祭礼①

 遠い季節、忘れ去られた時間のどこかに、暴風雨の夜があったらしい。

 教会の天井は抜け落ちていた。降り注ぐ陽光は氷雨のごとく透明で、冷たく清廉に空気を濡らしている。

 腐り果てて落ちた床板と混じり合う土塊、もはや地面とも床とも呼べない無名の虚無に三々五々、路上にぶちまけられて拾う者のいない遺品のように密やかに咲く花弁の、何と鮮やかなことだろう。

 歌声に揺れる紫色の花弁の名前を、もう誰も覚えていない。

 花々の見上げる先には十字架、かつて聖性の不滅を祈念して黄金で鍍金めっきされていた受難と勝利と復活の証は、今は黒く煤け、あるいは曇り、あるいは腐食して、廃工場の片隅に放置された工作機械の部品のごとくすさび、無限大であるべき光輝は去って久しく、不滅の信仰は、その祈りの残骸が残るのみだ。


 教会は遺棄されて久しい。

 さりとて歌声は響く。


 無数の顔、無数の視線、無数の声が、調度品の腐れ果てた聖堂に整列し、不格好な十字架へと祈りを捧げている。

 刑具を模したその象徴が壁に掛けられたのは、ほんの十数分前のことで、白銀の少女が拾い上げるまでは、忘れ去られた罪人の墓標のように、泥濘の中に沈んで、傾いでいた。

 十字架を壁に打ち付けているのは釘ではなく、分解された自動小銃から取り出された部品だったが、そのこと自体には何らの意味もない。

 祭事に相応しい釘も留め金もないが、銃はまだ残されていた。

 それだけの話だった。


 文明は失われて久しい。

 それでも歌声は響く。


 廃教会には歌が満ち溢れていた。神を讃えるための歌が。

 壁際に並び立つ無数の顔。老いたるとうら若き。男と女。敬虔なる無知に基づく純粋な無作為によって選別された顔ぶれ。

 皆一様にどこかを――ここではないどこかを見つめている。


 魂は失われて久しい。

 そうまでしても、祈りは不滅であった。


 軍隊調行進聖詠服ミリタリー・ドレスの少女が一人、聖餐台の前に立っている。

 壁に掲げられた粗悪な十字架を背にして、一心不乱に声を張り上げて、旋律を伴う聖詠を誦経している。

 共鳴する声は渦巻いて、偽りの熱狂を以て神を称え、雷霆の如き賛美で、教会の腐った梁や壁を揺るがした。


 虚無と劫掠ごうりゃくを否定する信仰は、しかし彼ら自身の心を微塵も動かしてはいない。

 歌い手たちの視線はみな虚ろで、どこか一点を注視している。

 何も見てはいない。 

 彼らの祈りに意味はないのだろう。

 もはや意味などこの世界のどこにも残されてはいない。

 だが、祈りであることは確かだ。


 聖詠は、正統なものではなかった。神の御名を戴く如何なる組織もその祈祷に価値を認めない。そもそも荘厳に謳われる文言のただ一説を切り出してみても、言語学的な構造を持った文章としては成立していない。押韻を成立させることだけを目的に、かりそめに生成されたとしか解釈出来ない造語が、難破船の船底に打ち付けられた板きれのように何度も出現して、詠唱の一貫性の致命的な破断を、危ういところで繕っている。

 しかしそれは確かに聖詠であり、それ以外の如何なる語を当てはめることも適切ではなく、いっそ冒涜的であるほどに、祈りに満ち溢れていた。

 あるいは、祈りだけが存在していた。

 人に歌われ、空気を揺らし、誰かの耳に届く。その僅かな時間だけ存在を許される、神を称える以外には何の機能も持たない異形の接触言語。


 聖餐台の前、祈りの歌声の主旋律を奏でる少女は輝きに満ちていて、しかし聖職者と言うよりは異邦の丘へ向かう夜行列車の車掌か、さもなければ時代錯誤な装飾に彩られた鼓笛隊の先導者に似ていた。

 偉大なる存在の証明とその寵愛を証明するに相応しい白銀の髪、冬の空の陰りがちな目映さだけを汲み上げた清廉にして純正なる真実の光輝。

 今にも掻き消えそうな燭台の炎、落ちた屋根から覗き込む寒々しい初春の太陽、打ち砕かれた鏡が乱反射する歪んだ光、その場に存在する光という光に抱かれて、香しく煌めく。

 震える空気に舞う小汚い埃の欠片すら彼女の髪に触れれば白に染まり、天使が送り届けた栄光ある翼の和毛へと変わった。崩落した壁から差し込む光に照らされた顔貌には殆ど非現実的な美貌が備わっていた。スラヴ系の特徴を思わせる顔貌はしかし、実際には如何なる民族の血を引いているのか不確かで、触れるだけで取り返しのつかない傷がついてしまいそうな白い面貌の上には、神秘的な怖気さえ覚えさせる、酷く儚い笑みが浮かんでいた。


 快活に見開かれた瞳は神話の時代、究極的に清浄な海を漂っていたひとかけらの流氷から削り出された宝玉の青さを宿し、罪人ならば一瞥されただけで恥じ入り死を選ぶだろうという程に真っ直ぐに透き通り、潔白な慈愛に満ちあふれており――

 つまり、一切の人間的感情を備えていなかった。

 

 その肉体に魂はない。

 さりとて、祈りはこの地に響く。

 

 この最果ての地に。

 終端の時代に。

 

 神を讃え、ゆるやかにリズムを取り、暗夜の黒に星の如き黄金を散りばめた軍隊調行進聖詠服ミリタリー・ドレスの裾を揺らしていた少女は、ひととき歌うことをやめた。

 己の蒸気機関スチーム・オルガンの始動装置へ優しく接吻した。

 悩ましげに息を送り込む。幕を上げるようにスターティングレバーを引く。機関を始動する……。

 排気孔から粘性の血煙が吹き出したのは一瞬のことだ。

 やがて透明な蒸気が噴き出した。それを確認して鍵盤へと滑らかに指を走らせる。アコーディオンに似た形状の機構の内部を、高熱の蒸気が駆け巡る。

 永遠に朽ちぬことを約束された金属の管が高らかに歌声を上げた。

 サイズに見合わないほどの暴力的な音声が、うらぶれた廃教会に、千年王国の幻影を、在り在りと描き出している。


 それは盲目の神に捧げられた無声の頌歌だった。

 祈りではあるのだろう。

 この最果ての地に捧げられた、祈りではあるのだろう。


 不滅の聖性を体現する白銀の歌い手――。

 その演奏を眺めている麗人が一人。

 ライトブラウンの髪を持つ少女が、興味深そうに目を細める。

 跪いて、身を丸めていたが、背丈は白銀の少女よりも高く、おそらくは同年代の少女よりも幾分か長身だった。

 ある種の潔癖さと従順さを兼ね備えた目鼻立ちは、余分を削ぎ落とされた獰猛な美しさで、余人の知らぬ未明の谷を滑空する大型鳥類を連想させて気高い。

 その勇壮な印象を裏切る線の細い頬に浮かぶのは、慢性の憂鬱だ。


 翡翠色の瞳は、神経質な性格に由来するのであろう思慮深げな天然の陰影に彩られ、背徳的な艶めかしさを漂わせている。

 あるじ亡き戦地を忠実に走る軍用犬か、あるいは孤高の原野を渡る鴉のような気高さに満ちた顔立ちのその少女は、しかし目の前で行われている荘厳な祭礼から、わずか十数秒で興味を失ったようだった。

 物憂げに伏せられた視線に、特段に飽いたような色はない。

 翡翠の瞳はただ他に何か気になることを見つけた様子だった。


 演奏に興じる白銀の少女から渡されていた聖典――正確には聖典の語句らしい文字がデタラメに並べられただけの、劣化の進んだ見すぼらしい藁半紙を眺め、文字を目で追った。

 破綻した言葉で語られる破綻した教義からも注意が離れたようで、今度は藁半紙を裏返しにした。

 気分が移ろったというよりは、見るべきものを全て見たので本の頁をめくったというような、ひどく機械的な反応だった。


 聖典の裏側、すなわち藁半紙の表面――粗末なチラシの本文に目を通した。


 それから、教会を打ち鳴らす聖なる音、聖なる声、神を称える言葉の一切が耳に入っていないという様子で、淡々と音読した。


「ノルウェー国家安全保障局より、チョコレート糖衣青酸カリ最終配布のお知らせ。十分な在庫がありますが、次回の配布は予定されていません。別途自決手段を希望される方は係員にお尋ね下さい。拳銃、神経ガス等少数の用意あり。配布開始、二〇六八年、六月二十三日……午前九時より。皆様、どうかよき終末を。これは、何だ」


 祭礼の空気とはあまりにも似つかわしくない文言が、憂鬱さを讃えた鎮静の繊美な佇まいからかけ離れた、やけに決断的な語調で舌先から紡がれた。


 ライトブラウンの少女は首を傾げ、朗々と語りかける。目には見えぬ何者かに向けて。


「二〇六八年とは、いつだ。私がアイスランドに運び込まれたのが二〇四八年。ならば、今はいったい何年なんだ? 西暦ではない可能性があるのか? ユイシス、解析はまだか? 緯度・経度の正確な測定はまだか? 大規模な極運動の変化が起こった能性はないか? 解析しろ、解析しろ、解析しろ……」


 意にも介さないという様子で魂無き信徒たちは聖詠を続けていたが、銀髪の少女の指は止まり、大聖堂のパイプオルガンもかくやという威厳に満ちた演奏は、ぷっつり途切れてしまった。

 竪琴を弾く聖母のごとき面影は失われ。

 いまや白銀の少女は絶句して、淡い色合いの唇をひくひくと震わせている。

 

「あの、あのですねーっ!」


 思わず、と言った調子で大きな声を出した。

 聖性からはかけ離れた、人なつっこそうな、年相応の少女の声だった。

 がらんどうの、真実朽ち果てたその聖堂に、澄んだ声はよく響いた。


「……それはいけないのではありませんか?! リーンズィ! 」


 リーンズィと呼ばれた少女は、跪いた姿勢からゆっくりと立ち上がると、ライトブラウンの髪を揺らし、まるで分からないという様子で首を傾げた。


「いけない、というのは? 現在の暦を知ろうとする試みは、君たちの教義における禁忌か? この座標を割り出そうとする我々の試みは禁忌か? 何がいけないんだ?」


「おや、おやおや! わたしが、大主教たるこのわたし、リリウムがじきじきに説法しなければ、分かりませんか? まさかまさか! 分かりますね? 分かりますでしょう?!」


 リリウムと名乗る白銀の少女に向けられたのは、無表情な否定だ。


「分からない」


「常識で考えて下さい! 今そういう場面でしたか?! そういう剣呑な、冷酷極まることばを読み上げていいような? たとえば、チョコレート糖衣青酸カリであるだとか! 拳銃だとか! 神経ガスだとか! いいえ、いいえ、いいえ! 百歩お譲りして、聖典をひっくり返したことは、許しましょう。けれども、あまつさえ祭礼とは関係の無い、神の愛を蔑ろにするような文章を音読するなんて、許されると思いますか?!」

 

 ばっ、と両手を広げて、小さく胸を反らし、じっとりとした青の視線を、ライトブラウン髪の少女へと投げかけた。


「これは、祈りの時間なのですよ!」


「しかし、許されないことだろうか? どういった理由で?」

 リーンズィは無表情に応えた。

「祈りは私の状態に関係なく進行するだろう。私が祈らずとも、祈りは存在している。祈りを否定する議論に、私は参画していない。ならば、それは祈りの肯定ではないのか?」


 リーンズィの凜とした顔立ちは、銀髪の少女以上に無国籍的だった。

 死の谷の影を歩む者特有の、どこか穢れた空気が身の回りに渦巻いていたが、絵画の中の聖人にしか現われないような超然とした気配があり――人間味がないという点では、銀髪の少女と全く変わるところはない。


「神を試すべからず、です! いいですか、今回の祈りの主役は、今回、あなたなのです! そのあなたがそのように不信心な態度を取るのは、問題でしょう!」


「そうなのか?」


「そうなのか? ではないです! 嘆かわしいことです! わたしはハリストスの教えをその身に刻んで欲しい一心で、あなたの魂に安らぎあれという心でもって! その聖典を託したというのに……!」


「聖典か。私には史料の一つにしか見えないが」


 リーンズィは腐食の進んだ取るに足らないチラシの表と裏を何度もひっくり返して首を傾げた。


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