カタストロフ・シフト①

『これより最終動作テストを開始する。本工程のクリアを以て、君は名実ともにエージェントとして完成する。エージェントとしての正式登録は、それまで保留となる』


 会話もそこそこに、首輪型人工脳髄に圧縮データが送られてきた。

 しかも勝手に解凍された。

 内容を確認する前に、体が熱感に襲われた。


「何だこのデータは……!? あ、悪性変異体?! 悪性変異体の変異因子?!」


 短い添付メッセージには、『体内に仕込んだ菌株の活動を活性化させた』とある。いつ仕込んだ? 機能停止しているとき? あるいは……もっと以前に?

 リーンズィは蒼白になって席を立った。

 レアは怪訝そうだ。


「え、どうしたの、いきなり。何か言われた?」


「本体から変異を促す因子を送信されている! 名称は……<燃え落ちる街の修道者>?! 何を考えているんだ!? 私ごとクヌーズオーエを滅ぼすつもりなのか!?」


「ふうん。聞いたことないカースド・リザレクターね。どういう性質なの?」


「最悪の存在だ! 発現したら、ただのスチーム・ヘッドでは戦闘にもならない! 都市規模での凍結処理が必要なんだ。私の本体は、私を殺戮兵器に変えるつもりなのか!?」


「確かに変異の数値は上がってるけど……」


 赤い目をぱちぱちと瞬きさせながらレアは首を傾げた。


「実際の変異は全然進んでないわね」


 無線機の向こうで男が告げる。『不活化したデータだ。実際に変異する可能性は極めて低い』


「何故このような危険度の高い因子を! ここには私以外のスチーム・ヘッドもいるんだぞ!」


「落ち着いて落ち着いて」


 激昂するリーンズィに対して、レアの方はむしろ冷静さを維持していた。


「一時的に擬陽性の反応が出るやつでしょ? ターゲットマーカーとかにも使うものよ。そんなに心配するようなデータじゃないはずよ」


「万が一の可能性もある! 二人を巻き込みたくない!」少女は焦っていた。「時間がない、私はここから離脱しないと……」


『健闘を祈る』


 他人事のような自分自身アルファⅡに「私は君なんだぞ!?」と言い返しながら、リーンズィは慌ててマグカップをレアの傍へと放り投げ、脱兎の如くキッチンカーから遠ざかった。

 ふと、お礼を言わないと行けない、という意識が生まれた。

 レアせんぱい、美味しい朝食をありがとう! マスターも……


 声は、しかし出なかった。

 時間が止まったような違和感。

 空気が凍り付いたような。

 そして炎上する七つの眼球が、リーンズィと名付けられた少女を見下ろしているのに気付いた。

 <時の欠片に触れた者>だ。

 それが、触れれば手が当たりそうな位置に、唐突に出現した。

 リーンズィは息を呑んだ。

 心臓が早鐘の如く音を立てる。

 リーンズィに認識可能なのは炎上する七つの眼球だけだったが、それが永久に消えない炎に包まれているコート姿の男であること、二本の脚で立っているということは、非言語的なイメージによって朧気に掴むことが出来た。

 絶対にして不朽の悪性変異体。

 時空間を組み替え、世界を蹂躙し、接ぎ木だらけの回廊を作り上げた超常の怪物。

 それが何故ここに? 私に何の用がある? 

 リーンズィは思考を停止して、自分を見下ろしてくるその七つの目玉を見上げた。

 <時の欠片に触れた者>が少女を見た。

 見られた、と少女は感じた。

 不意に眩暈がした。

 見当識を失い、少女はふらついて瞼を閉じた。

 大地震にでも襲われたかのように足場が覚束ない。

 裏腹に心理は平静だった。

 以前のように取り乱すこともない。リーンズィの擬似人格演算はあくまでも凪いでいた。

 ただ静かに、直感していた。


 、と。


 何が終わったというのだ? と他ならぬリーンズィ自身が問いかける。

 だが、それは既に承知していた。震える肉体は、ベッドの下の怪物に怯える子供に似ている。

 けたたましい鼓動で訴えている。


 


 リーンズィの目は、未だどんな風景も捉えていない。ライトブラウンの髪の少女は、ほんの一時、<時の欠片に触れた者>の前で、眩暈に目を閉じただけだ。

 世界が終わったという、その奇妙な確信を補強するどんな要素も、リーンズィの中には無い。

 だから、頭に浮かんだ言葉は、結局は脈絡の無い思いつきだ。錯覚やノイズと切って捨てることも可能だろう。

 だが、リーンズィは、アルファⅡモナルキアは、魂なき肉体から湧き上がる、そうした理屈の付かない恐怖の感情を、決して無視しない。

 スチーム・ヘッドが取得する感覚で最も重要なのが、不死病患者からもたらされる非論理的な感覚だからだ。肉体の理論上生命を脅かされる可能性が無い不死病患者の肉体が、この不滅の千年王国で能動的に発信する危機感。

 それはどんなセンサーよりも信頼出来る。


 危機が迫っている。

 リーンズィはどうにか膝をつくことだけは避けた。

 頼りない少女の肉体、己自身を抱き竦め、深く息をした。

 背中でも蹴られたような感覚がした。不意に眩暈が止まった。

 リーンズィは翡翠色の瞳を開く。

 痛みを覚え、すぐ目を顰めた。

 視界の様相が先ほどと異なるのは歴然としていた。


 白かった。

 有り体に言えば、眩惑が発生しているのだ。

 いつのまにか日が昇ったのだろうか? 明順応が完了するのを待って、改めて眼球を空へ向けた。

 予想した通り、黎明の紺碧は何処かに消え去った後で、世界は昼の時間帯を迎えているようだった。

 ただ、その昼の光には見覚えが無い。

 怖気を覚えるような光、熔融したあと冷えて固まった鋳鉄の鬱屈とした陽光を照り返すが如き一面の鈍色、曰く言い難い違和感を呼ぶ輝ける奇妙な色彩に満たされていた。

 昼だと解釈したのも間違いかも知れないと、すぐに気付いた。太陽がどこにも見当たらない。代わりに、輝く帯状の発光体が、小刻みに揺れながら空を高速で移動している。


「これがクヌーズオーエの標準的な昼なのか……?」


<時の欠片に触れた者>は姿を消していた。

 何が起きているのか理解が及ばないが、リーンズィは考え得る最大の脅威が去ってくれたことに一つ息を吐いた。

 本体から押し付けられた謎のデータのことを思い出し、自己診断を実行したが、悪性変異体の因子は急速に分解されつつあった。

 レアせんぱいの指摘通り、肉体が変異を起こすような予徴は一つも無い。リーンズィは改めて安堵し、少しずつ息を落ち着かせていく。

 周囲を見渡す。

 見覚えのある影はまだそこにいた。

 レアと、マスターだ。先ほどと全く同じ位置にいる。

 こうした急激な時間帯変動はクヌーズオーエではよくあることなのだろうか?

 脈打つ心臓を抑えながら、問いかける。


「レア先輩、マスター。君たちにも見えただろうか? 今、そこに<時の欠片に触れた者>が……」


 返事は無かった。

 そこには、誰もいなかった。

 命あるものは、存在しなかった。 


 鈍色をした朧気な光の中で、リーンズィは少女の顔貌を混乱と絶望に強張らせた。

 それは、灰の山だった。

 人間の形をしてはいる。

 だが人間ではない。灰で作られた人形。レアとマスターを象った死灰の彫像、犠牲者に沿って作られた火砕流の空白へ灰を注ぎ込んだが如き、等身大のデスマスクとでも表現すべき異物。

 細胞という細胞、繊維という繊維を灰に置換された、かつて衣服を着た人間だった死灰の柱。

 数億年という歳月を掛けて河川が削り出した不毛の地形じみた無彩色の朽ちた彫像であり、灰に朽ちた街に、女の金切り声のような音がする不吉な風が吹くたび、彼女たちの輪郭は身もだえするように波打って、霧に煙る海沿いの街に立つ塩の柱めいて、ぽろぽろと僅かずつ崩れ落ちていく。


 細部の造型が失われつつあるため、本当にレアとマスターなのかは、もはや判然としない。だが、レア先輩と呼ばれて頬を染めていたあの白髪赤目のスチーム・ヘッドに関しては、かなりの確度でその成れの果てだと判断出来た。

 レアの彫像の傍らに浮遊物があったからだ。

 マグカップだ。<沈む街の修道者>の因子が起動する寸前にリーンズィが投げ出したものだと推定できた。やはり灰の塊に置き換えられていたが、その表面には刃物を持ったデフォルメされた兎のレリーフが、薄らと見て取れる。間違いなくレアから借り受けたマグカップだった。

 灰だらけの地面には、まだ辿り着いていない。

 ほころぶように崩壊しながら、空中をゆっくりと、微睡むような早さで極めてゆっくりと下降している。


 風が止むと、レアたちの崩壊もマグカップの下降も、同時に停止した。

 リーンズィは、浅く息をしながら己の両手を見た。

 自身もこのように崩壊しつつあるのではないかと危惧したが、特に変化はない。

 灰に埋め尽くされた世界では、染み一つ無い白い肌がむしろ異様に思えたが、そうではない。


「しっかりしろ、リーンズィ。アルファⅡモナルキア。エージェントアルファⅡ……エージェント・リーンズィ」


 少女はぎゅっと目を瞑って、早口で自分に言い聞かせた。


「大丈夫、何があっても大丈夫……」


 風が吹く。目を開く。状況は変わらない。

 レアたちの崩壊が再開した、という点では悪化している。

 無風状態では静止し、そして僅かでも衝撃を受けると壊れていくようだった。不死病患者と言えど、レアもマスターも、どうすればこの状態から再生させられるのか、リーンズィには想像が付かない。

 不死病患者が突如としてこのような状態に追い込まれる理由も分からなかった。

 不朽結晶連続体で構築されていたマスターのヘルメットが、首ごと灰のアスファルトへ落下した。場違いな異物のように。リーンズィは悲鳴を上げそうになる。何とか助けられないかと方法を探すが、そもそも状況が理解出来ない。理解出来ないなら、何も出来ない。

 でも、何かあるはずだ。何か。何か……。


 観察しているうちに、致命的な事実を見落としていたことに気付いた。


「あ……違う、これは、違う……」


 視線は、緩慢な落下を続けるマグカップに定まる。


「不死病患者だけじゃない……」


 少女は青ざめて、鮮やかな茶色い髪を灰色の風の中に揺らした。

 そうあってほしいと願いながら……紺碧の冷たくも優しい光に包まれた景色を思い描きながら。

 街を振り仰いだ。


 全てが灰と化していた。歪な高層建築物の群れも、立ち並ぶ街灯も、放浪していた不死病患者たちも、ロングキャットグッドナイトが去った後も路上で遊んでいた猫も、区別も容赦も無く燃え尽きていた。

 何もかもが意味も名も持たない無価値な灰の粒へと零落していた。

 目に見える全てが朽ち果てていた。否、とリーンズィは直感する。おそらくこの現象は地平線の彼方、世界の端にまで及んでいる。その想像を肯定するように、両目が急速に熱されていく。

 脳裏にははっきりと、果てまでを灰に変換された地獄が描かれている。

 ヴァローナの瞳に宿っているという『見たいものが見える』という異能には、アルファⅡモナルキアやウンドワートが使用する未来予測演算と似た部分がある。

 観測可能な環境から意識の外にあるべき事象を補完し、予測するのだ。


「何が……<時の欠片に触れた者>は皆をどうしたんだ!?」


 朽ちた世界で唯一色彩を持つことを許された少女は悲鳴を上げていた。

 呼応するかのように強く風が吹き、レアとマスターの残骸が急速に崩壊を始めた。発作的に風から二人を庇おうとしたが、無意味だった。風の流れを塞ぐことなど出来はしない。背中で風を受け止めても、二人の姿が呆気なく崩れていく。レアが自慢していたマグカップがとうとう地面に落ちて破裂してただの煙になった。


 リーンズィは灰の川が流れる地べたへと膝をつき、這いつくばり、吹き流されていく灰を、必死にかき集めて、二人の彫像へ返そうとした。

 しかし一粒も指に留めることは適わない。

 何もかもが徒労だった。何もかもが指先を擦り抜けていく。

 出来ることなど何一つ無い。

 リーンズィは助けを求めて視線を彷徨わせた。

 例えばロングキャットグッドナイトのような祝福に満ちた救い主を求めた。


 そして無意味だと悟った。

 世界に朽ちていない場所など残されていなかった。

 標識も街灯も、もう燃え尽きた後の灰になって、風のせいでぐずぐずに崩れていた。崩れた状態で、しかし風が止んでいる時間が地表に墜落するまでの猶予となり、空間に対して縫い止められている。空中に飛び上がっていた猫もやはり奇妙な灰の塊となり、地面で砕けている。

 建造物という建造物が、溶けたように歪んでいる。風の中に揺れる砂の塔のようでいて、もはや大地に屹立していた頃の面影を思い出せない程だった。

 彼方に見えていたダークタワー、『暗い塔』は永久にその形を残すかと思われたが、それも含めて悉くがその形を忘れ、風に吹かれるまま灰を散らして移ろい、空間へと影を落とすように長く長く尾を引いている。風の音色は末期的な肺病患者の呼吸音に似ていて、その濁った音が通り抜けるたび目に映る灰の塔の群れの輪郭が揺れ、鈍く光る光の波となって、少しずつ吹き散らされていく。

 確かであると信じられるものは、リーンズィの使用する肉体以外には何も無かった。


 少女は灰の風から顔を背け、甘い香りのする己の腕の肌で目鼻を庇った。そして薄目を開けて世界の有様を改めて観察した。頬を撫でる程度の弱い風が吹くだけで、一秒前の姿を保障されているべき世界が、輪郭ごと崩壊していく。マスターもレアも既に相当に崩壊が進んでおり、直前までの姿を記憶していなければ、もうそれが人間であったことさえ分からない。

 三輪バギーもキッチンカーも、錆びるよりも早くうずたかく積もった死灰の塊に置換され、取り残された蒸気機関だけが忘れ去られた墓標のように埋もれている。


 生命、文化、風景。

 命と飛べるもの全てが終わりを迎えていた。


 世界は、終わってしまっていた。

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