黒髪のストレイシープ①

 リーンズィは息を潜め、耳を澄ませる。

 壊れた時計の歯車の如き蒸気甲冑の駆動音、狂騒の暴風めいた排気音が渦を巻き、それも都市の狭間を貫く女の悲鳴のような暴風の吐息に掻き消されてしまう。

 己の息遣いと心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。

 ミラーズが時折足を止めて頭や背中を撫でてくれれなければ、緊張が爆発していたかも知れない。


 リーンズィはミラーズを抱きしめ、天使の和毛、ゆるくウェーブのかかるその芳しい髪束に顔を埋めて香りを吸った。潜水士が新しい空気を求めるように。

 甘やかな香りが肺腑を満たす。

 こうした慰めが無ければ、リーンズィは早々に疲れ果ててしまっていたことだろう。



<首斬り兎>は蒸気機関を停止して、バッテリー駆動の状態で家屋に潜んでいると予想された。

 解放軍側の戦力を正確に把握しているわけでもないだろうが、この状況が罠であると分からないほど狂っているとも思えない。

 次の瞬間には致命の暴風が吹き荒れているかも知れない。イメージするのは、ヒトの形をした、限界まで引き絞られた弓矢だ。ひとたび放たれれば、全てを一瞬で貫いて終わる。一瞬の間に到来する致命の一撃には誰にもあらがえない。


 だがその一瞬を認識し、対抗的出来る機体がいる。

 リーンズィたち、調停防疫局のエージェントだ。

 アルファⅡモナルキアとその端末たちには、あらゆる敵性スチーム・ヘッド、あらゆる悪性変異体の急襲に対し、身の安全を確保し、適切な距離と位置にまで離脱するための即時オーバードライブ機能が存在する。

 世界生命終局管制装置ドームズデイクロックの安定した起動を目的として備えられたもので、戦闘に用いるものではない。

 戦闘用というカテゴリに属さないアルファⅡモナルキアに適した任務では無い。究極的にはその支援機にすぎないエージェント・リーンズィたちでも、それは同じだ。

 だが、こなせない任務ではなかった。致命的な一撃を防いで時間を稼ぐ、というのは、ある意味では彼女たちアルファⅡモナルキア端末群の本領であると言っても良い。目的外の動作であるにせよ、即時オーバードライブは十分な戦果をもたらすだろう。

 

 誰よりも速く交戦状態に突入し、持ち堪えて、ケルゲレンや、他のスチーム・ヘッド部隊が本領を発揮するまでの時間を作る。

 それが今回の討伐作戦において、調停防疫局のエージェントに託された役割だ。

 


 絶えず視線を家屋の窓に注いでいたリーンズィは、ある廃雑居ビルの二階の窓に、何か布きれのようなものが動くのを見た。

 カーテンではないかと訝しんだが、硝子は脱落し、窓枠も朽ちつつある。

 その状況でカーテンなど残されているものか、と己自身に反駁をする。

 立ち止まって観察を続けた。

 強い風が室内に吹き込んでも、先ほど見たような動きは感知されない。

 窓際には、何も存在していないのだ。


 猛烈な違和感とともに、背骨に、亡者の冷え切った指になぞられた時の怖気が走る。


「リーンズィ、どうした?」

 ケルゲレンが異状に気付いて鰭のような腕部装甲を上げて停止のハンドサインを出した。

「何か発見したか?」


「いま、そこに……」とリーンズィが指差す。誰しもが同じ方角を見た。「そこの窓に、何か見えたのだな。見えたの。ミラーズは?」


「うーん。背丈の差でしょうか、気付きませんでした」


「我が輩も気付かんかった」とケルゲレン。「グリーンもであろう?」


「ですね。僕らだいたい同じ視界の広さですし」


「俺はその窓を見ていたが」と先頭のイーゴも首を振る。「俺が通り過ぎた時は何も無かった」


「そうか。えっと……そっちの大きい人、パペットは……」


 リーンズィがスチーム・パペットを振り仰ぐが、特に反応しない。

 リーンズィのことを見もしなかった。


「えっ、どうして無視をする……」


 ショックを受けて一歩後退りしたリーンズィに、ケルゲレンが肩を竦める。


「無視しているわけじゃなかろ。そいつには複雑な会話をする能力がもう無いのでな。しかし未知の機関駆動音や高熱源反応を探知すれば即座にアラートを出すはずじゃ」


「では私の見間違いなのだな……」


「いいや、かといって敵がいないとは断定できん。相手がバッテリー駆動で隠密行動しているというのなら、反応する道理が逆にない」


 アルファⅡモナルキア・ヴォイドに搭載されているユイシス本体に支援を要請すれば詳細な情報分析が可能だろう。しかし敵支援機のジャミングにより、通常回線はジャミングされてしまっている。

 リーンズィが首輪型人工脳髄を過熱させながらチープ・ユイシスに頑張って貰ったところ、確かに布らしきものが視界内に存在していた可能性が高いとの結論に至った。


『推定:アクリル製の黒い毛布/人感ありと判断』


「支援AIのコピーによる検証が終わった。やはり誰かが毛布か何かを被って、窓から我々を覗いていたようだ」


「ふむ……断じて無視できん。現地を確認するべきだな。ここは即時オーバードライブが可能で、不審物を己の目で見たリーンズィが適任であろう。リーンズィは、その家屋を探索せよ。ミラーズは我々の護衛。有事の際には、蒸気噴射で窓から飛び込んで、リーンズィの支援じゃな」


「それなら最初から私とリーンズィ、二人一組の方が安全じゃないかしら。リーンズィ一人では心配です」


「気持ちは分かるぞい。弟子か家族か恋人か知らんが、そこまで親密なら心配じゃろう」

 黒い全身甲冑がしきりに頷く。

「しかしそうすると、こちらの警戒が手薄になる。<首斬り兎>の仕掛けた罠という可能性を忘れてはならんぞ」


「あ……それもそうね」


「うむ。<首斬り兎>に匹敵するオーバードライブを即座に起動できる君らエージェントがおらんと、我々は奇襲を受けたとき全滅じゃ。我々もオーバードライブは当然可能だが、自在にオン・オフ出来るものでは無いし、連続使用には制限時間もある。使いどころを見極めないと隙を晒して終わる」


 リーンズィは頷いた。「合理的だと判断する。それで、目標がここに存在したとして、戦闘になったら、その後は?」


「単騎で制圧できるなら任せる。だが不可能だと感じたら我々が来るまで持ちこたえるか、即座に脱出せよ。敵味方問わず蒸気機関でオーバードライブに突入すれば、我々もそれに反応出来るよう準備は整えておく」



 リーンズィは戦闘準備を始めた。ガントレットの留め具を確認し、ミラーズの目も借りてブーツの靴紐を確認する。それから斧槍の穂先近くを右手で握り、左手で柄の中程を握る構えを確かめる。

 室内での遭遇戦に適した身体操縦プログラムをヴァローナの身体に適応し始めたところで、近寄ってきたイーゴに武器を手渡された。

 彼がタクティカルベストの胸に付けていたマガジンだ。


「これは?」


「持って行け。気休め程度だが、射撃武器の代わりにはなる」


「マガジンを渡されても私は銃を持っていないので意味がないのだな、ないの……。いっそ拳銃でもくれたほうが……」


「オーバードライブで近接戦やってる最中に拳銃なんて役に立つか。これはマガジンに偽装したスマートブレット・パッケージだ。一度底部を叩いてから投げれば、加速度がトリガーとなって十二発の弾丸が一斉に発射される。そして放たれた弾体は目標を自動追尾して攻撃する。超小型、超高速のファイア・アンド・フォーゲット誘導弾だと思え。お前の外見情報は入力済だ、誤射される心配は無いから安心しろ」


 リーンズィは目を丸くした。「高高度核戦争勃発以前のハイテク兵器だ。そんな貴重なものを私に?」


「誰かが使うために、これらは存在している。今はお前に必要だ」


「イーゴ……。本当に汚職警官だったのか?」


「今する話ではないだろう。それじゃあ幸運を……」


 イーゴはリーンズィの肩を叩こうとした。

 だが触れる前にミラーズにブロックされた。


「なんだ、ずいぶん過保護だな」


「リーンズィには既に私とレアという二人の恋人がいるのです。男性はみだりに体に触れないように」


「こいび……? 分からん、お前たちは結局どういう関係……いや、レーゲントの価値観に口出しはしないが」


「支援に感謝する」

 代わりにリーンズィが自分から彼の手を取って握った。

「この謝礼はいつか必ず」


「必要ない。目的が同じなら、誰が使うかの違いしかない。せいぜい上手くやれ」


 リーンズィは頷いた。

 右手に斧槍を、左手にマガジンを握って、扉のない玄関へと踏み込んだ。

 地獄の口のようなその薄闇に。

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