聖歌隊の不死者たち②

 結局、たっぷり一二〇秒も経った頃、ようやく自由に動けるまでに回復した。

 重外燃機械に押し潰されそうになりながらよろめいて立ち上がり、血で汚された、数分前までは清閑なる眺望を呈していたであろう白雪の丘を見渡した。

 飛び散った血と肉は赤いスミレの群生地のようでもあり、狂気的な心理学者が生き血でロールシャッハ・テストを行った後のようでもあった。

 アルファⅡの身を包む戦闘服も血まみれだったが、いずれも冷風に晒されて凍り始めるか、蒸発を始めている。

 他の不死病患者から四散し、本体への結合が不可能になった血肉が恒常性から切り離されて綻び始め一挙に蒸発し赤い薄煙が虐殺のあった河の穢れた川霧のように、足元に淡く立ちこめる。


 現実と幻想との境目が曖昧になる景色の中で、アルファⅡの有様は無惨なものだった。

 鏡面の如きフルフェイスのバイザーに映る世界はいびつに歪んでおり、青空に浮かぶ太陽は無遠慮に光を投げかけていて、感覚の全てが余所余所しい。吸引する冷たい空気さえ細かな棘を持った灰のようで、アルファⅡ自身は認識していなかったが、吐き出す息は苦痛に震えていた。

 砲金色のヘルメット、側頭部に刻まれたカドゥケウスの赤い紋章、棺の如き形状の蒸気機関と、左腕部を飲み込んだスチーム・ギアのガントレット、そしてそれらを連結するケーブル類だけが無傷だった。

 多量の出血を補うために、全身至る所で短期の活動には不要な臓器が分解され、造血が推し進められていたものの、なおも続く慢性的な貧血から、直立姿勢を維持するのは困難だった。

 それでも油断なく、血肉の上げる煙の中で背筋を伸ばし、射殺した感染者たちに尚も拳銃を向ける姿は、歴戦の兵士の写し絵ではあるのだろう。

 あるいは、どこか見知らぬ惑星に漂着してしまって途方に暮れている、無力な宇宙飛行士にも似ている。


 アルファⅡは血反吐を飲み下しながらユイシスに問うた。


「彼ら……あの不死者、さっき殺してしまった感染者たちだが……」


『修正を提言。応戦したのは貴官ではなく、当機です。受勲に値する働きだったと自負しています。AI初の勲章受章者には当機を推薦して下さいね』


「それをいうなら私はパープルハートものの献身だったと思うが……全身の肉が焦げてしまった……それで、彼らは再生まで何秒かかる?」

 心臓もしくは脳幹を破壊したはずだ。

 絶対的な致命傷を負って沈黙した兵士たちを見渡して、アルファⅡは冷静だった。

「悪性変異の危険性はどれぐらいある?」


『感染者は不滅ですが、連続性は永久ではありません。心臓や頭部の物理的破壊は極めて大きな意味を持ち、その瞬間には確実な生命の断絶が訪れます。基幹部位を破損すれば、恒常性に著しい混乱が生じて、身体コントロールは一時的ながら完全に失われます。統計上、生命活動に不可欠な部位を破壊された感染者は、支援なしでは復帰に一五〇〇秒の時間を要します。悪性変異の可能性については、継続的に身体への破壊を加えなければ、心配は不要です。ご安心ください』


「何も不安ではない、……が……」


 ユイシスの言葉とは裏腹に、顔面を後頭部まで丸ごと吹き飛ばされたはずの兵士の一人が、長い眠りから覚めたかのように、何気なく身をもたげた。


「……もう一五〇〇秒も経ったか?」


『否定します。生命管制。コンバットモード、スタンバイ。脅威は去っていないようです。この速度での再生は異常です。十分に警戒を』


 アルファⅡは深呼吸をして、己のプシュケ・メディアに記録された非言語的な戦闘ルーチンを起動させた。

 左腕のガントレットを曲げ、胸の位置で固定し、右腕の二の腕を掴んで、不滅の装甲に覆われた左肩を敵に向けた。

 そして腕組みをするようにして、拳銃を握る右手を左腕のガントレットの上に乗せた。


 ガントレットは依託射撃の支台であり、己の心臓を防御するこの世で最も硬い守りだった。

 艦砲射撃であってもこのガントレットだけは破壊できない。


 まさに蘇生し、動き始めた、その不死の兵士を観察する。

 穿たれた穴は、穴自体が傷口に飲み込まれていくという騙し絵じみたプロセスで見る間に再生していった。

 脳幹、眼球、鼻梁。

 失われた一切を再獲得した兵士は、覚束ない足取りで立ち上がり――ここではないどこかに視線を向けながら、不意に叫び始めた。

 乱暴に手足を振り回し、手負の獣じみた絶叫を上げながら、興奮した様子で暴れた。

 そして数秒後に立ち止まった。


 それきり動かなくなった。

 何もかも忘れ果てたといった表情で、凍り付いたかのように停止した。


『感染者の自己凍結を確認。無力化しました』


 他の兵士たちもタイムラグこそあったが、予想外の速度で次々に蘇生した。

 最初の兵士と同様の反応を示し、奇妙な動きで、その場には存在しない何かを、あるいは仲間である筈の兵士をひとしきり威嚇して、途中で電源を抜かれてしまった家電製品のように停止していった。

 中にはむくりと上体を起こし、座り込み、騒ぐでもわめくでもなく、そのまますぐに動かなくなった者もいた。声を上げることも、暴れることも、視線を動かすこともしなかった。

 何千回もこの行程を繰り返した後といった風情だった。


『全目標の自己凍結を確認しました』


「そうか」


 アルファⅡは拳銃をタクティカルベストの胸のホルスターに戻した。

 そして完全に静止した不死の兵士に近づいていった。

 一人の顔の前で手を振る。

 ヘルメットの黒いバイザーに毛穴が映り込むほど接近した。

 攻撃的な動作の兆候はない。


 今後もこのような戦闘がある可能性を考えると、対感染者様拳銃だけでは不足があると感じられた。 余計な刺激を与えないよう、慎重な手つきで、不死の兵士たちの構えていた銃火器を漁り、一番取り回しの良さそうなバトルライフルを拾った。

 バレル下にはボックスマガジン式のショットガンが取り付けられている。

 標準的な形式の、対機械化感染者を念頭において作られたライフルだ。

 外観は古びていたが要所に準不朽構造体が採用されており、動作機構はよく整備されていた。

 どうやら武器の整備と改造を行える設備ないし集団がどこかで活きているらしい、という事実にアルファⅡは思考を巡らせた。


 弾倉内を確認する。残り少ない。自己凍結した兵士たちの武器から弾丸も集めて回ることにした。


 不死の兵士、あるいは兵士として利用されていた感染者たちは、もはや人間的な思考というものが抜け落ちた虚ろな視線を向けてくるだけだ。

 襤褸切れのような戦闘服のポケットを探り、未使用の弾倉を引きずり出して、バトルライフルの薬室に叩き込んだ。

 そしてガントレットを盾と支台にする、腕組みじみた射撃姿勢を取って、自分たちがやってきた丘の向こう側を確認しに行った。

 ヘリが突入した方の斜面だ。


 機体で挽き潰したはずの兵士たちもまた、既に再生を遂げていた。

 四足獣のような動きで雪原を這い回った痕跡があったが、それぞれが思い思いの場所で無事に再生を完遂し、自己凍結状態に陥っていた。

 

 ヘリのローターに切断された聖歌隊の少女の上半身は、ずいぶん遠いところに吹き飛ばされていて、まだ動いているのが見えた。

 皆、まだ生きていた。

 死ねないでいた。

 この地で引き裂かれ、複雑に折れ曲がり、そして完璧に死に絶えているのは、骨組みを剥き出しにした見すぼらしいヘリのみとなった。


『全目標の無力化を確認。敵戦力、沈黙しました』


「……体幹部を破壊されてこの短時間で再生するというのは、信じがたいな。デッド・カウントが100や200ではこうならないはずだ。ただの感染者じゃない」


『元は戦闘用スチーム・ヘッドだったかのかも知れません』


「それが何故こんな粗末なラジオ・ヘッドに成り果てている理由が分からない」


『無意味な検証です』

 ユイシスは淡々と言った。

『かつてどうだったのかは、無意味です。彼らは他の不死病患者と比較して、何ら変わることのない存在です。ただの自己凍結者フロストマンです』


 アルファⅡは射撃姿勢を解いて、兵士たちを見渡した。


 かくして死者たちは再生した。

 新たな命、穢れなき魂のもと、何もかもを忘れ去り、未来永劫立ち尽くすだけの存在へと、本来在るべき姿へと回帰した。


 これが現在の人類の有様だった。

 すなわち、彼らのような有様こそが、不死病に罹患した人間の本来の姿であった。

 不死病には二つの破滅的な性質が備わっているが、その一つが人間を自己凍結者フロストマンに変えてしまうということだ。


 不死病は全ての感染者に、完璧な、どこまでも完璧な肉体を与える。

 感染者は飢えることも乾くことも無くなる。

 そして――自由意志と呼ばれるものが消滅する。


 畢竟、意識とは生命維持に供される器官の一つに過ぎない。

 生命が永遠となったのなら、意識などというものがその存在に介在する余地はない。食欲、性欲、睡眠欲といった三大欲求すら備わらない肉体に、魂などというものは必要ではない。

 無論、究極的な実体は不明ではある。本当に自由意志が無いのか? 魂が無いのか? 外部からは観測できない高度な精神活動が行われているのかも知れないし、魂か何かが分離して世界の終わりまでどこかを彷徨うのかもしれないが、少なくとも脳波は、徐波睡眠に似た状態で安定し、変動しなくなる。

 深い瞑想状態にある修行僧のように、姿勢を固めたまま、指一本動かさなくなる。


 死を超克した存在に、意識などというものは必要ない。

 生命、および自己情報を保存するための活動は、全て無価値となる。

 単体で永続する完璧な生命になるのだから。

 故に不死病の感染者たちは自発的な思考を病によって奪われるのではなく、無用の長物として手放してしまうのだ……それが研究者たちがかつて示した、おおよそ共通する見解である。


 今し方アルファⅡが仮初の死を与え、生体脳から命令情報を揮発させた感染者たちも同様だ。

 外部からの特異な刺激が無い限り、生ける温かな氷像としてその場に留まり続ける。

 あらゆる苦悩、渇望が凍結された彼らは、幸福なのだろう。


 だが、そのような症状を呈する人間が地上を埋め尽くせば、そこに文明と呼べるものは存在しなくなる。

 必要がないからだ。

 生活者のいない都市は空白の箱庭であり、走る意味を失った車両は不格好な鉄の塊であり、伝えるべき言葉を失った手紙は真実ただの紙切れであり、隣人を殺すための凶器は存在理由を失い、神の名を唱える者も物理的に消滅する。

 この不滅の時代に、不滅の疫病の時代、凍てついた楽園の時代に、人間の心だけが存在を許されていない。


「……空軍基地を出る前にレポートを読んだ。十数年後には世界中、どこを見ても、一人残らず不死病を発症して、こういう光景だらけになっているだろうという内容だった。……十数年後というのは、いったいいつから、十数年なんだ? 今は……レポートが書かれてから、何年後なんだ」


『手がかりはあります。スヴィトスラーフ聖歌隊です。彼女たちは何かを知っていることでしょう』


 通常、感染者の『自己凍結』を外部から苦痛なく平穏な形で妨げる手段はないが、何事にも例外はある。

 スヴィトスラーフ聖歌隊の用いる『原初の聖句』がその一つだ。

 原初の聖句は、機械だけでは再現できない。不可思議なことに、それは特異な精神構造と生身の脳髄、特定の肉体のセットによってのみ運用が可能だ。


 そして、聖歌隊が原初の聖句を扱えるということは、スチーム・ヘッドが健全な状態で存在していることをも意味する。

 特異な精神構造を擬似再現する人工脳髄と肉体がともに正常に稼働していなければ、原初の聖句は扱えないのだ。



 視界の片隅に記録映像を呼び出す。

 ゆるやかに波打つ美しい金色の髪をした聖歌隊の少女の姿が提示される。

 記憶領域から再生された、プロペラに轢断される寸前の姿だ。

 アンティーク調の行進聖詠服から覗く肌は息を飲むほど白く、滑らかで、不自然なほどに清い。

 繊細な作りの顔に浮かぶ笑みは晴れやかで、緑色の瞳は目玉ごと抉り出して競売にかければ買い手がつくだろうというほど美しい。

 汚濁という言葉からはほど遠い存在に思える。

 だが、その清純な外見とは裏腹に、美の性質に言い知れぬ退廃の気配がある。


「……冷静に話が出来れば良いが。聖歌隊は世界大戦の引き金を引いた有力な勢力で、狂信者の集まりだ。聖職者の集まりだったという言い方も出来るが。意思疎通が出来ればまずは御の字か。用心しなければ」


『神話の時代、悪魔とは神でした。堕ちた天使たちでした。彼らは果たして、純然たる悪意の具現者だったのでしょうか。あるいは忘れられた聖性の残滓だったのでしょうか。聖邪の区別は当機には不可能です。誰にも不可能でした。貴官の猜疑を肯定します』


「それが出来ないから戦争が始まった。何が良いのか悪いのか、私たちには分からない。この感じだと……終わらせることも出来なくなった」


 丘の先へ戻り、聖歌隊の少女の切断された腰部を探した。

 すぐに見つかった。鮮血のアラベスクの中央点、準不朽素材の繊細な飾りの付いたショーツに、無骨なブーツを身につけただけの、下腹部から下しかない裸の肉体が、断面から零れた腸管をくねらせながら、立ち上がろうとしていた。

 すぐに倒れる。

 また立ち上がろうとする……。

 倒れる、臓物が撒き散らされる、臓物が巻き戻る……。

 そんな古い時代の実験映画かホラー映像のような光景が、繰り返し繰り返し上演されている。


「……思ったより酷いことになっているな」


『刺激的な出会いになりましたね』


「上半身のところに連れて行ってやらないと……しかし裸のままにしておくのは酷な気がしないか?」


『疑義を提示。お互いにスチーム・ヘッドです。性別などの要素は文化的な背景の上にしか存在していません。羞恥心への配慮は不要かと」


「それでも、少しでも心証は良くしておきたいだろう。交渉をするのだから」


 ヘリの残骸の周囲を見渡した。

 コックピットから機外へ捨ててしまった、不朽のナイフを雪の上に発見した。拾ってタクティカルベストの鞘に収めた。

 それからヘリのひしゃげたフレームをねじ曲げて、離陸前に適当なスペースに放り込んでいた布束を、苦労して引っ張り出した。


 広げてみる。

 あれだけの衝撃に晒され、潰されていたにも関わらず、折り目一つ付いていない。


 青い布には、赤い世界地図が描かれている。

 焼き尽くされた世界の地図が。

 その中央に突き立てられたのは、立ち向かうべき敵を見失った愚かな戦士の両刃の剣。

 そしてそれに巻き付く翼ある二匹の蛇……。


 調停防疫局のシンボルをあしらった旗だ。

 ポールは置いてきたため、実際に旗としては使用できない。

 だが不朽結晶連続体で構成された一枚布であり、有用であろうということで持ち出してきたのだ。

 アルファⅡはバトルライフルを準不朽素材のスリングで首から掛けた。

 そして奇怪な動きを繰り返す少女の下半身に歩み寄り、毛布でくるむようにして、その不滅にして絶対の旗で、細く儚げな肉体を包み込み、抱き上げた。

 不朽結晶の繊維の隙間からぼたぼたと血が零れ続けた。


『不朽結晶連続体は極めて貴重な素材です。その旗の製作にいくらの予算が投じられたかご存知ですか?』


「知らないな」


『当時の金銭的価値に換算して、最新鋭戦闘機三機分に匹敵します』


「しかし、戦闘機が、この感染者の裸身を隠してやるのに、何か役に立つか?」


『消極的に同意します。これが、一番良い使い方なのでしょう』


 聖歌隊の不死者、麗しき退廃の少女の上半身は、丘の麓にある森林地帯の傍まで吹き飛ばされている。

 バイザーの下、二連二対のレンズによる視覚を望遠に切り替える。


 映し出された人形めいた金髪の少女の顔に表情らしきものは無い。

 感情が無いのではなく、暗黙のうちに、身を裂く激痛を押し殺している様子だった。

 涙を薄っすらと浮かべていたが、泣くことは堪えている。

 血を吐きながら、ひたすら這いずって、少しずつこちらへ、切り分けられた己の半身へと接近しつつあった。

 傷一つ無いアンティーク・ドレスの下には、当然ながら下半身がない。



 致死量を優に超える出血で雪を溶かし、その姿は腥い血潮の陽炎に包まれて、どこか神性を帯びていた。

 アルファⅡはしばしその姿を眺めた。


 そして、血濡れの旗と、彼女の下半身を抱きかかえたまま、そちらへ歩き始めた。

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