最初の導き手①

「君は殺害されることを望んでいるのだな。要請は理解した」

 リーンズィは少女から視線を離さない。優しく後ろ髪を撫でてやりながら尋ねた。

「ただ、一つ聞かせて欲しい。この世界が滅びかけているのは、君のせいなのか?」


「この世界が、滅びかけている?」

 少女は身を離し、目を細めた。

「どうして今、世界の話をするのですか? 天使様。私のせいで、この世界が滅びかけていると? 貴女の目にも、私が、それほどの邪悪に見えるのですか。私が真に神の御名により呪われた人であると、そう仰りたいのですか?」


「いや。そうではない。そうではないのだが……」


 怯懦と絶望が綯い交ぜになったその視線に、リーンズィは少しの間たじろいだ。

 それはあるいはリーンズィという意識が、生命に限りがある人間を初めて見たが故に生じた感情かもしれない。

 眼前の少女の肉体に付着した老廃物や血液が、体組織によって分解される兆しがない。彼女が不死病に感染していない、純正の人間である証拠だ。

 だからこそ、触れることが恐ろしい。


 スチーム・ヘッドの不浄にして不朽の肉体には、あらゆる物理的な辛苦を克服する力がある。

 だが不死病患者には、魂がない。

 滅ぶべしと定められた者の魂が無い。

 スチーム・ヘッドは人間のように歩き人間のように語る。しかしその魂は演算された紛い物である。形骸の魂魄、形骸の思想、形骸の吐息、形骸の、形骸の……。

 魂なき言葉には力が無い。リーンズィの、一際に幼い模造品の魂は、生きた心に触れるための指先を持たない。ましてや、死の運命と直面した人間に、どうして触れることが出来ようか。

 生身の人間はあまりにも脆く、穢れており、追い詰められている。これこそが人間の本来あるべき姿だというのに、冷たい大気よりも、悪性変異体の放つ殺意よりも、ただその有様が、リーンズィの心胆を寒からしめる。

 やり直しがきかない生命。

 真実、一回性の命。

 どの未来にも続かない道に立たされた、腐れて消える運命にある儚い肉。


 こんなもの、こんな柔らかいもの、私はどうすればいい?

 内心で救いを求めて誰かに呟く。

 こうした滅亡の渦に飲み込まれた生身の人間を、ただありのまま救う手段を、調停防疫局の全権代理人たるリーンズィは記憶していない。あるいはユイシスならば、あの統合支援AIを名乗る何者かであれば、もっと上手くやれたのだろうか。

 いいや、私だけだ。ここには私しかいないのだ、とリーンズィの虚ろな脳髄に嘆きの声が木霊する。

 死体の山を見よ。ああ、その人を見よ。その人の、生存に濁った瞳に映る、お前自身を見よ。お前はただ一人、肉と声を持って、彼女の前で呼吸をしている。

 お前だけが生きている。お前だけが……。

 お前だけが不滅である。


「……順を追って説明する」


 言いながら、内心で己の声に反駁する。説明している時間など無いと。いつ<時の欠片に触れた者>による送還が始まるとも知れないのだ。もっと直裁に救ってやるための言葉があるはずだった。

 ただ、慰めの言葉を知らないリーンズィにとって、理路を示す以外に、これから己の死と対面する少女を救う手段が無い。


「まず、私が訪れることが出来る場所は……非常に限定されている。君にとってはショックかも知れないが……私が転送されてくる場所というのは、終わりかけた、さもなければもう終わってしまった、そんな世界だけなんだ。この世界も例外ではないと思う」


「終わってしまった世界……?」


「君や、外で銃撃戦をしている人々が残っているにせよ、これまでの法則に従うなら、どのようにしてか、この世界はもうすぐ終わる。分かるだろうか……分かる、かな? ありかたとして、閉じてしまうんだ。可能性の外側に出てしまう……枝がそこで途切れてしまう」


 リーンズィは己の弁舌があまりに拙いことに癇癪を起こしそうになったが、擬似的な精神外科的心身適応によって表面上の自制を保った。

 言葉を連ねるしかないのだ。リーンズィはあまりにも幼稚で、世界を知らず、進むべき道を知らない。「あちらへ向かえ」と指差して告げるためだけに、長い時間を要する。時間は限られている。それでも、これ以外にやり方を知らない。

 かつてエージェント・シィーがそうしてくれたように。今のリーンズィには、彼の考えていたことが、少しだけ分かる。


 リーンズィの言葉があまりにも突拍子が無く聞こえたのだろう。

 少女は困惑して、ふるふると首を振った。


「……この都市の外側には、もう誰も残っていないというのですか?」


「断定は出来ない。でも推測は出来る。そもそも、この世界で今、何が起きている? 分かるか? 分かるかな?」


「ああ……天使様、戦争が起きているのです。私も全てを知るわけではありません。ただ、伝え聞くところによると、世界中で核兵器が使用されて……」


「核兵器というと、高高度核戦争なのだな」

 リーンズィは平静を保ちながら頷いた。

「我々が知る限り、多くの世界で発生した事象だ。遙か上空で核兵器が炸裂し、EMPが……電磁波の嵐が降り注いだのだな。そうして皆が混乱している間に、疫病や戦乱が起こった。そういうことか……そういうこと?」


「いいえ、天使様」少女はゆるゆると首を振った。「空の上で起きたことでは、決してないのです。核兵器はまさしく、わたくしたちの頭上から、地へと降り注ぎ、突き立てられた炎の剣となり、多くの都市を、人を、営みを焼き尽くしまいました……」


「何だと!?」


 リーンズィは殆ど悲鳴のような声を上げて立ち上がった。

 銀色の髪をした少女が怯えて尻餅をついたのを見て、どうにか精神活動を安定させた。

 腰を落とし、少女と目線を合わせ、エージェントは震える声で問いかける。


「……待ってほしい。待って。待って……今、何と言った? 都市が……都市が、核兵器に焼かれた?」


「は、はい。核兵器が落ちてきた、と聞いています。私も、この目で見たわけではありません。見ていないからこそ、まだ生きているのですが」


「核兵器が……?」


 聖歌隊の肉体を借りたエージェントは、唖然として、その証言を受け止めた。リーンズィは、絶望の淵に立たされた少女よりも、あるいは強く動揺していた。

 不死病患者であるが故に体調に変化は無かったが、定命の肉体であるならば失神していたかも知れない。

 沸騰した生体脳が、混乱する人工脳髄から情報を次々に取り出して、自身の意識さえ無視して言葉を並べていく。


「……地上で? 都市部で爆発した? 核兵器が? 核兵器が、真剣に戦略攻撃に使用されたのか? ありえない。その可能性だけは常に回避し続けてきたはずなのに。世界同時多発テロ? それなら分かるが。いや分からない。その可能性すら検討には値しない」


「い、いいえ、天使様。大国同士が火の矢で核兵器を飛ばしたのです。報復核攻撃というのでしたか、そういうことがあったのです」


「ありえない、ありえない、ありえない」


 リーンズィの否定は譫言のようだった。

 実際に、譫言めいていた。

 何故ならば、これは実体化した悪夢に他ならないからだ。


「あってはならない。核兵器は明確に危険だった。破壊力が過度に過ぎた。望まれた死を運ばなかった。人類の手に余る兵器だった。だから二重に防護を施していた。政治的緊張も技術的発展も常に監視して、無制限の核戦争など起こらないように調停を行ってきた。常にだ。核兵器が誕生したその時から、我々は細心の注意を払ってその未来を回避してきた……不完全な私の記憶にさえ、それが刻まれている」


「天使様……?」


 最初はただリーンズィに縋るばかりだった少女も、異変に気付いたのだろう、汚辱に塗れ、痩せ細った我が身を省みず、どこか気遣わしげな面持ちになっている。

 リーンズィはふらりと立ち上がり、窓枠によりかかり、蒼白の顔で窓外を見渡した。

 重く伸し掛かる灰色の雲に閉ざされて太陽は朧げにしかその姿を示さない。

 風は灰の臭気を孕んで苦い。

 塵埃の鈍色に染まる路上に、生き物の姿はどこにも見当たらない。

 死体、死体、死体、死体。死して目覚める者はない。

 街路樹さえも枯れ果てて久しく、散らす葉の一枚も残っていない。


「核兵器ごときが……人類を……この世界の我々は、何をしていたのだ……」


 ライトブラウンの髪の少女は喘ぐように息をして、ぎゅっと目を瞑った。

 散発的に聞こえる銃声も、今やどこか、遠く聞こえる。生体脳が無分別に神経を発火させて、意識を介在しない疑問を吐き出していく。

 何故こうなってしまったのか?

 緊急時の修正プランが実行されていない理由は?

 こうなって何年経った世界なのか?

 この世界の我々は……何をしていた?

 しかし、我々とは?


「我々とは誰だ?」我に返り、呟く。「私たちは……調停防疫局は、望まれない明日を遠ざけるために、疫病と戦っていたのではないのか……?」


 いずれにせよ、分岐点は手が届かない位置にあった。

 もう取り返しがつかない。引き返しようがない。リーンズィの転移がそれを暗示していた。<時の欠片に触れた者>は危険な悪性変異体の追放先に、必ず滅亡した世界を選定する。

 つまり、この世界にどのような悪性変異体が出現しても問題ないのだ。

 もう滅びるから。

 人類が、物理的にいなくなるから。

 不死病の蔓延すらもう起こらないから……。


 リーンズィは観念して、死に果てた都市を眺めた。

 何が転移してきても、この世界の行く末は決まっている。

 人類は滅びる。

 それで、終わり。


「そう……ありえないんだ」

 冷えてきた首輪型人工脳髄を指先で叩き、必要な情報を、内容を限定されたデータベースから読み込む。

「大陸間弾道弾にせよ戦術核にせよ、我々が普及させた迎撃装置の前には無力なはずだ。実体迎撃弾、磁気収束共振、電子撹乱膜……どうであれ、世界中を焼き尽くしてしまうはずがない。核兵器なんかで……人類が……そうか」


 緑色の瞳をまたたかせる。


「それは、私がいた時代の技術水準の話なのだろう」


 ようやく一つの納得を得て、リーンズィは戸惑うばかりの少女に向き直った。


「今は西暦で何年だ?」


「え……っと、最後にカレンダーを見た時は、1970年でした」


「まだ、二〇世紀なのか。時期からして第一次冷戦期……ミサイル迎撃などまともに出来るはずも無い。ここは、低劣な兵器をコントロール出来なかったせいで終わる世界なのか。この世界の我々は……そんな早い段階で失敗してしまったのか」


 広がる灰色の街は、まさしくリーンズィにも見慣れたクヌーズオーエである。

 両手の指で窓を作り、聞こえてくる銃声を頼りに射撃位置や交戦中の人数を割り出す。

 赤く変色し始めた瞳を凝らして「見たいもの」を探す。

 求めたのは、命だ。

 ヴァローナの瞳とて万能ではない。不死病の性質を利用した未知のメカニズムではあったが、所詮は人間の生体脳の余剰リソースと時制感覚に依存した機能に過ぎない。

 だからこそリーンズィは確信を持って測定した。

 この都市に残されている命の数を。


 それらは鈍い輝きの形をしていた。屋根の吹き飛ばされた廃屋、二度と走ることのない車、遺言なく放棄されたせいで誰も処理できないままでいる死体の山。そういったものを透かして、まだ終わっていない命をリーンズィは眼差しで捉えた。

 両手で数える程しかない命たち。

 一つ、二つ、三つ、四つ……銃声が響くたびに消えていく。

 そして都市の外側には何も無い。

 何も、無い。

 愁いを帯びた瞳には何も映らない。

 リーンズィは悟った。

 この都市の外側には、本当に一つの命も存在していない。


「天使様?」


「私は天使ではない」


「何を見ておられるのですか?」


「分からない」ライトブラウンの髪を揺らして首を振る。「何を見ているのだろう?」


 ヴァローナの瞳に映る一切は、リーンズィが「見たい」と望んだものに過ぎない。所詮は幻覚だ、という思いは僅かにある。

 だが、今この目に見えている彼らこそが、今まさにこの地上から消え去ろうとしている人類だと確信できる。

 僅かな生存者たちが、何のためにこの終末的破局で戦闘を続行しているのかは、定かでない。

 だが理由を考える必要性がない。

 戦闘を停止させる手段はない。

 よしんば停戦させたところで、彼ら全員の手を引いてどこかへ連れて行くことは出来ない。たかが数名を種籾にして、人類という集団を再興させることなど出来ないのだから。『この先』は存在しない。ここが彼らの終点だった。

 やがて爆音が轟いた。

 呆気ないほどあっさりと、いくつかの命が見えなくなった。

 最後に、終止符でも打つように銃声が聞こえて、それきりだった。

 金切り声のような風の音が響く。

 それ以外には何も聞こえない。

 何も見えない。

 ひとりも、生きていない。

 リーンズィはあまりの静けさに身震いした。

 永遠に変わることの無い、標本のような破滅に恐怖した。


「天使様?」


「終わった」リーンズィは呻いた。「終わってしまった」


「終わったというのは?」


「人類が絶滅した……」


「まさか、そんなはずは……」


「君が、この世界で最後に遺された人類だ。ここはもう、核兵器の濫用と無秩序な戦乱によって終わってしまった。未知の疫病や怪物の出現は無く、己らが生み出した単なる技術に飲み込まれて、そこから先へ進めなかった。そういう世界なのだろう……」


 リーンズィは悲しげに目を伏せながら、再び少女の前に腰を下ろし、そっと少女を抱き寄せて、耳元で囁いた。


「君のせいで傷つく誰かはもう存在しない。皆いなくなってしまったからだ。何があったにせよ、君に落ち度は無かった。あるいは……何も意味がなかった。絶滅という結末へ落ちるまでにある、些細な分流の一つだった。世界は滅ぶべくして滅び、あらゆるヒトは、選択の余地無く、死という滝壺に落ちて行った。それでもまだ君は、贖うために殺されることを望むのか?」


「天使様、天使様が仰っていることを、疑いはしません、でも、それでも……」

 少女は寸時躊躇い、口にした。

「わたくしは、呪われています。わたくしを傷つけた人々に、血への渇きと狂気を、報復の争いをもたらすのです。わたくしが呪いによって命を破滅させてきたことは、罪です。裁かれるべきです」


「私は裁くことを望んでいない。神でも天使でも無い。君もまた、悪魔でも鬼でも無い。私の世界ではありふれた、単なるヒトに過ぎない」


「人の肉を、食べました。血に狂って死んだ人の肉を、飢えて、獣のように食らいました」


「私は獣を知っている」

 おそるべき悪性変異体たちの暴虐に比べれば、少女の所行は野良犬未満だ。ロングキャットグッドナイトの連れていた猫たちを思い浮かべる。もしかすると猫未満かもしれない。

「君は獣ではない。単なるヒトに過ぎない。緊急避難による人肉食を咎めることは私には出来ない」


「違うのです。わたくしは、真に罪深き者の末裔なのです!」


「絶対的な罪は存在しない。そもそも、全人類が絶滅した今、相対的に君には何の罪もない」リーンズィは首を振った。「君が死ぬ必要も、君が裁かれる必要も、ここにはもう残っていない。君は生きていても良い。何の責任も無いのだから」


「それでは……さらにおぞましいものをご覧に入れます」


 少女は切迫した様子で立ち上がった。

 リーンズィが警戒しながら観察していると、躊躇いがちに右手の五指を折り、目を瞑り、残っていた窓硝子へと手を打ち付けた。

 砕けた破片が、華奢な手指の皮を剥がし、肉を削ぎ、幾つかの血管を切断した。


「っ……」

 少女は苦痛に顔を歪めながら、ズタズタになった己の手をリーンズィへ晒した。

「これが、これこそが真に呪われた命である証です!」


 見るも無惨に裂けた手が、歩くような速度で、静かに修復されていく。

 雲の向こうにある太陽と月も、これほどまでに遅くは動かないだろう。神経系が繋ぎ合わされ、繊維状に解けた肉が蜘蛛の糸が宙を舞うかの如くゆるやかに接合され、滑らかな肌が溶け合って再生していく。

 一分足らずで、血まみれであること以外は、破壊の痕跡も遺さず元通りになった。

 リーンズィは一部始終を黙って見届け、彼女の正体を理解した。

 同時に、時間感覚を意識して、<時の欠片が触れた者>が現れてもおかしくない時間が経過していることを確認する。

 それなのに、退去の兆候は何も見受けられない。


「そうなのか……そうなの、蒼い炎の人? 君は、私をここに運んだのだな。別の仕事をさせるために……」


「おぞましいでしょう。この力のせいで、簡単には、死ぬことさえままならないのです」少女は嘆いた。「わたしくしは、摂理に反した存在なのです。他者に呪いを振りまくくせに、自分が傷つけば、たちどころにそれを治してしまう。そしてその力が、わたくしを食らえば病が治ると惑わせる……。わたくしは……人の皮を被った悪魔なのです。吸血鬼なのです。このような血筋のものは、世界広しと言えどもわたくしだけです。この力こそが、わたくしが悪魔であるという証……」


「いいや。それもやはり、君に責任がないという証だ」

 リーンズィは目を伏せて首を振った。

「私は君を知っている。意識できないが、生まれる前から知っているのだろう。基礎的なデータベースを参照しただけで理解できる。君は、ただのヒトだ。……我々が過去に作成した人造生命、カイン型スーパーキャリアのテストモデルの一人だ」

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