発狂した世界①

「この国ぐらいは救っただと?」


 アルファⅡは奪取したレコードに目を通しながら猟銃の照準を合わせたまま問うた。


「何を救ったと言うんだ? 私には全てが終わってしまった後に見える。不死の疫病に、為す術もなく襲われて、敗北した後だ」


『疑義を提示。そもそも何十回、何百回という発言の合理的解釈が不能です。プシュケ・メディアの破損が疑われます』


「は?! 誰だ!?」


 少女は閑散とした広場を見渡す。

 傾いたトタン屋根、錆びた手押しポンプの井戸、火の無い家々を見渡しながら、シィーは狼狽えて、己の頭に刺さった人格記録媒体に小さな手を伸ばした。


「この声……支援AIのユニ子か……?」


『何ですかその変な名前は……』


 呆れた調子で応えたのはユイシスだ。

 何も無い空間が音を立てて砕け散った。虚空を割ってそこから飛び出してくる、という気取ったエフェクトで金髪の少女のアバターが登場した。

 ミラーズとの差違を明確にすることを企図してか、あるいは鏡像の如きミラーズと自分との間にある親密な関係を協調するためか、聖歌隊の行進聖詠服の上から調停防疫局の旗をケープのように纏って、物理演算で派手にはためかせている。


『ご機嫌よう。当機はアルファⅡモナルキア搭載の統合支援AI、UYSYSです。短い付き合いになるかと思いますが、御見知りおきを』


「き、キジールが二人……? あり得ない、一つの回廊世界に、同一人物は複数同時に存在できないははず……」


「回廊世界?」


> 回廊世界


UYSYSよりエージェント・アルファⅡへ。要請を受諾しました。

検索:回廊世界

該当:1221100件

選択:最古のレコード

……エラー。記録日時が不正です。記録日時を確認できません

再生/レコード005890:



『このタイミングを逃したら、次は無いんじゃねえか?』と単眼の巨人が言った。


 隊列の先頭をのしのしと歩く二本足の戦車のような無骨な威容、その各所に取り付けられたウォーカー・デサント用の取っ手にぶら下がりながら、多くのスチーム・ヘッドが賛同の声を上げる。

 一歩ごとに荒野は踏み砕かれ、蒸気に巻き上げられた赤土の破片が、焼け落ちた旗、あるいは理想と名付けられたものの燃え滓のように風に舞った。

 ミフレシェットと名付けられたその継承連帯製蒸気甲冑スチーム・パペットは、巨大な単眼レンズを持つ円錐状のヘッドパーツだけで振り返り、後続のスチーム・ヘッド、己が上官へと問いかけた。


『あの陽炎野郎にここまで接近したことはありますかい、ローニンの旦那』


 無数の刀剣で身を飾り、そして背に重外燃機関を積んだ陣笠姿のスチーム・ヘッドは煮え切らない声で返事をする。


「いや、無い。無いが……」


 シィーは人類文化継承連帯と調停防疫局の混成部隊の只中にいた。

 多種多様な装備を揃えたエージェントと継承連帯のスチーム・ヘッドが合計五十六機。一機で小国を陥落せしめる継承連帯製大型蒸気甲冑スチーム・パペットは十五機揃っている。

 これまで巡ってきた回廊世界で最強と言える戦力だったが、十日間を超える連続戦闘を終えて未だに満足な補給が出来ていない。


 彼らはノルウェーの北端部に到達するたびに後方へ引き戻された。

 海に続くはずの断崖の先は陸になり、都市になり、荒野になり、雪原になり、密林になり、そして一切合切が浅い潮の溜まりと地続きになった違う土地に変貌した。

 最後の都市、『名も無きクヌーズオーエ』を越えると、程なくして断崖と海岸、そして海ではない新しい土地が現われるというのが、シィーの認識していた世界の有様だった。


 今回は様相が異なった。

 海岸に辿り着かないばかりか、もうどれ程移動したか不明であるにも関わらず、未だ背後にクヌーズオーエの地獄が見える。

 あの都市から丸きり距離が開いていない、と見るのが妥当だ。

 それでも何か重要な結節点へと確実に進みつつあると分かるのは、受け入れがたい速度で周囲の風景、前方の世界の変容が進んでいるからだ。


 空は完全に狂ってしまった。絵を出鱈目に継ぎ接ぎされた走馬燈のようだ。ヘドロのごとき黒い雲が肥大化した赫赫たる太陽を中心にごうごうと音を立てながら渦を巻き瞼を切り取られたような真っ青に塗り固められた晴れた空に肺病患者の息を想起させる苦しげな雷雨の風が吹き荒んでいて凪いだ空が水銀の鏡のように震えておりその表面では名前が分からない無数の星座がゆっくりと目まぐるしく尾を引いて同心円あるいは彗星のような歪な軌跡を描き星に見初められた飛ぶ鳥は燃えて落ち落ちた鳥が焼け焦げた馬にすり替えられて硫黄の息を吐きながら走り前方の草原に火を放ちながら去って燃え尽きそのせいで草原は焼き尽くされて消え失せ荒れ地に雪が降り雪の上に灰が降り灰で空は煙るが濛々と立ち上る黒い煙は透明な斜幕のように光を屈折させるだけで目には何も見えず平地は丘に丘は窪地に起伏無く隆起し世界そのものが不規則に波打っている……。

 世界が発狂している。

 変容しているのは断じて自分たちではない。

 すぐ背後に、クヌズーズオーエの地獄の風景が以前と全く変わらず認識できるために、辛うじてそう確信できる。


 これほどの異常現象に遭遇しながら自分たちの認知機能が破綻しない理由を移動しながら議論したが、結論は出なかった。

 パペットの機上、シィーの隣の取っ手に掴まるガンマ型ゾディアックは、次のように推測した。


「世界が発狂すれば、世界に内包される人間存在もまた自然に発狂します。そして全てが破綻無く反転し、変形し、発狂しているなら、それらに対して人間に受容可能な認識宇宙も自然と変容するはずです。自分たちが異常を来さないのは、これが個人では無く、むしろ自分たちを包括する宇宙の側での問題だからだと思います」


 この考え方は事態の曖昧さを肯定するという意味でそれなりに有力視されたが、シィーの考え方は違った。

 人知を逸していると言うのはもはや正確では無い。

 というのは、これまで世界と人間がある種の協定を結ぶことで世界の実像というものは維持されてきたのだが、世界の方が相互理解を一方的に破却した。あるいは簒奪されてしまった。関係を断たれているのだから我々には一緒に狂うことさえ出来ない……。

 かつてともにあったスヴィトスラーフ聖歌隊の少女、キジールの思考形態を借りて、シィーはそのように理解した。


『それで、ローニンの旦那、どうするんで?』


 先頭を行くスチーム・パペットのミフレシェットが再度尋ねてきた。

 円筒頭をくるくると回転させているのは、全方位から取得した視覚データを後方の情報戦担当官に送信しているためだ。

 状況は異常だが、ある一面においては処理しきれないほどの事象ではなかった。想定される世界の変容モデルでは、前方のある一点に元凶となる存在がおり、それを中心として波紋を描くようにして、再配置の力が放射されている。

 変容の進行度を解析すれば、目標の存在する座標、そして自分たちがどれだけ接近しているかは大凡掌握できた。


「……前進だ。やつの尻尾ぐらいは掴みたい……がっ」


 衝撃が真下から突き上げた。シィーたちは危うく吹き飛ばされそうになった。

 掴まっている人類文化継承連帯のパペットが、岩石に蹴躓いて寸時バランスを崩したのだ。


『すまん、シィー。だが妙に岩が硬くって……』と人工音声をくぐもらせたのは、曲線を主体とする装甲が特徴的なパペット、ジャガーノートである。


 突進力と防御力に偏重した機体で、戦車を撥ね飛ばし前面装甲に限っては不朽結晶砲弾を真正面から受け止めることが可能だ。

 たかが岩ごときに躓くはずが無い。

 再び歩み出したジャガーノートの背で、鬼面の兵士は振り返った。

 あれは本当に岩だろうか? 

 網膜に『不朽結晶』の文字が映る。

 あるいは岩ではなく、途方も無い時間を掛けて変質した戦士の亡骸なのではないか。

 不滅にして不朽の時代に、しかし時間は降り積もる。

 人は死して名を残し、都市は崩壊して名を残し、しかし朽ちぬものは名を喪い、物言わぬ土塊となり、ただ忘れ去られ……形骸だけが残る。

 銘も彫られていない墓碑の如き都市が。

 そして伽藍の都市にさえ時が降り積もる。

 あの得体のしれない存在がやってきて、違う何かに挿げ替える……。


 シィーは生理的な嫌悪感から身震いする。

 この怪現象の中心に、恐るべき怪物がいる。

 忌まわしいあの怪物が。

 似たような兆しを無数の場所、無数の昼、無数の夜で見た。

 あるときは数秒の間隔で二度現われる痩せた犬という形で、またあるときは数百mおきに現われる見覚えのある標識という形で。

 兆しが現われた時、すぐそばで何かが必ず『再配置』されている。そうした異常は片鱗に過ぎないのだろうと予想していたし、実際現場に辿り着いたときには世界の改変が終わった後で、奇異なる改変のあるじの姿は、もうどこにもいなかった。


 何度この地方を鎮圧しても、何度脱出しようとしても、成果は必ずゼロ、あるいは全く違う数字に置き換えられてしまう。

 無限に繰り返される闘争。

 だが、何の因果か、この異常現象を操る黒幕に、今ようやく追いつこうとしている。


「ユニ子、サイコ・サージカル・アジャストを起動してくれ。怖くなってきたんだ」


『恐怖に関する神経伝達は既にカットされています。シィー、貴官が恐怖と誤認しているのは、交感神経の過度の活性化に伴う血管収縮による身体の震えです。周囲の環境は当機には理解できていません。貴官は現在臨戦態勢にあり、これを解除することは推奨されません』


「お前から見てもこの状況は相当ヤバいってことか?」


『肯定。当機ではそもそも外部の状況を整合性のある形では認識不能です。異常環境に対して適応の変異を起こした生体脳のみ観測が可能と推定します。これは十回目の勧告ですが、即座の逃走を推奨します』


「そうもいかない。ここまであからさまな前触れに遭遇したのは初めてだ」


『違う時間のヴァータとキジールの仇討ちでもするというのですか。その感情は否定しませんが、怖くなってきたというのならば逃走を強く推奨します。貴官よりも、貴官の操る肉体の方が正確に世界を観測しているのですから』


 排除できない根源的な拒絶感は、それを見たがために真なる終局的破滅に巻き込まれるのではないか? そんな肉体から湧き上がる非合理的思考に端を発する。

 つまりそれは、スチーム・ヘッドの感覚としては、絶対的な危機に対して働く直観と言って良い。

 逡巡は一瞬だった。


「……いや、俺らは来た道を引き返した方が良いんだろう。真正面から鉢合わせになるのはやめとこう、スチーム・ヘッドがこの領域に来てどうなるのか確かめられただけでも成果だ」


『しかしローニンの旦那』ミフレシェット。『丘を一つか二つか……丘って言うよりは波みたいに見えますが……それを超えれば現地ですぜ。随分弱気じゃあねぇですか?』


「悪いな。いざ近づくと、どうしても思い出しちまうレコードがある」


 シィーは再生を避けていた記録を改めて検分した。


「大分前の回廊世界に、聖歌隊で、付き合いの長いやつが二人ほどいたんだ。そいつらがはしゃいでほんの少し先を歩いていたんだよ、蝶々の群れが見えるって言うんで……そんなもんいきなり出てくるわけないし、まぁ、やつの『兆し』だよな。あの頃の俺には分からなかった。暢気なものだった……そしたらいきなり、そいつらの輪郭が崩れて……どちゃっと音を立てて地面に落ちた。それで、近寄ってみたら臓物が虫の大群みたいにして、うぞうぞと蠢いているわけだ。内臓と血で出来た、生きているゲロみたいな、水溜だよ。見慣れた緑色の瞳をした綺麗な目玉が四つばかし、腸の上を転がり回っててよ……」


『そいつぁ……』

 ミフレシェットは労うための言葉を探しているようだった。

『<人体融解>ってやつですかい。北米の大型カースド・リザレクター、「十三人の吊るされた男たち」も似たような真似をやるって聞いたことがありますが……見るのはキツそうだ』


「打ちのめされたよ。そいつら、親子でな、俺が守ってやってる気でいた。逆に助けられることも多かったが……。ことが起こっちまうと、してやれることは何にもない。あいつらの人格記録媒体が発狂する前に壊してやるぐらいしか出来なかった。そうしているうちに、内臓の溜まりから虫が這い出して、孵化して、蝶なんだか蛾なんだか、見た目だけ似てる別の生き物なんだか……とにかく羽根の生えた綺麗な虫が吐き気がするぐらい大量に湧いてきて、一斉に飛んでいった……。俺に夢を見る機能があるなら毎日あいつらの夢を見るだろうな」


『作動:精神外科的心身適応』の文字が連続して視界に踊る。


 鬼面の兵士は首を振って意識を集中させた。


「とにかくここまで滅茶苦茶な回廊世界の再配置グラフトが行われている現場は初めて見た。俺たちはこれに出くわしていなかったからこそ、今まで生き延びてきたのかも知れん、って気がしてきたぜ」


『状況が不味そうなのは神経の鈍いパペットの俺らにも分かっていまさぁ。だがあれを無視して進むってのも損失がデカそうじゃねぇですかい? 情報としちゃ貴重だ。やつを上手いこと利用できる方法があれば不死病がまだ人が死ぬだけの病気だった時代に戻せるかもしれねぇ』


「否定はしないけどな。この賭けは降りるべきだ。やつは世界を並べて、折り曲げて、重ねて、束ねるんだ。あんまり接近すると俺たちもそうされちまうよ。今は何故だか平気みたいだが、これはたぶん、ただラッキーなんだ。生身の部分を殆ど使ってないお前たちにはちょっと分からないかもしれないな。気が変になりそうだ。俺は太陽がどっちから昇るものなのかを忘れちまったよ」


『フーム。俺は旦那には逆らわねぇ。回廊みたいに一続きの土地になっちまったこの世界で、一番長生きしてるのはたぶん旦那だからな……。おい皆、そういうわけだ!』

 ミフレシェットは拡声器で全機に呼びかけた。

『制圧戦の後のクールダウンもまだ終わってねえし、ここは一つ見送ろうや。再配置が終わるのを待つんだ。人生長いぜ、終わるまで続く……どうせ時間曲げクソ野郎ともまた会うさ』


 しばしの間をおいて、同意の返信が次々に届いた。

 ほぼ全機の賛同により、継承連帯を主力としたその部隊は強行偵察を断念した。

 徐々に速度を落とし、やがて全体が立ち止まる。

 地方都市程度なら数刻で制圧できる軍勢は血気盛んだ。

 破壊的だと言っても良い。常に戦う敵を求めている。

 だが、未知の影をその実、恐れていたのだろう。


 シィーは一息つく。読みたくないレコードを再生したせいで、不味いコーヒーが恋しくてたまらなかった。

 だがシィーの隣で、別の取っ手に捕まっているスチーム・ヘッドが、まんじりともせず考え事をしているのを見つけた。

 光学センサを数百個並べた半球型のバイザーに、子午線の太陽のように光が昇る。

 その機体は、最後の息を吐く準備でもするかのように深く息を吸った。

 そして、その通りにした。


「エージェント・シィー。進言します。自分は、自分だけでも行こうと思います」


 調停防疫局のエージェント、ガンマⅠゾディアックだった。ヘルメット内部の眼球運動に合わせて、バイザーの集合光学センサーの上を光の点が移動する。

 シィーは押し黙った。

 鬼面の奥に収まる木の虚のような暗い瞳で、その機体を見つめた。


 所属は同じでも、出自が不明なスチームヘッドだ。ガンマ型のコードを割り振られた黄道十二星座ゾディアックシリーズには何度か遭遇したが、大抵は山羊座や乙女座といった名前を持っていた。ゾディアックそれ自体を冠する機体は他にいなかった。

 基準世界、すなわち自分が元々いた世界に、このような機体は存在しない。支援AIのデータベースにも該当がないモデルだ。

 だが数百時間も行動をともにした同志でもあり、シィーもその実直さと、真実を追究しようとする性格をたっぷりと味わっている。


「相手はたぶん本物のバケモノだ。ろくな死に方出来ないぜ」


「死ねやしませんよ。自分たちはそのせいで今こうして、訳の分からない奪還戦を繰り返しているわけですから」

 ゾディアックのバイザーの上を、気まぐれな夏の太陽のように光点が動く。とぼけたような視線の動きのトレースだ。

「ご存知の通り自分は情報収集に特化したモデルです。脅威を少しでも暴くことが出来たなら、破壊されたとしても、それこそ本望ですよ。支援AIのユニバースもやる気でいますし。スターゲイザーユニットを使い捨てにすれば一方的に攻撃される心配も無いはず」


「スターゲイザーユニットか。ビビってそいつの使用を考えなかった」

 鬼面の兵士は頷いた。

「俺もヤキが回ってきてるなぁ」


 ゾディアックの偵察能力は貴重だ。

 単独での飛行が可能なスターゲイザーユニットは地図も電波も役に立たない不滅の世界では虎の子で、替えが効かない。

 だが、あの怪物の情報にはそれと引き換えにするだけの価値がある。

 希望的な観測をするなら、ただの道具なら、仮に破壊されても換えがどこかに現われる可能性がある。


「よし皆、『占い師』ゾディアックがやる気を出してるぞ!」

 シィーは声を張り上げた。

「前衛だけ、もうちょい前進だ。ゾディアックを援護して、軽く覗き見だけしてやろう。絶世の美女か、脚の生えた泥の固まりか、それだけでも確かめてもらおうじゃないか」


 図体の大きく敏捷性に劣る継承連帯のスチーム・パペットはその場に残し、ゾディアックや他のスチーム・ヘッドを連れて、不定形の波打つ丘の稜線から出ないよう注意しながら距離を詰めた。

 相手がどんな姿をしているか分からない。人型ではないのかも知れない。だが、あちらから姿を見られるのはそれだけで不吉だというのは共通した見解だった。

 スチーム・ヘッドは機械であり、不死であり、最強の兵器だ。

 だが肉体の制御のためにエミュレートされている人格は所詮人間である。人間はまじないを恐れ、神の影を恐れ、悪魔の影を恐れ、破綻した因果の激発を恐れる……。


 シィーが不朽結晶のカタナを抜いたのを合図に、兵員たちが残弾の少ない重機関銃や、蒸気機関と連結した蒸気噴射砲、電磁加速砲、不朽結晶製の近接戦闘用装備を構えた。

 ゾディアックは波打つ大地に片膝を突いて、背負っていた蒸気機関を降ろした。折りたたみ式の翼を展開して、有線操作用のケーブルをたぐり出し、炉に火を入れた。

 スターゲイザーユニットはゾディアック専用の有視界飛行偵察ユニットだ。小型の回転翼で羽虫のような音を立てながら上昇したあと、蒸気噴射を推力にして渦の中心へと真っ直ぐに飛んでいった。

 兵士たちは口笛を吹いたり手を振ったりしてそれを見送った。

 この電磁波の吹き荒れた破滅の時代で、空を飛ぶ機械は貴重だ。どんな状況でも有益な情報を持ち帰るこの不朽結晶の鳥は、もはや跡形もない時間の栄光の影を思い出させ、その上、実に役に立つ。


 偵察ユニットが前進して、見えなくなって、暫く経った頃だった。

 ゾディアックの光学センサーの集合体が突然不規則な明滅を始めた。


「どうした?」


 返事はない。

 数秒後には手と足、首と胴体が別々の生き物のように暴れ始めた。

 占星術の不死者は己の関節を破壊しながら地面にのたくった。

 誰も動こうとはしなかった。

 ただ息を潜めて硬直して、気が狂った月夜のように光を明滅させるゾディアックのバイザーを眺めた。


「ERRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRROOOOO」とゾディアックは奇声を発した。「回廊の向こう側が見える……星が見える! 星が見える! 星は月明かりで太陽と同じだから! 炎が見える。懐かしい炎が……故郷が、幼馴染みが見えます! 産まれて……ああ、死んだ。産まれた。死んだ。死んだから……今は東に、過去は西に、これから北へ、それから南へ……海岸へ! 海岸が……海岸が! 海岸が! 海岸が!」


「どうした? 何があった? 何が見える? ゾディ。何が見える? どうした?」


 シィーは既に刀を構えている。

 上段に振り上げて、頭を断ち割る準備をしている……。


「何を見た?」


「すべてを」とそれは言った。「炎を……星を。いや、あれは……あれ……あ……」


 不朽結晶連続体のヘルメットが弾けて飛んだ。

 ぱちん、と火花が弾けるようにして、爆発した。

 不滅である筈の物質の破片が飛んで来て、シィーの装甲を叩いた。

 破裂した頸の断面からは無数の手のようにツタが伸び始めた。ゾディアックは星を見た。きっと、見た星を追って、手を伸ばしたのだ。

 シィーの目前で首なしの遺骸が変容を始める。首の断面から伸びる手は、やはり真っ青なツタの形をしており、女の髪のように伸びて、見る間に空へ登っていき、寄り集まって、鞭と短剣を組み合わせたような、血と肉と植物の混合物となった。

 そして目まぐるしく変わる昼とも夜とも付かない空から雨のように降り注いで、仲間を突き刺して切り離し始めた。

 兵士たちが怒声を上げながら異形の刃を迎撃する。

 シィーは至近距離にあって降り注ぐ刃を造作も無く避けて息を吸った。

 ゾディアックを破壊した。一太刀で首を根元から切断したが、他の部分まで変異、あるいは凍り付き始め、燃えて焦げつつある。これだけではもう止まらない。

 オーバードライブ起動。

 刹那の刃の閃きが全てを切り落したが、不朽結晶連続体の装甲の下でも変異が進んでいる。

 さらに切り刻む。エージェントだった何か、様々な悪性変異体のコラージュと化したゾディアックを解体し、バックアップ用の人格記録媒体を毟り取ろうとした。

 殻の内部にも繊維質の神経組織、その変異体が根を張り始めていて、核爆発に巻き込まれても傷つかないメディアが押し潰されつつあった。

 欠片を無理やり引きずり出すのが精一杯だった。


 刀を振るう。また刀を振るう。

 最高硬度の不朽結晶連続体の刃はゾディアックを装甲ごと微塵に切り刻み四散させる。


 残された悪性変異体はどうしようもない。どれほど傷つけても意味はない。

 むしろ状態としては悪化するが、再生にリソースを割かせることが出来ればひとまず時間は稼げる。


「よくやった、ゾディアック」

 シィーは刃を収めて他の仲間に呼びかけた。

「おい、負傷者はいるか? どんな程度だ?!」


 確認している猶予は無かった。

 丘の向こうへ消えたはずのスターゲイザーユニットが突如戻ってきたからだ。

 不滅の装甲で覆われた銀の鳥は今や腫瘍の固まりのような黒い肉塊に変わっており、ケーブルは触手にすり替えられていて、何か不潔な生き物の臍の緒のようだった。

 兵士たちは己の腕や手足を拾い、慌てて繋ぎ合わせて、空に銃口を向けた。

 肉腫の鳥はこちらには脇目も振らず、どこか分からない所に飛んでいった。

 からからからからからとゾディアックの残骸のケーブルのドラムが回り、腸のように変異したケーブルが次々と引きずり出されている。本当にゾディアックの臓器と一体化してしまっているのかもしれない。


「なんだありゃ」

「何故戻ってきた?」

「ゾディアックはもう駄目そうだな……」

「スターゲイザーは何しに来たんだ?」

「見ろよ、一目散に離れていくぜ。どこへ行くんだ?」


 どこへ行く。

 離れていく。

 何から?


 ぞくりと背骨が震える。


 シィーは叫んだ。


「撤退だ! 撤退しろ! 各員オーバードライブ!」


 返事を待たず己の重外燃機関のスターターハンドルを引いた。

 支援AIが全身の組織を活性化させる。

 外骨格のリミッターを解除し、人間の肉体では耐えられない高速機動を開始する。


 仲間の離脱を待たず脱兎の如く駆けだした。

 直後、『三機のロストを確認しました』と支援AIが報告する。

 響く声なき悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴……背後で何が起きているのか確認する余裕がない。


「走れ! 走れ! 走れ! やつが来てるんだ! ゾディアックの遺言だったんだ! スターゲイザーユニットは、やつから逃げろと言ってるんだよ!」


 切除しきれない恐怖に負けて一瞬だけ振り返る。

 渦動が、脈打つ肉の土の水の丘の向こう側から、虹色の渦動が猛烈な速度で押し寄せてくる。虹色の波は七色ではなく、赤、青、黄、緑、■の五色であり、定義を狂わされた虹色の闇に触れた大地は氷に、炎に、土に、空に、海に、硫黄に、影に、夜に、肉に覆われて歪み、いずこかの一点で変異をやめて霧散していき、それとは脈絡のない別の時間、別の土地、別の形で唐突に固定される。渦動に追いつかれたスチーム・ヘッドは全身から青い薔薇を芽吹かせて瓦解し、ある者は雄牛のような断末魔を上げながら溶け落ちていき、ある者は何倍もの体積に膨れあがって折れ曲がり異様に変形していく。ミフレシェットは捻れながら地面に縫い止められスピーカーからノイズを吐き出しながら高く高く上昇していき塔になって崩れて破裂した。そしてそれら渦動に飲み込まれた者全てが前触れ無く消滅した。そんなものは最初にいなかったとでも言うように世界から切り落された。


 再配置されたのだ。

 この回廊世界にシィーの知る彼らはもういない。

 別人としてどこかに生きているか、あるいは死んでいる……。

 そしてシィーは渦動の丘に立つ影を見た。

 影を見た。

 影を見た……。


 生体管制より通達:認知機能をロックします。

 終了/レコード005890

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