるかな……」


「……うーん。実はね」

 コルトは何でも無いことのように囁いてきた。

「夜、あの子は実はお決まりの場所に毛布を被って現れるんだけど。人目を避けてさ。いじましくて可愛いよね」


「えっ……あっ」

 リーンズィは耳を塞ぐジェスチャーをした。

「また何か悪いことを教えようとしている……」


「二人を思ってのことさ。君の住んでる『勇士の館』の裏手だよ。ひょっとすると今夜も会えるかも。私は君への評価をとても改めた。もしかすると、あの白髪赤目の暴れん坊も、導き手の素養がある君の指先には、素直に応じるかも知れない」


 同格の存在だしね、と肩を竦める。


「レアせんぱいと……夜を……一緒に?」


「あれで意外と奥手だからね、思ったほど過激なことにはならないと思うよ」


 ライトブラウンの髪をした少女は、髪を弄びながら考え込んだ。

 SCAR運用システムからふて寝ウサギを一つ取り、貌をほんのりと染めながら、持ち上げたり下ろしたりした。


「えっと……検討、する……」



 かくして、幼き導き手は、名も知れぬ少女の手を引いた。

 朽ちた時代の、幽霊の家で。

 かつて救ったその少女の名前を、リーンズィはまだ知らない。

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