第二十四番攻略拠点 開門①
「開門するぞー」という気の抜けた号令に合わせて、アルファⅡモナルキアたちが目の当たりにしていた木造城壁の一部が消え失せた。
代わって現れたのは均質な質感の、光沢の無い黒い薄板だ。透過されていた景色は消え去り、太陽は鎖され、一行に向かって長い影が落ちる。
高層集合住宅ほどもあろうかというその一枚の板には、途切れ目がどこにも存在していない。この世界の実像と同じく、何者の手にも切り分けることが許されない、不滅にして不朽の物質で構成されている。
異様に巨大な不朽結晶連続体。
それこそがこの城壁の本性だった。
門に似た木製の構造物だけは、見た目通りの実体を備えていたが、エルモ、もしくはグリエルモなる城壁管理係を見張りとして収容しておく以上の機能は無いようだった。
というのも、ここには今や城門さえ存在しないのだから。
光学的な虚構としてのみ実在を認められていた扉は消滅し、完璧に閉ざされた不朽結晶の黒い板を晒している。
ミラーズは普通に門が開くものだと思っていたらしく「あれ? 何これ」と背後から水を浴びせられた猫のような表情をした。
「お城の門みたいに開くと思ってたんだけど……」
涼しげな表情のユイシスのアバターが、背後から同じ顔立ちの少女の胸へと腕を回して耳打ちする。
『先ほどまで展開されていた簡素な木造城壁は、光透過性によって付与された視覚欺瞞の生成物に過ぎません。舞台に置かれた書き割りのようなものです。設置部分から十数mの高さまでには城壁に似たパターンが描かれ、それ以外は光を完全に透過するように設定されていたのでしょう』
「そ、そうなのですね」
ミラーズは落胆して自分のふわふわとした金髪を触った。
「ちょっと、小さい頃に観た映画みたいで感動していたのに。残念です、ユイシス」
『リーンズィはリアクションが無いですね』
「逐一ユイシスからデータを取得していた。電磁迷彩装甲だな。ウンドワートも使っていた。継承連帯では有り触れた技術なのかもしれない」
リーンズィはふむふむと頷き、不意に目つきを鋭くした。
名前を出したせいで、いけ好かない殺人ウサギに思い切り弄ばれた記憶が蘇ったのだ!
「なんだか胸部から腹部あたりが熱い……頭もクラクラする……脱水症状に似ているがバイタルは正常だ。さてはこれが怒りだな? 私は怒っているのか。今度あのウサギを見かけたら……逃げたり隠れたりピョンピョンしたりできないよう何か変な絵とかラクガキしてやる……」
ミラーズが苦笑しながら腕に抱きついてくる。その感触に、何故だかリーンズィはどぎまぎしてしまう。体つきだけで言うならば、ヴァローナの方が体型には恵まれているのだが。
「それは小さい子供のすることですよ、リーンズィ。仕返しなんて意味のないことなんだから」
意味のないこと、とリーンズィは復唱する。
「……ラクガキには、意味なんてない。そう言えば、城壁のテクスチャこそ、まさしくラクガキのようなものだ。木製の壁のように偽装を施す意味はあるのか……? 戦術的な意味はないはず」
『おいグリエルモ、まだ開かねぇのか』とミフレシェット。
「風速が微妙に規定値越えてるらしい。もうちょい待て」
『いつの時代に設定した値だよ、生身の人間相手の労働基準法当てはめてるんじゃねぇぞ』
「そうは言うが不朽結晶で出来た25m平方の壁が垂直に落ちてきたらパペットでもぶっ壊れるぞ」
何か言い合いをしている兵士たちを無視して、リーンズィは物思いに耽った。
不朽結晶の性質を利用し、自在な迷彩効果を実現すること自体は、不朽結晶に関する技術自体が極めて特殊であるという点を無視すれば、それほど特殊ではない。
薄い不朽結晶の装甲板でもって、野営地の一部、たとえば弾薬庫を保護するなどと言うのは、やや贅沢ではあるが、リーンズィに与えられた朧気な記憶においても、特段に変わった用法では無い。
ただ、それこそ書き割り代わりに不朽結晶の壁を設置するという事例は思い浮かばなかった。
「単純に見た目が悪いからじゃない?」
ミラーズとしては何の疑問も無いようだった。
そそり立つ壁のような黒い壁を抱え込むように手を広げた。
「こんな大きい真っ黒な壁が街道の奥にいきなり現れたら、怖いでしょ」
「……確かに遠くから観測したとき、これが剥き出しで聳えていたら、怖いかもしれない」
破滅した人間が最後に網膜に映す景色よりも重苦しい、光を反射しない黒い構造物。
それが地平線の彼方まで続いている光景を、リーンズィは幻視した。
絶望的な威圧感以外には何も無いと思われた。
「しかし迷彩効果の切替が可能な不朽結晶連続体は、生産コストが高い。まさか景観のためだけにそんな大袈裟なものを、こんなに……こんなに? え……?」
リーンズィは唐突に、唖然として、城壁を眺めた。
その異常を、あるがままに受け入れられなくなった
何かの認知機能ロックが解除された感触があった。少女は己の体を抱きしめ、今にも倒れかかってきそうな巨大な装甲板から後退り、青ざめた顔で果てしなく続く虚構の城壁を見渡した。
咄嗟にミラーズの側に寄ったのは、あまりの異常さに気付いて恐怖心を覚えたからだ。
「こ、これが……全部……そう? 全部? 全部……全部、不朽結晶連続体?!」
「それは、そうでしょう。普通に考えればそうじゃない? どうかしたの? また何かがあなたを怖がらせているの?」
ミラーズは相も変わらず平然としていたが、リーンズィの目に映る世界は急速にその彩度を失いつつあった。
改めて見ると、理解を超えた光景だった。
今し方、偽装を解除された不朽結晶連続体は、確かに一枚の板に過ぎない。
ただし、地表に露出している部分だけで25mもの高さがあり、横幅は50m程にも達する。
リーンズィはモナルキアのデータベースにアクセスして、そのような一枚板の不朽結晶連続体を製造した事例を検索したが、該当する研究がない。
立ち並ぶ障壁その全てが一枚の板というわけではなかった。高さ25m、横幅50mのサイズの板が一繋ぎの城壁のように連結されているだけだ。
横幅に対して高さが半分しかないというのは奇妙だが、もう半分は地下に存在するのだろうという漠然とした確信があった。
大した工夫も無しに大地へと差し込んでいるだけではないかとリーンズィは推測したが、そんな出鱈目なサイズの不朽結晶連続体がどこまで続いているのか分からないという点が嘔吐感を誘う。
何せ望遠モードに切り替えたアルファⅡモナルキアの視点でも、城壁が途切れる場所は観測出来ないのだ。
不朽結晶自体は低純度だったが、このサイズの壁を何百枚も生産するのは調停防疫局でも容易ではない。
一つの巨大な組織のリソース、その全てと引き換えの大事業になるだろう。
「こ、これだけの規格化された障壁を用意するのには、専用の大型精製装置が必要になるはず。都市を丸ごと収容するためだけに作られた端末が存在するのか……?!」
少女の首ががくんと揺れた。了解。複製転写式行動様式第3号、アルファⅡの神経系にマウントしました。データベースチェック、異常ありません。擬似情動の入力を開始。エコーヘッドシステム、起動します。
「う……? 正気の沙汰では……都市。都市焼却機フリアエ……都市焼却機! 全自動戦争装置の端末。全自動戦争装置の直轄の端末……ど、どこかにいるのか、この付近にもいる?! あの山のような兵器の群れが……都市……誰? 分からない、え、何が……私?」
突然に、眼前の光景全てが、理解という名の認知の掌から零れ落ちた。
何もかもがモンタージュ写真として裁断され、意味が急速に消失していく。
「手? 誰の……動く。私? 私には手がある……」
はっ、はっ、と痙攣するようにして呼吸をする。
瞬きをするたびに意識が途切れて、眠りかけの子供のように首が揺れた。
膝から崩れ落ちて頭を抱える。
ヴァローナの人工脳髄が干渉している? しかし花飾りに擬されたその機械は発熱していない。異常を来しているのは私の隷属化デバイス。簡易型人工脳髄。隷属化デバイス? 違う。私はアルファⅡモナルキアの同位体。モナルキア? 私に何が? リーンズィは思考伝達通信で親機に異常を伝える。モナルキア、君との統合が途切れかけている。首輪が熱い。返答は無い。眼球が沸騰を起こす見知らぬ既知の景色の奔流。機銃と砲台で構築された針鼠のような全容をお前は知っている。あの極寒の地で白いヘルメットを被った誰かが自分の重外燃機関を起動させたのをお前は知っている。白ウサギ骨董店の寂れた空気と柱時計の切り刻む音色。無数のケーブルを髪のように振り乱す人工脳髄の少女が白痴の祈祷師のように暗闇の中で踊っているのをお前は知っている。「違う、違う、違う。知らない、知らない、知らない……」知るはずがない。知るはずがない。「そらとそらのはざまをつらぬくほんもののとうにいるおひめさまはきみのことなんてきにしていなくてボクはあしたたんじょうびできのうがめいにちなんだけどねむることがないのだなだってかんきゃくなんてしらないからかれらはみんなそらにいるからかれらはねむらないからだからかのじょもねむることがないんだけど君はケーキが好き?」誰だ。知らない。知るはずが無い。赤く変色し始めた瞳の奥で無秩序な神経発火の火花が散るのをリーンズィは見た。七つの燃え上がる瞳がお前を見ている。
「 もはや意味などないというのに 」
「うるさい、うるさい! それを決めるのは君ではない! 君は……君? 私は?」
分からない。
無臭の甲冑で額を撫で、肩で息をしながら掌を見る。
濡れた金属の表面。スチーム・ヘッドは汗を搔かない。
アルファⅡモナルキアは汗を搔かない。
ではこの発汗は何なのか。
お前は、私は、私が誰だ?
粘り気のある空気が肺腑に絡みつく。
違う。タールの如く纏わり付くのは己の体性感覚そのものだ。
己? 己って誰。
この世界のどこまでが私なのだろう……。
『驚くのも無理はねぇ。不朽結晶で作った服ほどおかしなもんでもねぇけどな』
リーンズィの異常に苦笑した様子でファデルが巨大な肩を竦める。
『いや実際の所、俺らにもこれがどういう経緯でこんな偽装を施されてるのかは分かんねぇ。しかし……あんた、余裕綽々だったのに、いきなり普通のスチーム・ヘッドみたいなリアクションになったな。確かにコレを正確に理解できるならビビらぁな。そっちが素なのか?』
リーンズィは呆然として首を振った。
目前のパペットが誰で何を言っているのか、理解が出来なかった。
「誰? 私の、素? 誰。私。私って誰。誰が私? お前は誰」
『なんだ……? は? 誰って、何だよ。どうしたんだよ』
「だから、誰? 私が? 私は……私は? 私は……私って何。誰が……どれ?」
ついにはみっともなく膝を折り、ミラーズに抱きついて、胸に顔を埋める。
目を逸らしていれば怖いものが消えてくれると信じている幼い子供のようだった。
ミラーズが「大丈夫ですよ」と囁きながら髪を撫でてくれるが、頭蓋の内側、ヴァローナの生体脳は規定値を大幅に上回る神経伝達物質が放出され、手足に力が入らなくなっている。
「リーンズィ、落ち着きましょう。私が分かりますか?」
「……ミラーズ」
薄い不朽結晶連続体の衣服に縋り付き、隠された肌の熱を額に押し当てる。
「すまない、少し混乱している。こんなのは初めてで……ただただ、怖い」
本来ならサイコ・サージカル・アジャストが起動するべき状況だが、リーンズィという名を与えられた少女は、ただ目を瞑って震えることしか出来ない。
さすがにただ事では無い、とクヌーズオーエ解放軍の兵士たちも気付いたようだった。
「待て、何かマズいんじゃないかそいつ!」
エルモが城門から声を飛ばした。
「スチーム・ヘッドが立てなくなるなんて、まともな状況じゃ無いぞ。ウンドワートにやっぱり何か仕込まれてたんじゃないか! 遅効性の破壊プログラムとか!」
『そ、そこまでやる人じゃねえよ! そんな時限爆弾仕込むわけねぇ!』
「何かされた? わたし……わたし、壊された?」少女の甲冑の指先が神経質そうに首輪型人工脳髄の表面をカリカリと搔いた。「どうしよう、ミラーズ、ユイシス。わ、わたし壊されたのかな。こんなのは変だ。自分の体が自分の体じゃないみたいになって。怖い、怖くてたまらない。この世界全上空からパラパラと剥がれ落ちた硝子の山が、あ、でも、最初から私には体がなくて。冷たくて、感覚が研ぎ澄まされて……あれ? わたし……わたし? 私、わたし、僕、あたし、我々、私たち、俺……あれ? あれ? わた……誰? 誰だっけ。誰? 誰……」
「リーンズィ、落ち着いて。何があっても大丈夫」
ガクガクと震える少女の体を抱きしめながら、ミラーズが目を細め、子猫をあやす母猫のように首筋に唇で触れた。
腕の中のリーンズィを、さらに強く抱きしめる。
「大丈夫。しっかりと意識を保って……」
『生命管制より通達。アルファⅡモナルキアによるマスキングを解除された認知世界はどうですか? 初恋をしたみたいに心拍が乱れていますが』
嘲るような声がした。
モナルキア、という名称が外部から聞こえた瞬間に、リーンズィの意識は平静さを取り戻した。
腹から脳髄までを突き抜ける激情の名を、ライトブラウンの髪の少女はもう知っている。
怒りである。
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