黒髪のストレイシープ②
頼りになるのは硝子の無い窓から射し込む僅かな陽光だけだった。
屋内を歩む。不明な影の正体を探る。ブーツが打ちっぱなしコンクリートのひび割れた床面を叩くたび埃の山が崩れ煙のように立ち上る。それらが空気の中で揺れて逆さまの細雪のように舞う。
一階部分には何も無かった。
全く文字通りに、物が存在しない。ほとんど空洞だった。
都市が遺棄されるよりも以前から廃屋だったようだ。
あるいは日常生活で使われていた瞬間など一秒も無いのかもしれない。
それがために床の状態がはっきりと視認出来た。リーンズィの踏んでいない床で、既に堆積した埃が崩れている。埃に刻まれた文様のようなパターンから判断するに、靴を履いた誰かが通過した痕跡だ。
このクヌーズオーエは、SCARによる都市焼却に反応した<時の欠片に触れた者>が再配置したばかりの土地である。
殊にこの地区に関しては、リーンズィたちに先んじて探索を行った者がいるはずもない。
言わずもがな、足跡の主は<首斬り兎>に限られる。
ライトブラウンの髪の少女はふと違和感を覚え、目を細め、足跡の上に自分のブーツを載せてみた。
足跡が丸きり見えなくなった。
「シィーは私よりも大柄で、男性だったはず……おかしい」
靴もあちらのほうが大きいのが道理である。
無論、エージェント・アルファⅡにしたところで、破壊されていたシィーの足の裏までは確認していない。予想より足が小さかったとも考えられるが、それでもあの体躯で、ヴァローナよりも小足などということがあるだろうか。
あるいは、とリーンズィは思い直す。
狂気の<首斬り兎>と化したシィーは、本来の規格、即ち『大柄な成人男性』から外れた肉体を使用しているのではないか。
考えてみれば、同じ調停防疫局のエージェントであり、実際にキジールの肉体を操縦できたのだから、身体の乗り換えには、大した制限が無いのだろう。
高機動戦を仕掛けるならば、フルスペックを放棄してでも小柄な肉体を選択している可能性はある。
想定される目標の体躯を下方修正しながら、リーンズィは慎重に足跡を辿る。
危ないところであった。大柄な相手ならば、閉所での戦闘では自分が有利であると無意識に考えていたことに気付き、リーンズィは心臓が凍った脈拍を打つのを感じた。
シィーの同位体が状況に適した肉体を装備しているなら、そうした状況の優位は丸きり覆される。
蒸気噴射を使って弾丸のように飛び込んでくる熟練兵士の成れの果てに、自分はどこまで対応出来るだろう。
階段室へ向かう。二階に辿り着く。朽ちずに残っていたドアにはあからさまに開閉した痕跡があって、完全に閉まりきっていない。
床の埃の異状も、目を凝らさずとも分かる。
ここに<首斬り兎>が潜伏しているのは確実だった。
あちらは、とリーンズィは考える。とっくにこちらの接近に気付いているだろう。私が相手の存在に気付いているのと同じく。
お互いに不死病患者としての花のような甘い体臭を嗅ぎ取っている段階に来ていた。戦闘経験の少ないリーンズィでさえも、この扉の向こう側には誰かがいると確信出来ている。漂う香りは、シィーの匂いに何となく似ている気がする。
意を決する。左手に握ったスマートバレット・パッケージを腰の後ろに隠し、右手の斧槍の柄でそっとドアを押し開いた。
踏み込む前にあちらから仕掛けてくるパターンも想定していたが、その兆候は無い。
室内を覗き込む。
対角線上、窓からは覗き込めない位置に立っている影がある。
別段、暗がりの中にいるわけではない。
影と認識してしまったのは、その人物が光を飲み込むかのような黒い髪と黒い目をしていたせいだ。
あるいは一抹のほつれも存在しない完璧な黒。
ショートカットの、清潔な黒髪に、不安感を煽るほどに突き詰めて白い肌。
女性だ、とリーンズィは認識した。
――シィーは女性の肉体を使っている。
まだ少女と言って良い年齢だろう。ある年代にのみ許される壊れ物のような儚さ。人間の息吹を感じさせない、一切を等閑視するような不可解な美貌。
それが既にこちらを知覚している。こちらを見ている。凜とした眼差しと瞳に渦巻く底なしの虚無。
深淵がこちらを覗き込んできているような怖気。同時に、心臓がその一分の狂いも無い造形に魅入られて奇妙な早鐘を打つのが聞こえてくる。
それでも脅威としては検出出来なかったのは、首元から下を黒い毛布で覆い隠しているからだ。
装備の一切が不明だった。
武装していようが、筋肉を撓めていようが、その内側が晒されるのは、おそらくこちらに飛びかかってくる瞬間だ。
『解析完了。目標の被覆装備と先ほど視覚したアクリル製毛布は合致率は非常に高いです』
チープ・ユイシスからの報告は簡素だ。
リーンズィは思考での入力に切り替えて問う。あれは誰だ? 脳髄に声ならぬ声が響く。『要請を受理。レコードの検索を開始します』。本家と違ってとにかく動作が遅い。チープ・ユイシスは戦闘には貢献しないだろう。
意外なことにシィーと思しき少女との無言の対峙が数秒続いた。
遭遇、即戦闘開始を想定していたため、リーンズィは退くも進むも出来なくなっていた。
斧槍を突き出したまま、警戒しつつ相手の出方を窺う。おそろしく無感情な視線。意識が無い不死病患者のそれとも異なる、天も地も無価値であると宣告するかのような真っ黒な視線には、敵意が微塵も含まれていなかった。
敵意の存在しない相手に一方的に斬りかかるのは調停防疫局の倫理観に反するため、仕掛けられなければ応じられない。
それ以前に、眼前の不明スチーム・ヘッドと戦う必要があると確信出来ない。
――誰も試せなかっただけで、話し合いが通じる相手なのでは?
リーンズィがそんなふうに思い始めた時だった。
「歌うのは……」と少女が口を開いた。
余人には知れない異様な夢、その中で遊歩する病人が発するような、淡い声音だった。
「テレビで歌うのは、もうやめたの?」
「歌……?」
ライトブラウンの髪の少女は、淡い光の射す中でただ困惑した。同時に、言葉が通じることに少しだけ安堵する。戦闘になるとの見立てではあったが、交渉での決着が最善であるのは言うまでもない。
「歌うのをやめたのか? 君が?」
「そっちのこと……。テレビであなたを見たことがある。あなたの歌も好きだった。どんな歌だったっけ……」
少女は何かを思い出すように頭を下げ、自分の爪先を見た。それに追従して頭に巻いている鉢巻のような布もリボンのように揺れた。
その下に人工脳髄があるのだろうか。
「あなたのバンドの名前も覚えてない。あの頃は治療で大変だったから」
「いいや、私もその時期のことはよく知らない」
「そう。あなたも大変だった。ニュースで見た」
リーンズィも何となく自分の爪先を見て、同時に確信する。
やはり話し合いによる解決が可能だ。
「あなたのことは歌番組だけじゃなくてニュースでも何度も見た。ネットでも動画を晒されてたよね。それから行方不明になったって。でも元気そう。クスリの後遺症も、もう大丈夫なんだね。こっちに戻ってこられて良かった」
ヴァローナの生前についての話題なのだな、と何となく当たりがついた。
逆に困惑は深まるばかりだ。
眼前の機体は、明らかにシィーでは無かった。
少なくともリーンズィが記憶している限りでは、シィーと喋り方が全く異なる。
同じなのはおそらく肉体の出身地ぐらいなもので、その出身地にしても、眼前の少女がアジア系だと分かるまでかなり時間がかかった。
顔立ちが無国籍的なのもそうだが、病的なまでの肌の白さが全てを曖昧にしていた。皮膚の老化や日焼けといった肉体の活動の痕跡が肌に一切見受けられない。色白と言った言葉で表現することさえ不適切だった。
不死病に冒された肉体であって尚、その肌の白の濃さはいっそ死者を連想させる。
「テレビの人だよね」と黒い髪をした少女が問う。「ゲスト? その服不朽結晶連続体。頑丈そうでかっこういい。新メンバー? 斧槍が武器なの? 今度は西洋文化重視なのかな。美人だし装備もしっかりしてる。次のシーズンのレギュラー?」
少女は無表情を維持したまま矢継ぎ早に問うてきたが、リーンズィには問われていることが全く理解できない。
「何を言っている。メンバー? レギュラー?」
「テレビで見たことあったから、こっちの業界の人なんだって分かったの。顔を知ってるタレントの人を見るのは久しぶり。顔を隠してないのもそういうことだよね。殺しちゃいけないって分かるぐらい綺麗な顔してるもん。最近はエキストラの人も美人になってきたけどそのせいであんまり殺すと評判が気になっちゃって。出来るだけ殺さないようにするのが大変で。でも武器を持ってるからエキストラじゃないんだよね。だから話がしたくて殺す前にサインを出したの。毛布に気付いて、来てくれたよね。知ってるから来てくれた。だからそうだよね」
少女は人形のような無表情のまま、不自然なほど朗らかな声で語る。
真っ直ぐな眼差しだというのに、その眼の奥にある光はどこか虚構じみている。
「関係ないとしてもぜったいにテレビの人だよね、撮影なの? 何の撮影? 隣にいた金髪の子も綺麗だよね。あの子もそうなの? 二人で何を撮影しているの? 恋愛映画? いちゃいちゃしてたし。ここは何のロケ地なの? こんな都市知らなくて。ここはどこなの? あなたはどこの局の人? テレビの人だよね?」
「何、何を……?」
「テレビの人だよね? 緊張してるの? だいじょうぶだよ。まだ前室だし。テレビの人だよね? こういうのは初めて? 元々歌手だもんね。仕方ないよ。テレビ局の人にはなんて言われたの? 敵役? 味方役? カメオ出演? テレビの人だよね? 戦闘は得意? やっぱり歌うの? 濡れ場は大丈夫? 好きにやらせてもらうけど、そういうの大丈夫なほう? 痛いのと優しいのどっちが好き? よその国のテレビ局とのクロスオーバーなのかな。すごかったよね演出が。テレビであんな炎の柱初めて見た。そっちは事前に聞かされてたの? 予算がもらえたんだなって分かったからここへ来たよ。ここに何しに来たの? サプライズ? テレビの人だよね?」
「何を、言っているんだ?」
リーンズィは本心から同じ言葉を繰り返した。
「さっきから何を? 私は君の発言を理解出来ない」
少女は言った。
「もういい分かった関係ないなら死んで」
切り捨てるように言い放たれた言葉は、弾丸じみていて。
「撮影の邪魔になるから」
リーンズィには、それが宣戦布告なのだと分かった。
――時間が鈍化した。
対抗オーバードライブが発動したのだ。
しかし認知能力が状況に追いついていない。反射的にスマートバレット・パッケージを叩いて、後方へ投擲、空いた左手で柄の中程を掴み、右手を穂先に滑らせて、斧槍の
革靴の爪先が斧槍の
黒い艶のある革靴型戦闘用ブーツ。
まるで学生が履くような小洒落た意匠だ。
防御しなければ槍のような蹴りが胴体に突き刺さっていただろうが斧槍で防御したせいで両腕の自由を奪われてしまった。
ほんの一瞬、一刹那の隙だが、致命的だった。
首を狩られる! 咄嗟に斧槍から手を離し、喉元をガントレットで守ろうとしたが間に合わない。
衝撃が首に奔った。しかしこれは決定打にならないという予測が先行した。
脛骨は軋んでいるが、それだけだ。
リーンズィの首輪型人工脳髄が、必殺の一撃を受け止めていた。
視界に映っているものを未だに処理し切れていないが、叩き付けられたのは不朽結晶連続体の短刀だ。
しかし首輪型人工脳髄を破壊するに至っていない。
アルファⅡモナルキアの主要装備と同等硬度の不朽結晶で構築されているこの装置は、あのウンドワート卿にすら破壊出来ない。
首を切り飛ばされたところで不死病患者は死にはしないが、それでも一命を取り留めたという感覚はあった。
口づけでもするような位置にある黒髪の人形の美貌に、ほんの僅かな驚きが浮かんでいる。
リーンズィは少女の唇が何かを唱えるのを見た。
『
音など追い付かないはずの速度の世界で、そんな声が聞こえた。
『
意味は分からない。
だが何か来る。シィーならどう動く。
ここからどう動く!?
得物が通じないなら、それを囮に次の手を瞬時に打つ!
間一髪で即死を免れたことへの本能的な歓喜をねじ伏せて肉体を操作し、空を切るような動きをしている少女の腕を掴んで止めた。
首筋に奇妙な感触。
首輪型人工脳髄に覆われていない部位に熱感。
――目には見えない何らかの刃を押し当てられている!
仮に抵抗しなければ、今度こそ首を刎ね飛ばされていただろう。
この加速された一瞬、幸運によって獲得した10ミリ秒にも満たない時間で、リーンズィはどうにか状況を整理する。
リーンズィの翡翠色の目には、毛布を捨てた少女の姿が映っている。
信じられないことに、接近してくる瞬間を捉えられなかった。オーバードライブの加速倍率はおそらく二十倍以上。
対角線上におり、4mは距離があったはずなのに、もう眼前にいる。
スチーム・ヘッド同士の戦闘では先手を打った方が常に有利だ。状況判断の時間さえ圧迫されては不利は拡大するばかり。リーンズィは必死に思考を追いつかせようとした。少女の背後で渦を巻くようにして埃が舞い上がっているのは圧縮蒸気の噴射によって加速したからだろう。
いったい何をされた? おそらくは加速度に任せて、行動を封じる目的でまずは蹴りを一発。
直撃しようが防御されようがきっと構わなかった。こちらの動きを制限したところで、手に握った短刀で首を刎ねに来たのだ。
そして今、その手には何も握られていない。
首輪型人工脳髄に刃を阻まれた後、ライトブラウンの髪を寸断したのは刃では無い。
不朽結晶連続体どころか、金属でさえない。
少女の手元が揺らいでいる。圧縮蒸気の奔流だ。少女の装着しているフレームを剥き出しにした高機動仕様の蒸気甲冑、その手首部分に設けられた放出口より無影の刃が形成されているのである。
通常の蒸気甲冑であれば関節となる部分を正確になぞっていた。
いずれにせよ、リーンズィが最高硬度を持つ首輪型人工脳髄を装着していなければ既に勝敗は決していただろう。
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