血の洗礼②

 体を冷やす風は汚濁を遺していった。

 全身が塵埃に塗れた。出口のない煙突を落下していく掃除夫のように黒く汚れてしまった。


 雲状生体機械群なる存在は、上手く太陽を隠してくれたが、手ひどく汚染された風も運んできたらしい。しかも刻一刻と汚染が重なっていく。

 覚束ない手先で着せあいをした。

 どうしても留め金が上手く触れない。二人とも裸体にマントを羽織っただけのような姿になった。

 互いの半裸の姿を見て、不埒ですね、などと笑い合う余裕もない。

 荘厳だった行進聖詠服の装飾は数百年を風雨に晒されたかの如く煤けており、何か打ち壊された戦争記念館に置き去りにされた将軍の衣服に似ていた。

 永遠に清らかであることを約束されたはずの、麗しい少女達の肌にすら塵が付着しつつある。

 不死病患者の浄化能力をもってしても、肉体が汚染されていくのを止められていない。

 彼女たちは、それほどまでに弱っていた。


 鮮血色の熱波が過ぎ去っても、世界には世界が終わる日のような陰鬱な光が満ちている。

 外気も体温も危機的な一線を下回った程度で、まだ油断はならない。

 ライトブラウンの髪の少女は腰を下ろしたまま、膝を抱えたまま熱っぽく息をしているミラーズから、そっと体を離す。

 ミラーズもリーンズィも、悪性変異の進行は停止し、低速で回復を始めている。

 身体運動を減らし、ただエネルギーの産出を抑え、体温を下げることに努めた。



 高すぎた外気と体熱のせいで、平衡感覚を初めとする複数の機能が混乱したままだ。

 全身から甘い匂いのする汗が止めどなく垂れ落ち、あるいは蒸散していくが、その端から剥き出しの肌に塵が張り付いていく。

 ミラーズが呆としながら手を伸ばし、リーンズィの顔を拭ってくる。

 リーンズィは無心で彼女に体を許し、甘えた。

 人工脳髄が頻りに点滅を繰り返しているのを、アルファⅡの鏡像のバイザー越しに確認する。

 自己破壊プロセスを実行して、身体を破壊的に環境へ適応させたアルファⅡから、この炎熱の環境への適応プログラムが転送され始めた。

 身体機能が回復していくのを途切れがちな擬似人格で感覚する。

 ミラーズはまだぼんやりしているが、いずれすっかり正気に戻るだろう。

 ライトブラウンの髪の少女は楽観に目を細める。

 ただ、自分たちエージェントへのアナウンスを再び停止してしまったユイシスが不吉だった。


 熱で目が余り見えなくなっていることに気付く。蜃気楼か何かだと思っていたがそうではないらしい。

 視覚補正のリクエストを送ると『協力を要請。ミラーズの看護をお願いします』と声が聞こえた。


『ミラーズの肉体は、ここまで急激な環境変化に慣れていません。貴官の回復が早いのは、やはり戦闘用スチーム・ヘッドとしてデッド・カウントを積み上げてきた実績があるからでしょう』


「……君の方が適任だろう。君が、私の体を奪えば良い。私は何だか罪悪感が湧いてきた。私は、あまりにも無力だ。彼女をあまり助けてあげられているとは思えない……」


『殊勝な機体ですね。そう、当機が正式な恋人なのですから、貴官は身を引くべきです。アルファⅡと違ってかなり謙虚な感性が芽生えている点は評価しましょう。ただし、当機は権限のレベルで肉体を与えられていない身です。当機には、本当の接触は許されていません』


 嘲りの音色は、彼女自身に向けられているようだった。


『アルファⅡにそのような動作をさせることは可能ですが、同じ女の子であるリーンズィに介抱を任せた方がマシというというものです』


 打って変わって暗澹たる黒雲、血染めの塵埃の海を仰ぐライトブラウンの髪の下で、荒野を映して琥珀色に変じた瞳が瞬く。

 ユイシスの支援により補正された視覚で、ミラーズをじっと眺める。

 起き上がってはいるが、意識が戻ったのは先ほどの一瞬だけだったらしい。

 矮躯を縮こまらせて、ぜぇぜぇと苦しそうな息をしながら、項垂れている。


「ミラーズ? ミラーズ?」と呼びかけながら肩を揺すると、また荒野に倒れ伏せてしまった。


 仰向けの肉体、行進聖詠服の下、慎ましげに自己主張する薄い胸が、呼吸に合わせて細かく上下している。


「リーン、ズィ……?」と少女の唇から声が漏れた。「あたしを、見ているの? ねぐるしくて、とても寝ていられないわ。ふふ。たくさん、血を分け合いましたね。シィーが言っていたとおり。あなたはまったく純真に、わたしに尽してくれました……ごめんね、役立たずのまざーで、ごめんね……」

 ろれつの回らないらしい舌が、桃色の唇の下で蠢く。

「ねぇ、あたしはどんなすがたをしているのかしら。みぐるしくは、ない?」


 ヴァローナよりも頭一つ小さいその儚げな少女の顔には、疲労が色濃い。

 不死病の病変、この殺人的暑熱への適応が進んでる証拠であり――悪性変異が進行している兆候でもあった。

 ただ、アルファⅡの自己破壊プロセスからもたらされた適応情報が確実に身体を改編しているはずだ。

 アルファⅡが棒立ちになっている点を見るに、さほど危険な状況では無いのだろう。『適応』は順調に進んでいる。しかし、意識の変性はどうにかして停めなければならない。


 スチーム・ヘッドは不滅だ。不朽結晶連続体で形作られた人格記録媒体に収録されたデータも、基本的に外殻部分が破壊されない限り損失することは無い。

 ミラーズの首輪型人工脳髄などは、この世で最も強固な物質と言っても良く、当然暑熱などはものともしない。

 だが、こういった継続的なダメージで多大なストレスが発生した場合には、内部のデータが苦痛という単一の情報で塗り潰されてしまうことがある。

 彼女を混沌とした闇に任せてしまってはならない。

 ミラーズ、ミラーズ、とリーンズィは必死に呼びかけ続ける。

 そのたびにミラーズは寝言を言うような調子で返事をした。

 その調子です、とユイシスが無声通信を飛ばしてくる。リーンズィは頷いて、言葉を重ねる。


 それにしても、とライトブラウンの少女は視線を逸らそうとした。

 それでもすぐに吸い寄せられる。

 ミラーズがやけに美しく見える。慎ましい胸の膨らみや、なだらかな腰の曲線と、申し訳程度に隠された下腹部。ヴァローナの人格記録媒体のせいだろうか、大粒の汗に彩られたミラーズの肢体に注目してしまう。

 あの地獄のような焦熱の中で、リーンズィの中で何かが確実に変化した。

 退廃の神に魂を売り払った人形師が命と引き換えに彫り込んだ秀麗な眉目は人間離れした美しさを宿したままだが、回復が進み、暑気にあてられて乙女のように顔を赤らめた有様は、酷く生命の輝きを感じさせる。

 己が血を流している時よりもはっきりと鼓動の高鳴りを実感させた。

 汗を含んだ金糸の髪束から豊潤な香りがする……。

 まだ行進聖詠服の留め金を封じていない。抱きしめるだけで軋み音を立ててしまいそうな体が、何の遮りも無くリーンズィに向けて開かれていた。

 炎上する雲の落とす影の中に晒された無防備な姿は扇情的だ。

 しかしリーンズィはその姿を扇情的と認識した自分自身を今更ながら疑う。

 ヴァローナの人工脳髄からのフィードバックか、さもなければ精神外科的心身適応の異常動作だ。


「……ん。ちょっと適応が進んできたかしら。舌が動くようになったみたい。目はよく見えないけど、ふふ、視線は感じますよ、リーンズィ。体が熱くなるのはこの荒野のせい? それとも、あなたの感情のせいかしら。共有ネットワークでそんなに愛を叫ばないで、照れてしまうわ」


 翡翠色の双眸を潤ませ、胸元を隠すようなからかいの素振りをして、少女は囁く。


「……そんなにじっと見て。本当に、あなたもどうかしてしまったのかしら。リーンズィらしくないわ。この熱で、あたしもどうにかなってしまっているけども」


 そして掠れた声で奇妙な韻律の歌を歌い始めた。

 ある程度は意識が回復してきているようだ。


「……その、どういうわけか、君がおそろしく綺麗に見える」

 リーンズィは衒うでもなく囁きを返した。

「お姫様みたいに見える……」


「……無知は財産でしたっけ? お姫様みたい、ですって。シィーにもそう誉められたことがあるらしいですね。ふふ、無知は財産。そうですね……」


 ミラーズは煤けた頬で微笑んだ。

 汚されて尚光輝を喪わないその美貌に、リーンズィは胸騒ぎを覚えた。

 そして、この高貴で、愛らしくて、か弱い少女が、塵に穢されていることが、不意にリーンズィの気に障った。

 緩く癖のついた金髪に指を通す。

 だが、己の指も黒く染まりつつあることに気付いて、躊躇った。

 ミラーズの髪がもっと酷く穢されてしまう気がした。

 そんなリーンズィの思慮を、精緻に読み取ったらしい。

 薄らと微笑むと、大鴉の少女の、普段は不朽結晶に拘束されている長い指の先をそっと口に含んで、塵を舐めとった。

 リーンズィの体がぴくりと震えた。

 ミラーズが自分の指も同じように差し出してくる。リーンズィがその指先を舐め取ると、ミラーズが淡い声を漏らした。

 次にミラーズが舌先を這わせたのは、リーンズィの首筋だ。

 心臓の音がやけに大きく聞こえる……。


『はいはいはいはいはいはいはいはいはいはい、児戯はそこまでです。これ以上は人様に見せるものではありません。ただちに中止してください。当機体の個人的な感情でもそれ以上は看過できません。絶対許しませんので』


 ミラーズと瓜二つの少女、ユイシスのアバターが冷淡な口調で割って入った。

 物理演算を最大にして二つの首輪型人工脳髄にアクセス。

 実体が無いとは思えないほどの干渉力で、強引に二人を引き離した。


『苦しい思いを為た対価は支払い済みの筈です。やめなさいやめなさい、離れて離れて。ミラーズはともかく、時と場所を考えなさいというアルファⅡの忠告を忘れたのですか』


 ユイシスが冷たく二人の脳内物質を操作して無理矢理に交歓の情動を打ち切った。

 アルファⅡとのリンクが再構築されたしく、脳内物質のパラメータが数秒で平常値に戻った。

 甘く痺れるような未知の感覚は波が引くように遠のき、リーンズィは「私は何をしていたのだろう……」と疲れた様子で呟いた。


「ざんねん。続きはまた今度にしましょうね」と蠱惑的にミラーズが微笑する。


「……いつのまにかリンクが復活している。いや、ずっとか。ユイシス、ずっと見物していたのか」


『警告。苦しい思いを耐え抜いたご褒美をあげただけですので。決してミラーズを貴官に譲ったわけではありません。記憶してください、当機は持ち物が少ないので、独占欲が凄いのですよ? このまま貴官がミラーズを求めるなら、戦争になってしまいます』


 瓜二つのユイシスとミラーズが見つめ合う。

 視線を泳がせて言い訳を口にしようとしたミラーズの唇を、穢れない在りし日の偶像が無理矢理に塞ぎ、リーンズィに見せつけるように接吻した。

 現実にはミラーズが一人で皮膚感覚を操作され、神経を刺激されているだけだ。


 リーンズィは無力だった。

 どんな手段を使っても、ミラーズの気を惹くことは不可能だと思い知った。ユイシスは一次元上の世界であの美しい金髪の少女と愛し合っている。

 自分に出来ることは、何もない。


『リーンズィ、これ以上があるとは思わないことです。……あと当機だって、三人分の生命管制を頑張ったのですから、当機をのけ者にするとは遺憾です。重ねて断固抗議します』


 過酷な生命管制処理から解放されたユイシスには、相当度の余剰演算能力が戻ってきているようだ。

 アバターをふわふわと宙に浮かせて、腰に手を当てて不機嫌そうに口を引き結んだ。


『ただ、当機を仲間に加えてくれるというのであれば、やぶさかではありませんよ』


「凄い精神力だ、私の口からはまず出てこないと思う、それ……」

 リーンズィは意図せずして聖詠服を羽織っただけの自分の裸体を隠し、その行為にしばし驚いた。

「あ、そうか。これが恥じらいの感情か」


『この数十分で貴官の精神性はまた変容したようですね。好ましいことです。好ましいことなのでしょうか……。うーん、情動育成のためにさらなる入力実験を……いえいえ、貴官の精神発達度ではここが限界です。そんなことより……前方に未確認生命体を確認。直ちに警戒にあたってください』


 地の果てに奇妙な形をした何者かが三々五々歩いているのを見て、リーンズィもミラーズも身を伏せて息を殺した。

 黒々とした焼灼された大地に朧気な形を残す建造物の隆起の狭間。

 アルファⅡの二連二対のレンズが異物を見る。

 共有された視覚に、リーンズィは戦士の眼差しを宿らせた。

 重外燃機関に火を入れたアルファⅡから斧槍を受取り、臨戦態勢に入る。

 未知の悪性変異体だった。

 一体では無く、群れを成している。それらは例外なく黒焦げて捻れた異形であり落雷に打たれて朽ちた霊樹に似ており細長い手足を枝のようにあちこちにのばしており、不揃いな脚をもつれさせながら塵埃に閉鎖された空に腕を伸ばし只人の目には見えぬ星を掴もうとしてよろめき続けている。

 思い出したように近くの個体に思い切り体をぶつけているのは、攻撃なのか、変種の意思交換なのか。

 アルファⅡとのリンクが再開したというのに、全く解析が出来ない。


「まさか、争っているのか?」


 リーンズィは衣服の胸元を正しながら冷たい眼差しを向けた。

 腰部の蒸気機関に火を入れる。燃料は不足している。どこまでやれるか。


「調停を……私は、彼らを調停しないといけない。私は、私はそう、そのために作られた……だって、それをしないなら、私に価値なんて……」


「でも、そこまで深刻には見えないわよ? じゃれ合ってるみたいに思えます」


『同意します。警告、落ち着いてください、エージェント・リーンズィ。悪性変異体同志が戦闘をすれば、あの程度では済まないはずです。推測……手先に熱源を感知する器官があって、ひたすらにそれを求めて歩き回る個体群。それで偶然進路が重なったとき、ぶつかるのでしょう』


「どのような環境に晒されればそのような個体が発生する……いや、何故あの程度で済むんだろう」


 ミラーズもリーンズィも、この世界の実状は、世界を焼き尽くした暴威の残滓から辛うじて逃れているにすぎないと理解していた。

 人間の手ではもう見ることも触れることも出来ない無限の大宇に存在する恐ろしく巨大な赤く燃える天体に、そう遠くない未来に飲み込まれるのだ。

 雲状生体機械群が何なのかは分からないが、こうして暑熱を遮断するために機能しているにしても、根本解決にはならない。

 朝は朝ではなく、昼は昼ではなく、夜は夜ではない。

 空を覆う雲は世界を焼き尽くしたあとに残された灰なのだと知った。

 ならば、あの凄絶な灼熱の環境に晒されれば、より異常な個体へと変化するはずだ。

 ざざ、とユイシス経由で無線連絡が入った。

 リーンズィは逡巡し、その通話回線を開いた。


「フリアエか? 酷い目に遭った。クヌーズオーエへの接続面はいったいどこに……」


『お嬢様ガタ。言語は通じテイルカ?』


 調子外れの合成音声に面食らう。

 その問いかけを解析するが、敵意は感じられない。


「……うん、通じている。名を聞かせてくれないか?」


『やはり言語体系はふりあえと同じか。コチラは……衛星軌道開発公社セブンス・コンチネントの……システム球殻巡回修復保全係』


 声は淡々と、不可思議なことを告げる。


『コノ太陽系システムの第三エネルギィ受信局の管理を請け負っテイル』

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