白髪赤眼のレア②

 ロングキャットグッドナイトは、ふにゃふにゃの猫を片手で抱えて、そっと頭を撫でてきた。

 リーンズィは無言で、翡翠色の瞳からぽろぽろと涙を零していた。

 白髪の少女の言葉が精神に爪を立てていた。強くなければ無用である、ガラクタも同然である。リーンズィには反論を出力することが出来ない。

 現在の彼女はまさしく無力で、自分の力だと考えていたものは残らずアルファⅡモナルキアに簒奪されてしまった。

 否、それも正しい認識では無い。

 最初から、自分だけに許された大切な何かではなかった。自分は何にも値しない、自分を調停防疫局のエージェント、アルファⅡモナルキアだと信じ込んでいただけの滑稽な何かなのだ。何の有用性も持たない憐れな機体。歩いて喋るだけのジャンク品。

 白髪の少女の言動は、悉くがリーンズィの崩れかけた部分を切り裂いていた。


 不死病患者は血を流せない。肉体は不滅であり、演算された魂が壊れた肉体を瞬時に再生する。

 だから本当に傷ついたとき、血潮の代わりにただ涙を零す。

 猫のレーゲントは、優しげな声音になった。


「アルファⅡモナルキア軍団のリーンズィさん、だいじょうぶですか。ロングキャットグッドナイトです。もうだいじょうぶですよ。猫もいます」


「大丈夫……」ライトブラウンの髪の少女は撫でられるがまま、強がって言葉を紡いだ。「私は、何時だって大丈夫だ」


「だいじょうぶではないから泣くのです。猫もそうです。辛くないときは泣いたりしません。何があったのですか? あの二人に何か酷いことをされたのですか」


「いや、俺たちは……」

「私はただ……」


「彼女たちは関係ない」とリーンズィは躊躇なく言った。


 マスターと白髪の少女は、リーンズィを見つめた。


「彼女たちは何もしていない。そこの白髪の機体も、きっと私のことを思って色々な言葉をかけてくれた。でも、でも私は、私が無用な存在になってしまったことに……耐えられない。この存在の無意味さ、仲間と信じた者さえ信じられない狭量さに、耐えられない……」


「ご自分を許せないのですね」


「認められない……」


「でも、わたしキャットだけは許します。あなたを認めます。猫もいます。猫は誰かのことをいらないとか、弱いとか、そんな冷たいことは言いません。ポカポカでお日様みたいな猫なので」


 ロングキャットグッドナイトはリーンズィの髪を掻き上げて、それから抱えていた猫をリーンズィの胸元に押し込んで抱えさせ、温かな毛玉の感触を味合わせた。


「どうですか。ポカポカでしょう」


「……温かい」


「この温度を忘れないで下さい。いつでもあなたをいやしてくれる猫がいるのです。猫はいつも傍にいます。路地裏の窓とか、向かいのホームとか、色んな場所から私たちを見守ってくれています。どうか忘れないで下さい。わたしたちは、あなたをずっとずっと愛しています。どうかどうか、泣きやんでください。誰かが悲しい思いをするのは、猫が死ぬのと同じぐらい悲しい。不死の恩寵の最後は、猫と一緒で、穏やかで温かい場所で迎えるべきなのですから、悲しいまま終わるのはいやです」


「……善処する」リーンズィは胸元の猫の体温にミラーズを思い出していた。「悲しいままでは終わりたくない」


「はい。いっぱいしてください。ハレルヤハ、顔色が良くなりましたね。今日の猫はここまでです」

 

 ゆるりとした手つきで猫を引き剥がし、再び抱き上げ、レーゲントはマスターと白髪の少女に向き直った。


「皆さんも忘れないで下さい。猫はいます。どこにでも猫はいます。何故なら猫は神が遣わした見張り番そのものだからです。猫はいます。昼間の路地裏に、夜の天井裏に、高いビルの淵にいて、下界を見下ろしています。あなたがたを監視しています。どうか、猫を忘れないで下さい。彼らはウォッチャーです。神はいつも猫たちを通じてわたしたちを見て下さっているのです……ハレルヤハ」


 異様な言説だった。

 今回は白髪の少女が半歩引いて曖昧な顔をする番だった。


「赤い目の人も。猫はいます。よろしくお願いします」


「そ、そうね……猫はいるわね。可愛いわね」


「この愛らしさが猫で、天使です。天使は猫です」


「ロンキャ、俺知らなかったんだが聖歌隊ってそういう教義なのか……?」


「半分ぐらいそうです。半分は違います。スヴィトスラーフ聖歌隊監視猫福音派です。一人派閥です」


 それでは、と猫のレーゲントは甘やかな声で歌い、待機させていた猫たちを連れて歩き出した。


「とにかくケンカは駄目ですので」


「肝に銘じておくよ」


「ハレルヤハ、信仰に光がありますように。猫たちの朝ご飯の時間なので失礼します」


「ちょっと待ってくれ。疑問なんだが、いやあんまり関係ないが……」


 マスターが呼び止めると、猫のレーゲントは「はい。迷える子猫たちに疑問に答えるのがロングキャットグッドナイトです」と返事をした。


「その猫たち……普段何を食べて生きているんだ? 俺もパンのひとかけらに毎日悩んでる。猫用の食品なんてこのクヌーズオーエで安定供給出来るわけないし……」


 レーゲントは首を傾げた。


「聖父様曰く、預言者イエスは言われました、『取って食べなさい。これは私の肉です』。与える相手は誰でも良いのです。猫にもそうします」


「食べさせるものが何も無いだろ?」


「わたしの血肉があるではないですか」


 レーゲントは心底不思議そうに言った。


「不死の恩寵がわたしにはあります。それで十分です。腕の一本二本切り落として猫たちに与えるのは、そんなに難しくないです。人肉食は禁忌ですが猫に与えてはならないルールはありません。苦痛は献身の喜びであり、満足して眠る猫たちを抱いて過ごす朝は至福です。神の愛があり、猫がいます」


「……その、あんたは。何か食べていかないか?」


「いいえ結構です。ロングキャットグッドナイトはお日様を待つしもべなので」


 そうして猫のレーゲントは去っていった。


「……ええと、ええとね。謝罪するわ、アルファⅡモナルキア。あなたがそこまでダメージを受けていたとは予想してなかった。精神的なタフネスはあると思い込んでた」


 白髪の少女はリーンズィの対面に座り、パンの切れ端をもぐもぐと咀嚼しながらコーヒーを啜った。

 彼女の奢りでコーヒーのおかわりをもらったライトブラウンの髪の少女は、マグカップから立ち上る湯気が梯子のように紺碧の空へ昇っていくのを泣きはらした目で追った。


「……大丈夫だ。あのレーゲントのおかげで、大分持ち直した。それに君の言うことは大部分において正しい。私は戦闘用スチーム・ヘッドではないが……有用性を証明できないなら、不要な存在だ。どこにも行けない。何一つ得ることが出来ない……」


 ずず、とコーヒーを啜る。

 白髪の少女はリーンズィの弱気な姿勢に苛々としている様子だったが、冷たい言葉を重ねることはしなかった。傷ついたスチーム・ヘッドになんと言葉を掛ければ良いのか分からないらしかった。


「……マスターと君は友人なのか?」


「え? うん。腐れ縁よ。仕事の付き合い」


「俺らはコルト少尉と同じで、クヌーズオーエ解放軍以前からの仲間だ。多少、世界にズレはあるけどな」鍋をガスコンロの火で温めながらマスター。「喧嘩はよくするがマジでやってるわけじゃない」


「羨ましいな。本当に信頼できる仲間……では解放軍の幹部……?」


「俺は違う。幹部はそっちの白髪女だよ」


「白髪女とはまた言ってくれるわね。気にしてるのに」少女は赤い目を伏せて溜息を吐いた。「はいはい、わたしが悪かった悪かった。あなたの言うとおり、先の失態は独力での補足と撃破に固執したわたしの責任。専門家の目が必要だった」


「分かれば良いんだよ。次は上手くやろう」


「ヘカトンケイルも言ってたけど、近いうちにペーダソスにも声がかかると思うから、準備をしておいて。これ以上首斬り兎を放置出来ない」


「俺はいつでも備えてるよ」


「そう。で? キャロットと鶏肉のスープはまだ?」


「だぁーもう。一煮立ちさせるのに時間がかかるんだよ」コトコトと鍋が鳴る。


「スープ?」リーンズィはすんすんと鼻を鳴らした。「良い匂いだ」


「ペーダソス……マスター、マスターね。彼が一番得意で一番自慢なのは、実はスープの方なのよ。任務が終わって、勇士の館でヘカントンケイルに、その……『メンテナンス』して貰って、夜明け時に彼のスープを飲んで帰る。これがわたしの黄金パターンね。ま、お客も稀だしスープを頼むような酔狂者も滅多にいないから、固定客はわたしぐらいかな。本当に情けない店なの」


「悪口やめろ。後輩の教育に悪いだろ。ほらスープだ、お待ち」


 器に注いだスープが二つ、テーブルに置かれた。


「一人で二杯も飲むのか」


「そっちはリーンズィの分よ。お金はわたしが持つわ。先輩面したいから付き合って」


「ありがとう。では……」ライトブラウンの髪の少女はおそるおそるスープを啜った。「味がする」


「美味しいでしょ? 大のお気に入りなの」


「? よく分からない。食べ物を食べた経験が少ないので、味がするとしか」


「あはは!」白髪の少女は頬を綻ばせた。「残念ね残念ね、マスター?」


「普通なら一杯飲むのに一週間分の給金が必要なスペシャルメニューなんだが……まぁそいつ何か全然分かってないみたいだし、構わん。いずれ美味いって言ってくれるさ」


「うん。すまない。いつか価値が分かるようになったら、二人にはちゃんとお礼をする」

 リーンズィは悲しげに嗤った。

「アルファⅡモナルキアに復帰できればだが……ところで、君はどうして私にここまでよくしてくれる?」


「え?」コーヒーを一口。「どういうこと? あなたのことが心配なのは本気よ。そこまで調子落ちてると思わなくて、キツい言い方になってしまったけど。何故心配なのかっていうのも考えていたんだけど、やっぱりわたしと貴女は、本質的には先輩と後輩だと思うのよね」


「でも私は君を知らない」


「え……ええっ」

 白髪の美少女は目を丸くした。

「えっ……ちょっと待って……もしかして……わたしのことぜんぜん、何にも分からない……とか? 今日ずっと、最初から、そういう感じだったの?!」


「初対面ではないのか? 君みたいに美しいスチーム・ヘッドを忘れるはずが無い」スープの器を両手で持ちながらリーンズィは眉根を寄せた。「うむむ……どこかであっただろうか……」


「え、ありゃ? リーンズィはこいつとよろしくやってたわけじゃないのか?」


 マスターの問いに、ライトブラウンの少女は眉根を寄せたまま首を傾げた。


「よろしくやる? 何を……?」


「じゃああんた」とマスターはからかうような笑みを白銀の少女に向けた。「おいおい、あれだけ息巻いてたのに、いつも通りヘカトンケイルに全身を任せて、昨夜も独り善がりをしてたってことか……待て待て照準波を当てるな分かった分かった」


「人のプライバシーを変な流れで暴露しないで。欲求不満みたいな勘違いされたら嫌よ」


 事実だろうが、と吐き捨てたマスターがさっとキッチンカーに身を隠した。

 リーンズィはぼんやりとしながら白髪の少女との顔の距離を詰める。


「君は……誰なんだ? 私も、私に良くしてくれた人の名前は覚えておきたい」


「知ってるはずだぜ、リーンズィ」マスターがカウンター裏から声を上げた。「そいつは悪名高い……やめろやめろ照準波やめろ! 黙ってるって!」


 白髪の少女は悩ましげに考え始めた。


「リーンズィ、ちょっと待ってね。今決めるから」


「名前というのは今から決めるものなのか?」


「……ここは本名伏せてポイント稼がないと……勘が鈍くたってそう簡単に騙せるかしら……でもでも、今のうちに何とかして取り戻していかないと……ううう、焦って何かやると上手くいかないのよね、何か良い感じのやつあるかな……レッドアイ、うーんさすがに分かりそう……あっ」


 何やらブツブツと考え込んでいたが、意を決したらしく、深呼吸を数回。

 絶世の美貌を持つ白髪の少女は、利発そうな笑みを浮かべながら、席からほんの少し腰を上げて、リーンズィの両手を包み込むようにして、柔らかく握った。


「わたしは、レア」ぎこちない笑みを浮かべる。「レアと呼んで。多目的雑貨店ホワイトラビット・クロックワークスの店主を務めている、レアよ。よろしくね、アルファⅡモナルキアのエージェント、リーンズィ。気安くレア先輩とかレアお姉様とか呼んでくれても良いわよ」


 分かった、と頷いたリーンズィに、レアと名乗る少女は高揚に頬を上気させた。


「そ、そう? そう! やったー!」


 一瞬だけ度を超して浮かれ、すぐに元に戻る。


「先輩らしく振る舞ってあげるわ。実は私、あなたみたいなスチーム・ヘッドには結構詳しいの。待望の後輩のためだもの、少しぐらい知恵を貸してあげるわよ?」

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