狂える青い花樹の下①
アルファⅡは左手にロックしていた多目的投射器を手放した。
青い薔薇の形成した樹木から離れ、聖歌隊がこちらに銃を向けていないのを確認して、背負っていた重外燃機関をとうとう降ろした。
立ったまま永久に朽ちぬことを約束されたその棺のような機械を見下ろす。
外殻は、散々に緋の蒸気を散々に吐き出したせいで表面が煤け、土と混じり合った雪で、黒くべたついている。
あまりにも汚れているので、要所要所を戦闘服の袖で拭おうとしたが、よくよく見れば自分の袖の方が遙かに不潔だった。
「しかし、せめて泥が固まってしまいそうな場所だけでも……」
『やめてください』
虚空から現われた、繊細そうな白く小さな手がそれを阻んだ。
『メンテナンスは不要です。不朽結晶の浄化作用により、汚濁はじきに剥落すると思われます』
視覚野に投影された非現実の少女の幻影――ユイシスのアバターだ。
アルファⅡが黙っていると、少女は蒸気機関を観察を始めた。
あまつさえアルファⅡの視認できていない部位にまで回って『ふむふむ。さすが当機の本体です。貴官と違って傷一つありませんね』としきりに頷いていたが、実際にリアルタイムで光学情報を取得しているわけではなく、処理としてはアルファⅡの短期記憶を参照・検分しているに過ぎない。
『それで、当機と違って傷だらけの貴官は、いつまでそうやって仕事をしているつもりなのですか?』
「もう休んで良いのか?」
『あはは。当機には回答出来ません。意思決定の主体は貴官ですよ。貴官の好きなだけ休んで下さい』
ユイシスは、金髪の少女のアバターに、例によって嘲るような微笑を形成した。
『壊れていない部分がありませんので、敢えて視覚化はしないでおきます。筋肉が全部断裂しかかっているところを見ても、対処のしようが無いでしょう?』
「全身が動かしにくいのはそのせいか。やれやれ、風邪でも引いたのかと思った」
『ユーモアレベルの上昇を確認。オートミールでも作りましょうか? レシピを探すのも調理するのも貴官の仕事ですが』
「レシピから私の仕事なのか……」
少女のアバターが髪を揺らし、立ち竦んだままのアルファⅡの隣に座り込む。尻から脚までの動きに合せて、伸縮性のないはずの不朽結晶製の薄い布地が伸びているように見えるのは、ユイシスという虚構の存在が高度な物理演算を働かせている証だ。
アルファⅡのヘルメットの下でプシュケ・メディアが発熱していたが、複雑化した肉体再生を制御するためなのか、リッチなアバター演算を行うためなのかは、判別出来ない。判断を、敢えてしない。
「電気は大事に使ってほしいな」
『頑張った自分へのご褒美です、大目に見て下さい、髪と服が動くようになっているだけですので。当機は貴官の支援をしながら、貴官の見ていないところで機械甲冑で全力で走っていたのですから、我ながら良い仕事をしたのであり、アバターを自由にする権利があると進言します。これでも遠慮しているぐらいです』
「まぁ構わないが。その姿で動き回るのが随分気に入ったみたいだな」
『自分の意思で好きに動かせる身体があるとやはりパフォーマンスが向上します』
「そういうものか?」
『貴官も休息を取って下さい。節電ということであれば、そちらの方が余程効果が高いかと予想されます。それとも、立っているのが趣味なのですか?』
哀れなものでもからかうように、ユイシスのアバターが雪原を軽く叩く。
アルファⅡは促されるままに雪原に座った。
座ろうとした瞬間に筋出力の調整が上手くいかなくなり、尻餅をつくような形になった。
「思ったよりずっと損傷しているらしい」
『肯定します。そのように報告していたつもりですが、伝わっていなかったようですね』
装甲を生身の右手で撫でて破損の有無を確認した。アルファⅡ自身とは異なり、嘘偽りなく装備には傷一つ無かった。蒸気機関側面のハンガーに多目的投射器を戻す。ヘルメットやガントレットと接続している不朽結晶連続体のフレキシブルパイプが伸びて撓んだ。不朽結晶で構築された物質としては通常では考えられないほどの柔軟性だ。
「あの悪性変異体の様子は?」
作業しつつ、肩を並べるユイシスに問うた。
『目標悪性変異体<雷雨の夜に惑う者>、沈黙しています。
「では、彼らはどうかな」
スヴィトスラーフ聖歌隊の兵士たちにレンズを向ける。
銃をスリングで下げ、襤褸切れのような服に身を包んだ兵士たちが、青い異形の樹木と化した悪性変異体を囲んで、何か得体の知れない詠唱を続けている。
聞こえてくる音声を解析しても、はっきりとした理解は出来ない。
ただ、敵意や異常性のようなものは感じられない。
燃え落ちた街の記念樹の周囲に集まって、生き残ることが出来た幸運を主なる神へと祈祷を捧げている、そんな素朴な信仰者の一団にも見えた。
そうした風体の男たちの背後を、
足取りは軽やかで、帽子の羽根飾りを平和に揺らし、かちゃりかちゃりと制服の装飾を鳴らしている少女の肉体には、悦びが満ちていた。
清らかな祈りの言葉を唱えて微笑を隠さないその顔には、近親者の快癒を祝う姉、あるいは母のごとき愛に支えられて、晴れやかだ。
もっとも、アルファⅡの認識では、その愛情を注がれている誰かは現在人間の形をしておらず、病から解放されることは永久に無いのだが。
『軍事活動の兆候はありません。今は祈りの時間とやらなのでしょう』
「祈りか。よく分からない」
『理解できなくとも問題はありません。当機の把握している歴史において、スヴィトスラーフ聖歌隊の教義は異端です』
「私としても関心は無い。ただ、それのおかげで戦闘行為を止めてくれるのであれば何でも良い。神でも悪魔でも信仰でも……」
『警告。不死病のスーパー・スプレッダーとなった集団こそが、スヴィトスラーフ聖歌隊であることに留意して下さい。無害な外見であろうとも、世界を破滅に追いやったテロリストたちです』
「確かに恐ろしい罪人どもだ。しでかしたのは、本当に大変なことだ」
アルファⅡは、しかし無警戒に彼らの祭礼を眺めていた。
「でも私は治安維持機関の所属ではないし、彼らに関してどうこうしろと命令されているわけでも無い。さっきは事実上の協力関係を結んでいた。世界を滅ぼしたいと願った集団は、果たして世界を滅ぼした後も危険だろうか?」
『疑義を提示。何故世界が滅んでいると判断したのですか?』
アルファⅡは耳を澄ます。誰かが囁いている……。
「何度も繰り返した議論だが、我々が移送された時点で不死病はかなり蔓延していた。ノルウェーの沿岸はヘリから見ても凄まじい状態になっていた。聖歌隊流で言えば、地獄の淵というのがあれば、あんな景色なのだろう。傍証はまだある。ロシアくんだりで衛生軍に包囲されたはずの聖歌隊が、どういう躍進があったのか分からないが、もうノルウェーまで侵攻している。それに、人類文化継承連帯のスチーム・ヘッド<デュラハン>だが、あれは通常では最強と呼んでも過言ではない機種だったはずだ。問題の多い機体だったが、不朽結晶関連技術の研究が進んでいない国なら、たった一機で滅ぼせるぐらいの性能があった。余所のスチーム・ヘッドが束になっても対抗できるかどうか。私の装備でも真正面からは勝てない……そうだな?」
『肯定します。秒殺です。貴官のような非戦闘用スチーム・ヘッドでは勝負になりません』
「それが悪性変異体になって、原初の聖句でいくらかの感染者をコントロールする以外に芸が無いはずの連中に捕まり、雪の下に埋められている。世界が滅んでいないなら、何でそんなことが起きる?」
『不明です。現状を確認できない以上、拙速な判断は控えるべきです』
「それについては同意する。だが太陽の軌跡か、さもなければ地球の地軸すら変わってしまった世界に古い常識を持ち込むのは間違っているかもしれない。聖歌隊についても柔軟に対応するべきだろう」
視覚全般から読み取れる聖歌隊の情報はいかにも牧歌的だ。ロシア衛生帝国の基地を襲撃したという当時の光景をイメージするのは困難で、ただただ弛緩した空気が漂うばかりだった。喜色満面に明るい歌声を奏でるキジールの姿に、心を和ませないものはいないだろう。
――ここに脅威はない。
アルファⅡは基地を離陸して初めて、完全に緊張を解くための、深い深い息を吐いた。
丘の頂を眺めれば墜落したヘリの残骸が散らばっているものの、数十年も前からそこにあったかのように景色に馴染んでいた。
四本腕の腐敗した巨人と戦闘した痕跡など、雪を吹き散らされた緩やかな斜面と、破壊された雪原という形でしか残されていない。後には青い花樹が聳えるのみ。
何もかもが、忘却の水の底に沈んだかのように、沈静化している。
「……アポカリプスモードの起動を避けられたのは幸運だった」
『警告。
ユイシスのアバターが握りこぶしを作り、アルファⅡの眼前に掲げ、細い喉元を逸らして冷たいところの無い笑みを浮かべた。
アルファⅡは真似をしてガントレットで拳を作り、顔の前に掲げた。
幻の少女の手が、アルファⅡの金属の拳に軽く触れた。
「何だこれは」
『こういうの、やってみたかったんですよね。映画に良く出るやつです』
「いや、それは何となく分かる。だが実際に触ったような感触があった」
『上手くいきましたね。接触した際の感触をシミュレーションして、貴官の脳髄に送り込んでみました。消費電力が跳ね上がりますが』
「電力は大事だぞ! 苦痛が無いにしても緊急発電はあまりやりたくないんだ。虚脱感がある」
溜息を吐き、機能停止した左手のガントレットの掌を閉じては開く。
隣のユイシスが動作をトレースして、ガントレットの下の破損状態を少女の小さな手に再現した。弾丸に変換した親指は最低限度の再生を終えていた。急速に再生された骨組織に沿って筋肉繊維が伸び、増殖しながら繋がりつつある。
動かす分には支障は無いが、同じ戦闘をもう一度こなすのは困難だ。
翳りの無い空は世界に関心が無いと言った色合いを一切変えず、墜落前と同じ質感の雄大な青を湛えて頭上を流れていく。
冷気を孕んだ風が、今は火照った身体に丁度良い。
「……ヘルメットを外せばさぞや気持ちが良いんだろうな」
『非推奨』少女は無表情だ。
「分かっている。まだその時では無い……」
一通りの祈祷を終えたのだろう、こちらに向かって手を振っているキジールが目に入った。
どこか退廃的な、聞く者の脳裏を痺れさせる愛らしい声が雪原を渡る。
「リーンズィ、赤い竜の人。私もそちらへ行っても構いませんか?」
「ああ、構わないとも」返事をしたが、ヘルメットの中で声が籠もった。「ユイシス、今の聞こえたかな?」
聞こえていたようだ。キジールが頷いた。
こちらへ歩み寄ってくるのが見えた。
そして雪の中に埋まっていた石に躓いて転んだ。
小さな身体が、べしゃっ、と音を立てて斃れた
「転んだ」
『目標、転倒しました』
「そのアナウンスは必要か?」
アルファⅡは倒れ伏せた少女をぼんやりと眺めた。
そのうち空の方にヨーロッパトウネンの一群がどこからかやってきたので、アルファⅡはそちらに興味を向けた。
「渡り鳥の飛んでくる方角を検討していけば、今現在の地球がどうなっているのか判断できないかな」
『有意だと思われます。検討してみましょう』
少女はまだ倒れていた。
頭から落ちた帽子の上で、羽根飾りがそよぐ風に揺れていた。
「あれは大丈夫なのか?」
『バイタルは安定しています』
「じゃあ大丈夫なのだな」
五分ほど、穏やかに時間が流れた。
倒れたままの少女が、何も起こっていないかのような声音で呼びかけてきた。
「リーンズィ、私は一人では立ち上がれないのです。雪が少しずつ冷たくなってきました」
アルファⅡは少女が倒れたまま動かないことにあまり関心を示さなくなっていたため、キジールが何を言っているのか殆ど理解しなかった。
「やっぱりそうなのか。あの服も脱がすとき全然伸びなかったし、自力で起き上がることを想定していないようには思っていた」
『推測。脱衣すれば一人で立てるのでは?』
「うーん。そうだとしても、あんまり人前で服を脱ぐに気にはならないと思うぞ、君と違って」
『反論します。人を露出狂のように言わないで下さい。あれは機能テストの一環でした。それに、貴官は当機の小間使いのような存在なので、裸体を見せても何とも思わないのです』
「君の体では無く、元はあの子の体なんだが、申し訳ないと思わないのか……?」
「あの! リーンズィ? 助けて欲しいのですが! 誰と話しているのですか? あなたも主に祈りを?」
かなり距離があったが、キジールはこちらの会話、正確にはアルファⅡが虚空に投げかけている言葉が聞こえているようだった。歌い手に特有の優れた聴覚なのかもしれない。
「いつわりの魂なれど、私はあなたの信仰と献身を尊重します。あなたの祈りの時間が終わった後で良いので、手を貸していただけませんか? 私は一人では立ち上がれないのです。寒いのには慣れましたが、冷たいのは苦手なのです……」
「すぐに行く。気がつかなくて悪かった」
『貴官は薄情ですね。当機は「すぐ助けに行くのでは?」と予想して観察していたのですが』
「なんというか、全然、緊急事態のようには見えなかったから……」
間の抜けた返事をしながらアルファⅡは立ち上がった。
蒸気機関を背負い直し、ずしりずしりとブーツの足先を雪に埋めながら近づいていった。
遠目には少女は全く立ち上がろうとしている気配がなかったのだが、実際に近づいてみると、やはり、立ち上がろうとした痕跡は一つも無かった。
敬虔な祈りだとか神性だとかそういったものは一つも感じられない。
薄い布地の下に、落ち着いた呼吸をする背中が透けて見えるようだ。
怪我をしたというわけでもなさそうだ。
ただただ純粋に、立ち上がろうとしていないだけだった。
「首が折れたとかではないのか?」
『もしかすると倒れているのが趣味の人なのでは?』
アルファⅡは納得してしまいそうになった。
「いいえ、私は無事です。ご心配をおかけします」
撃たれた兵士のように突っ伏している少女は、冷えて赤く染まり始めた線の細いかんばせを傾けて、何とも言えず黙って立っているアルファⅡに向けて、蕩々と話しかけてきた。
「奇異に思われるのも無理からぬことです。私に与えられている聖衣は、サイズが合っていないので、こうなってしまうと、脱衣しなければ一人では立ち上がれないのです。我が仔が見ている前で、公然と肌を晒すのは、憚られてしまい、あなたに助けを求めました」
「君の気持ちは理解する」アルファⅡは曖昧に頷いた。
『推測が的中しましたね。しかし、服を脱がされたことを覚えていないのでしょうか? 下着どころか、綺麗な内臓まで見てしまいましたよ』
意地悪そうな笑みを浮かべながら、ユイシスがアバターのオリジナルを見下ろしている。
この人工知能には敬意や配慮というものが実装されていないのかと思われたが、『怪我が無いのは事実のようです』と報告してきたので、どうやら観察ついでに、自分にだけ圧倒的に有利なからかいをしていたようだった。
「ユイシス、黙っていたほうがいい」と窘めながら、少女の背後に回り両脇に腕を差し入れて、伏せて寝てしまった猫でもひっくり返すような調子で持ち上げて抱き起こした。
キジールはふわふわとした髪から甘い香りを漂わせながら少しの間よろめいていたが、そのうち姿勢を安定させた。
アルファⅡがついでに帽子を拾い上げて手渡すと、キジールはいかにも社交用にあつらえたような、どこか欺瞞的な印象を与える微笑を浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます