赤土の荒野へ①

 無限に連なる反復記号あるいは狂気の切れ端に触れた作曲家の描いた譜面スコアあるいは黒い音符の非現実的な連なり。 暗い森の迷宮は合せ鏡に映じた飾るべき絵画のない画廊のようだ。風切り音の立てる静かな奇想曲は無作為に立ち並ぶ数百数千の木々の狭間を擦り抜けてなだらかな隆起をなぞり戯れとばかりにライトブラウンの髪を撫でる……。

 

 森の中、己らの進行方向に、悪性変異体を、黙契の獣ビーストを見た。

 アルファⅡは反応しなかったが、少女、リーンズィはびくりと震えた。

 斧槍を構え、翠玉の色へと回帰した両の眼を瞬かす。かんばせに緊張をみなぎらせる。息を止める。

 すぐに脱力した。


『視界に捉えた悪性変異体を、症例2号<月の光に吠える者>と判定しました。自己凍結しています』


「先に報告してくれれば良かった」


『不活性化していることが明白だったため、種別の判定を優先しました』


 汗を拭おうとする。これしきのことで汗など永久にかくことはないのだということを思い出す。そして誰が思い出したのだろうと考えた。生前のヴァローナか。さもなければアルファⅡモナルキアに装填された人格記録媒体か。

 ぼんやりと考えている内に何とはなしにアルファⅡに近寄り、そのヘルメットの奇異なる兵士が抱いて運ぶ金色の髪を蓄えた少女の頭へと己の額をすり寄せていた。

 香りを嗅ぐ。甘い花の香りで肺腑が満ちる。肉体を落ち着かせた。我に返った。もちろんユイシスが警告音を発しそうな気配があったので、「む……」と怯んで、すぐにやめた。


『当機の感覚取得のエラーの可能性はありますが、今不埒なことをしていませんでしか?』


「エラーだろう」


『二度目のエラーはありません。ご了承ください』


「ご了承した」


 リーンズィは平然と答えたが、ヴァローナの衝動的な行動は管制が難しかった。そもそも自分の肉体が何をしているのかも正確には理解出来ていない。

 人間としての活動履歴を持たないエージェントに備わっている倫理とは、もっぱら任務遂行に関するものに限られていた。その目録には人間世界の原理原則への詳細な記述が存在しない。

 そのため自分の肉体に生じた衝動から何がもたらされるのかは予測することが出来ない上に、実行するに至っても正常か否かの判別がつかない。解釈は常に事後的なものだった。


『ミラーズ警察はいつでも貴官を見ています、ご注意を。肉体が少女同士であろうとも、相手が貴官であろうとも、あらゆる邪悪からミラーズを保護します。さらに提言。後ほど、嗅覚情報をライブラリに回しますので、情報共有を密にするよう要請します』


「えっ……ご了承しない」


『何故断るのですか?』


 誰かが囁いている……。「さすがに匂いの共有は変態がすぎる」


『行動を実行に移した貴官がそれを言いますか? なるほど、冗談ですか。なるほどなるほど。ユーモアレベルの評価を再修正します。もちろん、当機は貴官の生命管制を司っています。貴官の許可なんて無くても嗅覚情報は取得できるので、当機としてはちっとも困らないのですが』


「知っている、だからこそ君に警告している。推測するに、無断でそれをするのは、私に輪を掛けてちょっと変態っぽいのではないかなと……」


『当機とミラーズの間に壁など無いので問題ありませんよ。ですが、いいえ、いいえ? なるほど、変態っぽいのは事実かもしれませんね。ミラーズも変態っぽい人は嫌だと言っていた気がしますし。好感度を稼ぐためにもここは露骨に許可を取ったりはしないでおくべきですね』


 そういう問題ではない気がしたがリーンズィは敢えて言葉にしなかった。色ボケAIに管制されている自分も本質的には色ボケエージェントなのかもしれないと考えた。

 ともあれユイシスに指摘されたとおり悪性変異体は行動を停止していた。皮膚組織は不朽の暗色、無機的な質感へと変じつつある。安定化が進んでいる証拠だ。

<月の光に吠える者>は悪性変異体としては比較的一般的な形態で、単純な暴力に長時間晒された感染者が変じやすい。見た目は狼人間といったところか。常ならば目に見える全てを引き裂き脳内麻薬が枯渇するまでどこまでも走り続け、排除すべき敵を五感で捕らえられなくなったところで、自然と行動を停止する。

 だが、その個体は自然に沈静化したわけでは無かった。誰かがこの森か、あるいは別の場所でそれを成したようだった。


 というのも、全身を木組みの檻で固定されていたためである。誰かが無力化しなければ悪性変異体を木製の檻に閉じ込めることなど出来ない。

 窮屈な檻の中で、病の狼は沈黙を保っている。黙契の獣などと呼ばれているがその姿は過程であって最期の姿では無い。<月の光吠える者>に限らず程度の重篤でない変異体は危機が去れば――極めて緩慢な速度で――安定化のためのさらなる変異を進める。

 檻は、言うなればその変異の方向性を定めるための添え木である。遠くない未来、この狼に似た悪性変異体も、全身の細胞を完全に安定した状態に変質させるだろう。木の檻に沿って形を変え、いずれ角質化した鎮静の塔が聳えるのみになる。


 変異体と遭遇しても、先導する監視機械のリアクションは淡泊なものだった。

 悪性変異体、黙契の獣、様々な忌名で呼ばれる怪物すら、無害な障害物と認識しているらしく、黙々とそれらの傍らを擦り抜けて終わりのない後退を続ける。

 アルファⅡたちが接近しても、やはり獣は反応を示さなかった。無関心を通していたアルファⅡ本体は、しかしただひととき歩みを止め、ヘルメットの黒い鏡面のバイザーで悪性変異体を見た。

 リーンズィはその視覚に同調した。自分の、ヴァローナの目で直視はしない。というのも、彼女の肉体で捉えようとすると反射的にオーバードライブの起動手順を始めそうになるからだ。それはリーンズィではなく、ヴァローナの肉体に染みついた恐怖の記憶による、避けがたい生理反応だった。

 アルファⅡモナルキアの目に映るのは人狼としか言いようがないねじくれた肉体、その長い上腕を雪面に垂らし、しかし鋸刃の如き指先は何に触れることも許されない。

 人間の面影を僅かばかり残す面相――狼のような外骨格に取り込まれた、人間だった頃の骨格に、知的活動の光は無い。

 そこには苦痛も、怒りも、恐怖も、困惑も無い。ただ空虚だった。呆然と、暗澹たる木漏れ日の空、光零れる虚無の空漠を見上げている。

 名も知らぬ救世主の到来を待つ敬虔なる信徒のように。


 そうした風景はいくらか進む度に何度も現われた。二度、三度と<月の光に吠える者>を見かけた頃には、リーンズィもその肉体も慣れが進んで、全く動揺しなくなっていた。

 ただ気になったのは、獣が現われるごとに森の空気感が希薄になる感触があったことだ。

 鎮静の塔へと変じつつある彼らを境にして、連続するはずの無い無数の時代、無数の土地が、偽りのテクスチャで無理矢理に接合されているような違和感が生じ始めた。


『あるいは、森そのものが彼らが「再生」する過程で増幅された偽りの土地なのかもしれません』とユイシスが所見を述べた。


「再配置ではなく、悪性変異体たちが環境に及ぼした異常だと?」


『再配置との関連性は不明です。しかし、上陸する際に観測した、海岸の環境閉鎖鎮静塔の記録を想起してください。塔によって情報改編された空間が確認されたはずです。同様の事象がこの森林地帯でも生じている可能性があります』


 監視機械は一定の距離を保って後退し続ける。

 正確な現在地は分からない。目指す方位への確信も無い。

 それでも引き返す気にならないのは、帰る道すら分からないという実状もあるが、監視機械の歩みに、あまりにも迷いが無いからだ。

 己らの感覚は信じられなくとも、監視機械の足取りには奇妙な確かさがあった。どこか行き先があるのでなければおかしいという直観が働くほどに。


「機械よ、機械よ、どこへ行く。私たちの狂気が分かって恐ろしいか……」と冗談めかして問うと、監視機械は無線通信で「理解しません」と答えた。


「え?」


『おや』


「質問を入力してください」


 リーンズィはびっくりしてしまった。 


「会話が出来るのか?」


「理解しません」


「自動音声か……」


「あなたは、理解しません」


「何を言ってるんだ?」


「理解しません。これは自動音声です」


 会話が成立しているような錯覚。しかし自動音声であることを疑う理由も無い。リーンズィは首を傾げ、追究をやめた。

 そして、そう言えば通信できるかどうかは一度も試していなかった。もっと早くその可能性に行き着くべきだったと嘆息する。何を問いかけても「理解しません」と繰り返すばかりだっただろうが、敵ではないらしいと判断するための材料になったことだろう。

 

 やがて終わりが来た。

 枝を掴んで監視機械自体を運搬し続けてきたアームが、何も掴めずに空を切った。

 機械は機体全体を盛んに動かし、円筒頭の設けられた単眼を向けて、あちこちを走査していた。

 新しい道、足場に出来る木を探しているようだった。

 枝を掴み損ねては、姿勢を変え、導き手を失った盲目の修道者のように、アームを空中に彷徨わせている。


 事実、その機械の進行を助ける存在は、その先に何も存在していない。

 そこから先には木が存在していない。


 人の手が加えられた痕跡。一定のラインから先にある木は、全て根元から切り倒されている。

 大半は枝葉をつけたまま放置されているが、木材として加工が進められているものも散見される。

 文字通りの『伐採』が進められていた。


 ただし、その広大な伐採の景色は、ある地点で唐突に遮断され、黒々とした手つかずの森へと、再び接続している。

 突拍子も無い、幻のような空白地帯。

 柔らかな陽光を翳らせるものはなく、雪花の死化粧もあちこちで剥げて、枯死した土を晒している。

 僅かに溶け残った積雪も無遠慮な日光の下で形を失いつつあり、淡く立ち上る水蒸気が微風にそよぐ斜幕となって、生命の抉り取られた断層を、慎み深く朧気に揺らしていた。

 そのような帯状の空間が、百メートル程は続いている。


 アルファⅡの黒い鏡像の世界で、監視機械はついに試行を断念した。

 擬装用に張られた獣の皮を撓ませながら、異形の機械は多脚を複雑に連動させながら、鈍間な速度で戻ってきた。

 砲身はこちらを捉えたままだ。


 リーンズィはアルファⅡが胸に抱いている金髪の少女の衣服の、最下段の留め金を外した。

 彼女を預かり、自由になった両足を下に、体をそっと降ろしてそろりと地面に着けた。

 金髪の少女は瞑目したまま雪の大地に二本の脚で降り立った。

 呼吸するたびに衣服の張り付いた胸が上下しなければ、聖なる者に連なる命無き聖母の彫像に見える。

 リーンズィが斧槍の旗を広げているうちに、ミラーズは目を開いた。


 たましいのない翠玉の瞳を監視機械に向けて、目にもとまらない速度で鞘から折れた刀を抜き放って構えた。

 アルファⅡは既に、左腕のガントレットを盾に、ナイフを強く握り、既に格闘戦の構えを見せている。銃は構えていない。リーンズィが構えさせなかった。


「こちらから攻撃はしない」


 凜然とした少女の声が、リーンズィの意思から発された声が、虚ろに響く。


「どこの誰だか知らないが、君たちも攻撃してはいけない……」


 斧槍を差し向けて、調停防疫局の、剣に絡みつく二匹の蛇の旗を掲げる。

 攻撃的態度と見做されるか、降伏と見做されるかの曖昧な境界線。

 果たして――監視機械は、アルファⅡの前で進行を止めた。


 神話の怪物、あるいは神話に現われる天使のような異形を軋ませて、木々の上から単眼でリーンズィたちを見下ろしてきた。

 そして「終点です」と言った。


「終点?」


 リーンズィが怪訝そうに問い返す。

 脳裏で『笑顔です。こういう場面では、愛想を良くした方が有利ですよ』とユイシスが進言してきたので、挑発するような、余裕満面の微笑を作った。

 呆れたような声が聴覚を刺激する。


『良い笑顔です。ただ、愛想は良くないと評価します』


「やぁ、機械くん。終点とは、いったいどういう意味かな?」とヴァローナの人工脳髄の幽かに残っていた生前の参照して声音を作る。「分かるように言わないと、私たちには分からないよ」


『愛想が良くないですが、改善する気が無いのですか?』


「おかしいな、これは愛想が良いモードではないのか? ヴァローナ由来なのだが」


「音声入力を確認……フリアエ?」


 機械の単眼が瞬き、問うてきた。


 誰か囁いている……。

 リーンズィは自分でも分からぬまま、問いに応える。


「フリアエ……? ウラヌスの娘か……? そうか、いや、まさか、君の主人は……この森の先には……」


 リーンズィは己の歯が鳴る音を聞いた。

 そうして理解する。精神外科的心身適応では処置できない恐怖。

 切除不可能な根源的な感情。

 ヴァローナに由来するものでは無い。

 恐怖は、アルファⅡモナルキアから生じていた。


「まさか……まさか……誘い込まれていたのか? そういうことなのか? 最初から……」


「理解しない」

 単眼の監視機械が命じた。

「あなたは理解しない。『エウメニデスの影を恐れたまえ』」


「理解しない」だしぬけに表情を失ってリーンズィが復唱する。「協定に従う符丁の入力を確認。私は理解しない」


 続いてユイシスが『コマンド入力を確認。認識阻害プロトコル、特定条件下で自動適応します』と唱え、リーンズィはふと我に返った。


「何だ……? 私は、何を? 協定? コマンド入力……?」


「あなたは理解しない」単眼の機械がまた同じ音声を発した。


 リーンズィは滑らかな白い喉を晒すようにして首を傾げる。


「……何の話だ? 全く分からないぞ」


『妖艶な動作ですね。しかし性的な挑発は無効ですよ』


「その指摘も今関係ないと思うが……性的だったか?」


「終点です」


 機械は取り合わず、無感情に繰り返した。


「だから、終点とは?」


「理解しません。本機は、当該の鏡像分岐宇宙連続体に仮設置された誘導端末です。本機は質問を理解しません。再度アナウンスします。終点です。本機は、理解しません。あなたは、理解しません。終点です」


 無数のアームが四方へ伸びた。

 少女達が緊張して武器を構えるのを無視して、監視機械は適当な木々の枝を折り、葉を千切り、己の毛皮の裂け目へと飲み込んでいった。

 呑気な所作である。

 ユイシスの熱源解析が正しければ、内部に燃焼機関を備えているらしい。

 まるで食事のようで、実際、単なる燃料の補充だった。

 監視機械はひと心地ついたような素振りで、全身からぷしゅーと生ぬるい蒸気を排出した。

 困惑するリーンズィをよそに、全身を震わせて発電を開始し、胴体部から黒煙を吐いて動かなくなってしまった。

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