都市焼却機フリアエ①

 前方で手を振る何者か。その影がゆらゆらと揺れている。

 ただの人間に見える。墓を掘っていただけの……。

 それだというのに、その輪郭は崩落する山の飛沫に映じた影の如く不確かで、捉えどころが無く、幻であるかのようにさえ感じられる。


「えっと、とりあえず会ってみるわよね? 大丈夫?」


『エラー。認知機能がロックされています』


「……ユイシスの敵味方識別が機能していない。敵ではなさそうだが、信用は出来ない」


「信用しても、悪いことばかりではないですよ、リーンズィ。復活の恩寵を受けないまま死ぬことよりも酷いことなんてこの世界には無いんだから。それに、敵意があるのなら、とっくに撃たれたり爆弾が落ちてきたりして、何回か殺されている距離です」


「殺され慣れていると貫禄が違う。だが、あの影が私には恐ろしい」


「リーンズィに怖い物なんてあったの? 黙契の獣と戦える人に、怖い物なんてないと思ってたわ」


 黙契の獣、悪性変異体は脅威ではあるが、未知の存在ではない。平時は能動的に読み出すことが出来ないにせよ、調停防疫局のデータベースは既存の変異体の特徴と対策をほぼ全て網羅している。今までは既知の病変と戦ってきただけだ。

 アルファⅡモナルキアが見も知らぬ脅威に立ち向かったことなど一度も無い。

 リーンズィは甲冑の両手が震えるのを抑えられなかった。


 だが、とリーンズィは己に問いかける。

 仮想したヴァローナの言葉を借りて、自分自身を問い質す。何が怖いんだい? 何も怖いはずがないよ、キジールと初めて出会ったときも、これほどの恐怖は無かったじゃないか。それなのにどうして、君はこれほどに震えているんだい?

 それは(エラー。認知機能がロックされています)

 ――頭に靄がかかったようだった。

 あるいは気付かない内に血栓でも出来て軽度の脳梗塞でも起こしているのかも知れない。不死病患者の肉体にも不調が起こることはある。ましてやスチーム・ヘッドは、頭部に人工脳髄などという異物を挿入して、さらに再生能力を無理矢理抑制しているのだから、時として、そういうトラブルも起こる。


「……あの人の服装、見たことあります。着たこともあるわ。えっと、どういう名前だっけ。確か……」


 近付くにつれて、その人物が奇妙な出で立ちをしているのが明瞭になった。

 二人はそれぞれどうしたものか考えを纏めあぐねて時折顔を見合わせた。リーンズィはそのたびに何かを思いつき、世界の左側を見て、何を考えていたのか忘れた。


 先にアルファⅡ本体が人影のもとに辿り着いた。そのまま通り過ぎて、人影に背を向けて、停止した。両者に会話は起こらなかった。その存在もアルファⅡも、お互いに反応しなかった。

 あたかも無視をするという合意を取り交わした後であるかのようだった。

 ヘルメットの兵士と背中合わせになった墓守は、相も変わらずのんびりと手を振り続けた。


 待ち受けていたのは、殺戮の吹き荒れた古戦場じみた、忌まわしい風の吹く墓場には似つかわしくない可憐な少女だった。

 ミラーズはとうとう思い至ったようだった。


「そう! メイドさんですね、あの服装は!」


 仕える者、という属性が最初に思考に浮かぶ。リーンズィにはその独特の装束に見覚えがある。否、アルファⅡモナルキアのデータベースにまさしく該当する姿がある。

 ああ、確かに少女に見える。確かに、少女のような姿をした何かではあろう。しかし、少女ではない。出し抜けにリーンズィは理解した。 思い出したからだ。あれは筐体だ。量産モデルの。これは全自動戦争そう全自動せん全自動全自エラー、認知機能がロックされています。

 リーンズィは何を考えていたのかを忘れた。


「メイド。メイドか。どうしてこんな荒野にいるのだろう?」


 そして、自分は何を考えていたのだろう? 

 リーンズィは歯噛みした。思考機能に異常が出ているのは感知しているし、対策は進めている。

 頭部に挿入されたままのヴァローナの人工脳髄は、独立した擬似人格を演算するための機械としてはもう役に立たないが、ストレージとして利用することはまだ可能だ。一時的に視覚データをその領域へと配置して保護する。その程度の操作はユイシスの支援が無くても実行出来るし、実行済みだった。

 この『私』を襲う異常の正体は? リーンズィは避難させていたデータを確認し、理解した。エラー。認知機能がロックされています。

 リーンズィは何を考えていたのかを忘れた。


 我に返り、ぼんやりと墓穴掘りの少女を見つめた。

 そうしているうちに自身の異常を思い出し、人工脳髄内部で実行指示リストを作成。同時に参照可能な範囲の行動ログを確認する。


「対象の来歴を意識しただけで、記憶を削除されるのか……?」


 深く思考してはならない、という一文を実行指示リストに書き加える。

 言語化の許されない特殊な危機が起こっていることだけが確かだ。


 ともかく、今、向き合うべきは、眼前の得体の知れないラジオ・ヘッドだった。ラジオ・ヘッド? とリーンズィは己の思考を疑った。何故彼女がスチーム・ヘッドではないと分かる? それは(エラー。認知機能がロックされています)

 歩きながら硬直と覚醒を繰り返すリーンズィのことなど知らぬ様子で、彼女は気さくに話しかけてきた。


「やぁ、久々のお客様だね。歓迎するよ。僕の名前は……」


「フリ……アエ……」リーンズィの声は譫言じみていた。


「おや、どこかで会ったことがあったかな。でも改めて挨拶をするね。僕はフリアエ。この終わってしまった世界で、つまらない墓守をしている、無力な機械の一台さ」


 少女はスカートの両端を持ち上げて、しずしずと頭を下げた。

 それは、有機的ではない、という意味で、極めて整った顔立ちをしていた。殆ど左右対称の細面に、人間の直観、美しさの受容体に直裁に訴えかける、ただ言葉を交すだけで相手に歓喜を呼び起こすアルカイック・スマイル。ヴィクトリア朝の給仕服を模した衣服で身を包んでいる。

 シニヨンに纏められた黒髪の上で純白のヘッドプリムが揺れる。

 ヘッドホンのような形状の装飾具は、おそらく人工脳髄だろう。

 本人の自称通りなら機械なのだろうが、不死病患者を使ったスチーム・ヘッド、もしくはラジオ・ヘッドだとリーンズィは判断する。

 この不滅の時代で真に不滅でいられるのは、不死病患者の人間と不朽結晶を除けば、ごく僅かでしか無いからだ。

 ……その『ごく僅か』な存在である、という可能性は考慮しない。

 考慮した途端、思考ログが破棄され、数秒の空白が生じたからだ。


「やあ、どうかしたのかな? 挨拶されたら、挨拶するのがマナーだよ。違うのかな? 違うなら、僕はどうすれば良いと思う? 何をすると思う? 酷い顔色だよ、何か良くないものでも見えるのかい?」


 少女のような姿をした何かは、嘲笑うように問うた。その顔も、嘲笑うような仕草も、見覚えがある……。

 そうだ、少女のような姿をした――何かだ。スチーム・ヘッド。ラジオ・ヘッド。違う。そんなものではない。リーンズィは息を飲む。ヴァローナの肉体を擬似的な他者として配置し、己自身に問いかける、何故『何か』だと思うんだい? 直後に思考を止める。いや、これでは袋小路だ。外部化した仮想自我まで封じられるとループに囚われる可能性がある。

 予想される禁止事項のリストを確認し、それ以上の追及を自分の意志で停止する。

 分からない、分からないままで良い。

 何かは分からない。

 少女のような姿をした何かであることだけは分かる。

 何かは分からなくて構わない……。

 分かっては、いけない。


「ああ、見る間に血を吐いて死んでしまいそうな、哀れな姿をしているよ。まるで亡霊だ。亡霊。君たちは、亡霊なのかな? 君たちは、いったいどこの亡霊かな?」


 いかにも親しげで、まだ距離があるというのにその声はあたかも囁くように耳をくすぐり、編み目を透る水の如くに思考の隙間に浸透していく。

 眩暈がするほど適切に出力された言葉は魔を宿す。そのように精密に演算されて打ち出された声だと分かっていなければ、リーンズィも魅了されていただろう。

 おそらく原初の聖句に近い性質がある。そのものかもしれない。

 だが、誰何に応じることが出来ない。肉体どころか首輪型人工脳髄もオーバーフローを起こしかけている。恐怖と警戒とを抑えるためにほぼ全ての演算能力が投じられているのだ

 その事実に気付いた時点ででリーンズィは混乱した。演算能力のほぼ全てが? ありえない、情動を管制しているだけでそれほどのリソースを消費するわけが無い。ありえるとすれば、それはエラー。認知機能をロックします。

 リーンズィは我に返り、何があり得ないんだ? 私は何を考えていたんだ? と小さく首を傾げた。


「あはは。どうしたんだい? 首を傾げたりして。言葉が通じていない? でも僕の名前を知っていたね。君は、何をしているのかな? 君は、僕を知らないふりをしているのかな。その可愛らしい仕草は、何を意味するのかな」


 墓を掘っていたスコップを片手に、給仕服の少女はリーンズィの所作を誇張して真似て、おそろしく蠱惑的に振る舞ってみせた。露骨な挑発にリーンズィはまたも怯んだ。メイド姿の少女は人間のように見える。客観的にはそう理解できるのに、肉体の直観はそれに反している。

 感情がまるで掴み取れない。比喩ではなくリーンズィという擬似人格が「目前の人間には感情が無い」と判定を下している。

 頼みの綱のユイシスもエラーを表示するばかりで、一向に解析を行おうとしない。


 何もかもが未知で、危機的だ。

 リーンズィは寸時押し黙って、標的(エラー。認知機能をロックします)

 リーンズィは寸時押し黙って、目の前の少女を観察した。

 全体的に線の細い肉体だ。スチーム・ヘッドだとしても然程の戦闘能力は無い。無害極まる。そのはずだった。しかし何か違和感がある。具体的な可能性は思考しない。リストを確認する。この短時間で何度ログを消去された?


 何がこうまで自分を惑わせているのか。

 思考を外観的特徴に絞る。まずは服装だった。給仕。メイド。仕える者……。

 荒野で墓を掘るメイドというのが、まず理解できない。

 仕えるものであるのだからメイド服を着させられているんだよ、と検証用に仮構したヴァローナの声が解釈する。だがその知識の由来を問うのは避けた。

 それに、土にまみれて作業をしていたはずなのに、着衣のどこにも汚れと呼べるものが無い。膝丈で切り詰められたスカートの下から覗く、白いストッキングにさえ染み一つ無かった。

 いずれの衣装も不朽結晶ではないようだったが、この不滅と凍結の時代にあっては、丹念に洗われてアイロンをかけられた直後のような、その清潔さが却って異質だった。


 視線を彷徨わせるリーンズィにミラーズが問いかけてくる。


「リーンズィ? どうしたの? 見とれているの? 綺麗なメイドさんですね……まさかああいう大人しくて冷静そうで、スタイルの良い人に弱いのですか?」


 緊張を緩和するために発せられているらしいミラーズの声にさえ反応できない。

 リーンズィは己の神経が極限まで張り詰めているのを自覚する。サイコ・サージカル・アジャストは、連鎖崩壊式人格演算を阻害しない限界のレベルで連続作動していた。

 二人がろくに答えないのを見てか、墓守の給仕は全く同じ調子で、新たな言葉を紡いだ。


「聞こえないのかな。それとも、僕の言うことが分からないかな? 本物の亡霊だというなら、それは、面白い話だね。亡霊に対して、僕たちは、どうすればいいと思う? 何をすると思う? どうなるか試してみたいと言うのならば、そのまま黙っていても良いよ。僕は掃除も得意なんだ。メイドさんだからね。綺麗にするのがとても得意なんだ。どれぐらい得意か知ってるかな。知りたいのかな? 知りたい?」


 愉快そうに笑みを浮かべる。

 愉快そうではない。

 何も分からない。

 愉快そうに笑みを浮かべる……。


 ミラーズはと言えば、二人のどこか剣呑な遣り取りに戸惑った様子だった。

 フリアエを名乗るメイドと、恐ろしい怪物に遭遇したような顔色のリーンズィを交互に見て、インバネスコートの裾を引いた。


「ねぇ、どうしたの。あなたが私の主なのです。返事をするのはリーンズィの役割だと思いますが、どうしたのですか。応えないでいるのは、失礼ですよ。何か事情があるのなら、私が代わりに答えましょうか?」


「あ、ああ」リーンズィは頷いた。「対応を……依頼する……不具合だ。人工脳髄にエラーが……」


「そっか、ユイシスも調子が悪そうだし、リーンズィは支援AIがないとちゃんと動けないのでしたね。気が回らなかった私の落ち度ですね。大丈夫です、私が礼節を持って対応してあげますから、リーンズィはゆっくりしていて。怖いことなんて何もありませんよ」


 ミラーズは咳払いをして、帽子を脱いで胸に抱き、深々と頭を下げた。

 そして、歌い上げるように言葉を紡ぐ。


「こんにちは、墓守の方。私たちは亡霊ではありませんよ。私たちには肉も骨もあります。あなたの善き隣人です。私は、名をミラーズと申します。こちらの琥珀色の髪の娘はリーンズィです」


 その言葉は奇妙な抑揚の節回しで構成されていた。

 ところどころに言語学的に全く意味の無い音が含まれており、それが『原初の聖句』を使用した結果だと分かったのは、ヴァローナの肉体から過度の緊張が消えたからだ。

 行動をコントロールしない程度の、再生や安定化を促進するようなごく弱い聖句を組み込んでいたようだった。

 メイド姿の少女は、満足そうに首肯した。


「やぁ、小さなお客様たち。やっと挨拶をしてくれたね。名前を交換するのは大事だ。名前を交換しなければ、僕たちは敵同士だからね」


「お戯れを。私たちは、決してあなたを傷つけたりはしません。あなたが私たちを傷つけたりしないのと同様に、です。互いに重荷を分かち合いなさいと聖書にも書かれています」


「そうかい? 君は綺麗な声をしているね。でも、その麗しい言葉で人を操ろうとするのは、悪ではないかな。原初の聖句なんて小細工は僕たちには通じないよ」


 無機質な殺意の剣先を、ミラーズは意にも介さず微笑んでいなす。


「原初の聖句をご存知なのですね。大変失礼しました。ただ、それも我が子にして我があるじ、このリーンズィを労ってのことです。永く森に囚われて、疲れ果てた私を抱いて歩いてくださいました。そのせいか、たましいに倦怠が這い寄っているのです。それを取り除くために、癒やしの力を込めて言葉を届けたのです。けして、あなたの気持ちを害するつもりで唱えた言葉ではありません。どうか、寛大な心で、私たちを、あなたの善き隣人のままでいさせてください」


「そう? 君は可愛いね。隣人は良い。僕たちも隣人は好きだよ。不死病の感染者が疲れるだなんて、あり得ないことだけど、君は可愛いからね。可愛いというのは、やっぱりとても強いことだ。信じても良いような気分になってしまうね。僕もそれを目的にして『仕える者』の肉体を操っているのだけど」


「……そうだ。我々も、君と同じ不死病患者だ」


 リーンズィがやっとのことで、もつれる舌を落ち着かせ、甲冑の両の手の平を見せながら、静かにいらえた。


「どこの亡霊か、とは奇妙なことを言う。亡霊などいるはずがない。一人残らず死ねない時代だ」


「あはは、そうだね。調停防疫局の君は、とても正しい。正しくて冷たいぐらいだ。刃物みたいに冷たいよ」少女は乾いた笑いを笑った。「その通り、いまどきの亡霊は健康体だからね。肉や骨があるぐらいじゃ、証明にはならないんだ。エンジンが付いてて、頭には機械の脳髄。それがあって初めて亡霊じゃなくなる」


 黒髪のメイドはヘッドドレスをめくって、恥じらうような、見る者の気を引き付けるような仕草で、己の頭蓋に食い込む金属端子を見せる。

 手を離して端子を隠しながら、虚構じみた美貌で艶然と微笑んだ。


「まぁ僕はただのラジオ・ヘッド遠隔操作式簡易脳髄なんだけどね。僕たちの魂はこの体にはないんだ、ごめんね、この世界のどこにもそんなものはないんだ。二人は何だろう? 君たちも、変わり種のラジオ・ヘッドかな? リーンズィだっけ、君なら分かる?」


「おおかたはその通りだ。変種のラジオ・ヘッドと解釈してもらっても良い」


 ライトブラウンの髪を神経質そうに触りながら、少女は頷いた。そんなに触ったら髪が傷んでしまうよ、という内心の声は無視する。どうせ再生する肉体だ。


「……我々はアルファⅡと呼ばれるスチーム・ヘッド機関式高性能人工脳髄に属している。それぞれが人格としてある程度独立しているが、みな調停防疫局のエージェントだ。そして君たちと敵対する気はない」


「君たちというのは、誰かな?」


「それは……」エラー。認知機能をロックします。「……? すまない、聞き取れなかった」


「そう。そう、そう、そう。僕たちと防疫局との協定は、まだ有効と言うことだね! 事情は把握したよ。僕は君を知ってるよ。君が僕の名前を知っていたようにね。僕たちにも争う気は無い。だって、戦争って嫌だよね。戦争は嫌い、分かるよ。嫌いだよね? 僕の端末名はフリアエ。とは言え、(エラー。認知機能をロックします)の一機だから、僕一人がフリアエというわけじゃないけど、それにしたって、戦争を嫌う存在の一つであることには、間違いが無いよ。ねぇ、。君たちは戦争が好き?」


 違和感を感じる前にミラーズが何か音を発した。フリアエを名乗る少女へと頭を下げた。原初の聖句を原初の聖句で打ち消したらしい、ということだけが辛うじて理解出来る。


「……回答を持たない」リーンズィはやや逡巡して回答した。「戦争を愛そうが憎もうが、それは、そういうものだ。いつの世にも存在する。だが、可能なら何もかもを止めたい」


「そう。うんうん、僕たちの知っている調停防疫局らしい傲慢さだね」

 黒髪の少女は微笑のまま頷いた。そのたびに冠の如きホワイトブリムが赤黒い陽の光を反射して、禍々しく燃え上がった。

「そういう態度をしてくれると僕たちとしてもやりやすいよ。……君たちの本体は随分古い設計をしてるね。君たち二人は黙っていたって、眩しいぐらい綺麗だけど、そこのヘルメットの機体は、本当に亡霊に見えるよ。それならいっそ、見えない方が良いんじゃないかな。見えなくしてあげようか? 透明に出来ると思うよ、僕たちなら。この忌々しい兵器をね。君たちの存続は僕たちが保証する。どうしてほしい? どうしたい?」


 荒野の彼方から雄叫びのような轟音が聞こえた気がして、リーンズィは不滅の衣服の下で肌を泡立たせた。認識をロックされる前に「左側にある何か」の存在を意識から外し、その気配だけに注意を分散させた。

 攻撃の予徴は無い。攻撃の予徴は無い……。

 攻撃? いったい何の話だい? 仮想したヴァローナからの補正を頼りに、リーンズィは現在の思考を辛うじて繋ぎ止める。


「不快な思いをさせたらなら、申し訳なく思う。だが、みすぼらしく見えても、忌々しく見えても、彼には替えの服が無いだけなんだ。いずれ新しい装備を見つけるつもりだ。どうか見過ごして欲しい」


「あはは。冗談だよ。見過ごすも何も無い。無いんだ。何もする意図はないよ。僕たちは願いを叶える機械だからね。僕たちの意思だけで、君たち相手に、そんなことはしない。だって、戦争になってしまうからね。戦争だけは避けないとね。ただ、とても古い時代の機体みたいだから、嬉しくなってしまったんだ。僕たちと同等の機体だからこそ、こうして冗談も言い合える。うん、ただ古いだけじゃ無いのも、分かっているんだよ? 僕たちと君たちは、同じ血統みたいなものだから」


 ミラーズが目を見開いた。


「では、あなたは、アルファⅡの仲間なのですか? あなたも調停防疫局のエージェント……?」


 金色の髪の少女は、状況を飲み込んでいるのかいないのか、社交的に微笑んだまま、極めて平静な態度を維持していた。淫蕩と退廃の気配を押さえ込んだミラーズの身振り手振りは、明確にかつて一つの集団を率いたことのある人間の、確たる感覚に基づいていた。

 当時の記憶は薄いはずだが、対話のための態度が、肉体のレベルで染みついているのだろう。


「もしかすると、そうと言えるかも知れないね。ある年代、ある場所においては」


「そうなのだとしたら、あなたは私のお姉様ですね。私はエージェント・ミラーズです。お初にお目に掛かります、エージェント・フリアエ。経緯を持って、あなたを愛します」


「そうそう、照会したけど、君はスヴィトスラーフ聖歌隊じゃなくて、調停防疫局のエージェントなんだって?」フリアエは嘲笑った。「しかもアルファⅡモナルキア直属のエージェント。でも、さっきのはルカによる福音書になぞらえて答えていたよね。亡霊だとか血だとか肉だとか。僕の知っているアルファⅡモナルキアならそんなことはしないよ。君は誰で何なのかな?」


「私は、エージェント・ミラーズです。かつてはキジールと名乗っていました。それより古い名前は、覚えていません。……ルカによる福音書については、貴方様と初めて会ったとき、私はそういう含みのある問いかけを頂いたと思って、会話に取り込んだのですが、違いましたか?」


「違っていないよ。なるほど、なるほど。あはは、これは傑作だね。さっきの原初の聖句もそうだし、レーゲントとしての機能がまだ残っているんだね、とても希少なケースだ。じゃあ、もしかして教会についても詳しいのかな? 教会のことも知っているのかな? 教会について詳しいなら、聞きたいことがあるんだ」


「いいえ、詳しくはないはずです。私はスヴィトスラーフ聖歌隊のレーゲントの、その残響エコーに過ぎません。だから、固有の知識の殆どは失われていて……ああ、でも、教会はこの状態でもきっと好きです。教会が、どこかにあるのですか?」


「うん。ほら、僕の右手側にあるよ。君から見て、左側さ」


「見るな。駄目だ」エラー。認知機能がロックされています。「何が駄目なんだ……?」


 ミラーズは左側を見た。


「ねぇ君、見えるものを教えてくれる?」


 黒髪の少女の口が、密やかに残酷な笑みを湛えた。

 ミラーズは少し考えて、余裕のある微少で応じた。


「……とても大きな……何でしょうか、岩か、山?」


 

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