街道を進む巨人の肩で①
巨人の肩の上は中々に見晴らしが良好だった。
ライトブラウンの髪を梳かす風は、霜が渡る草原の寵愛を受けて冷たく暖められ、耳の端を撫でて微熱のような情愛までも彼方へと連れ去っていく。数日ぶりの明瞭な脳髄。それが酷く可笑しくて、心地よくて、アルファⅡモナルキアのサブエージェント、リーンズィは、ようやく馴染み始めた少女の肉体で、静かに歌を口ずさむ。
「ふろーいで、しぇーね、げってーふんけん……」
巨人の歩みに合せて、インバネスコート型の突撃聖詠服の裾が羽ばたくように広がる。少女の愛らしい柔和さと少年のような凜々しさが同居するアンビバレントな美貌。背丈に恵まれており、毅然として佇んでいればただそれだけでシネマ・コンプレックスの壁に飾られる宣伝広告になるだろう。
左手で巨人の右肩に設けられたハンドルに掴まる姿は、さながら森の番人を止まり木に選んだ、大神が気紛れに使わした大鴉のようだ。ただし少女に思考はなく、記憶は無く、神はなく、魂は首に嵌められた金属環の人工脳髄に与えられた紛い物に過ぎない。
火照った肉体に寄り添った、純粋なよろこびの感情だけが本物だった。
視界の端に、首輪型人工脳髄に、ミラーズからのメッセージが届いた。
> 歌うときはね、遠くへ、どこか遠くにいる人のところに届くようにって思いながら、お腹を使って声を出すの。
ミラーズ、その原型となったキジールには識字能力が無い。
それ故に、どのような内容であれ、メッセージが届いたのならば、それは巨人の左肩に掴まったヘルメットの兵士、アルファⅡモナルキア本体が翻訳した言葉にすぎない。
だが、あの麗しい少女から自分に向けられた言葉だということ、ただそれだけでリーンズィは歓喜を覚える。
言われるがまま、声を伸びやかに導こうとする。
辿々しい口調で精一杯歌いながら、朝露に濡れる自由な甲冑の右手で己の唇をそっとなぞる。凍てついた冬の湖が指先にあるかのような冷感。氷色の透明なルージュが自分が微笑んでいることを教えてくれる。
何もかもが美しく見えた。
ヘカトンケイルを名乗るスチーム・ヘッドの少女に生体脳を弄くられ、脳内麻薬を過剰に放出させられた影響にすぎなかったが、リーンズィの目に映る風景の素晴らしさを否定することは誰にも出来ない。
厳かな木々の連なりは、雪を傘にして夜を過ごし、ついに訪れた朝を言祝ぐ修道者のよう。
幾重にも続く枝葉の群れ、その変化に乏しい色合いさえも氷柱の冠で朝日の輝きを照り返し世界に光ある無声の賛歌を響かせている。
氷面の化粧の下で煌めくのは時の移ろう狭間の色彩であり生と死の間に葉を揺らす赤錆びた葉は何故にそのように色づくのか愛すべき歓喜の新しい命の始まりに仄かに色づいたのかあるいは古い命を手放すときの美に身を任せ穏やかに枯れつつあるのか。
春の先触れとも冬の訪いとも知れぬ森林地帯を突っ切るようにして作られた街道には無数の足跡や轍が作られていて、ずっと進んだ先には確かに人の営みがあるのだと知れた。
冷たい冬の風景が、こんなにも、息づいてキラキラと光って見える。
「びゃーべとれーてん、ふぉいえーる、とぅるけん……」
肺腑を膨らませていた気体が、口元を過ぎるなり、かつて明け方に見た淡い夢のような白息となって早朝の雪原へと消えていく。音程は未だに取れないままで、きっと本来の肉体の持ち主であるヴァローナは恥ずかしがって嫌がるだろうということがリーンズィには分かる。
それでもこの歓喜を声として世界に響かせたくて仕方ない。
なるほど、気分が良いとはこういうことなのだ、とリーンズィは自身の歌声が弾んでいる事実から推察する。
ずしん、ずしんという足音に掻き消される少女の声に、他ならぬリーンズィ自身が聞き入っている。
がくん。
巨人の歩みと発声が重なる。
舌を噛みそうになったので、リーンズィはその研ぎ澄まされた思考能力を駆使して、一瞬だけ歌うのをやめた。
「ん、よし。……とぅるんけん、ひむり、しぇーだいん……」
事件の発生を無視して危険行動を続行しようとした少女の耳に、仮想の警笛の音が届く。
『警告します。よし、ではないです』
ふわふわとした金色の髪を翼のように靡かせながら中空に現われたのは、ユイシスのアバターだ。
キジール譲りのあどけなくも端正な顔を、どうしようもないものを憐れむのような呆れの一色に染めて、呼びかけてくる。
『神経活性を取得。脳内麻薬がまだ抜けきっていませんね。あのヤブ・スチーム・ヘッドにはさらに抗議が必要でしょう』
「助けてもらった身分だ、生体脳や肉体をいじられてもあまり文句は言えない」
『否定。当然に言えます。彼女の使っている医療用義脳は明らかに不必要な影響を貴官に与えています。衝動的な行動が生じる事情については理解します。しかし舌部を損傷する危険性が高まっていますので、歌唱の中断を強く推奨します』
「大丈夫。大丈夫だ。今のままなら、きっとずっと歌い続けられ」ずしん。「ぅああ……!」
舌が噛み切られた。抑揚のない呻き声と共に口から血が零れた。
破損した舌部の細胞組織が解けて繊維化し、即座に破損部位を修復させる。
口元を汚した血を、リーンズィの人格らしからぬ艶やかな仕草でぺろりと舐め取り、ユイシスへ笑いかけた。
『媚びた仕草をしても無意味です。ストライクゾーンから外れていますので』
「そんなに媚びた動きをしていたかな」
そうしている間にも視界が揺れる。体が乱暴に揺さぶられる。
ぷしゅー、と巨人の背中の排気管から、駆動用の蒸気流の一部が放出される音がする。
ヴァローナの肉体が取っ手に掴まっている巨人、一機の継承連帯製蒸気甲冑は、二本の足で歩行している。
歩兵役の機体とセットで行動するようには設計されているのだろう、巨人にはパペット・デサント(甲冑跨乗)用の設備こそ用意されているものの、衝撃吸収装置のような大層なものは積んでいない。
人間の五倍ほどの背丈がある蒸気甲冑が歩けば、頂上付近の震動は凄まじいものになる。
生命管制のおかげで三半規管に影響は出ていないし、がくんがくんと頭が上下する感覚に対しては、予め少女の肉体の方が適応を完了させていた。
通常の活動については何の問題もない。
だが、発声と舌の動きと腹膜の活動、そして体外で他の機体が発生させる不随意の震動とを上手く同期させられるほど、リーンズィの首輪型人工脳髄は高性能ではなかった。
『この状況で歌うのは推奨出来ません」
「さっきは噛んでしまった。でも、もう大丈夫だ。そもそもユイシスが不用意に話しかけてきたせいで噛んだのでは?」
『いいえ。どのように思考しても、貴官が警告に従わなかったせいかと』
「そういうものか?」揺さぶられながら、いつもの癖で首を傾げる。
『それ以外のなにものでもないかと。あと、いくら使用している素体の顔かたちが良くても、当機のツボをついたつもりで子供のように首を傾げても、判定は変わりませんので、ご留意を。当機はもっと小さな少女が好みなので。あとその仕草は出し惜しみしましょう。価値が下がります。加えて警告しますが、口元を血で汚損している状態では、全てのアピールに猟奇性が付与されてマイナス補正がかかりますので注意してください。現在の姿はこんなこのような具合です』
ユイシスのアバターが切り替わり、ライトブラウンの髪をした少女が虚空に現われる。口が揮発しきらない血で染まっているため、現在の姿ではゾンビ映画のポスターにしかならない。
「しかし、『気分が良い』ので、歌いたいのだ。うん、気分が良い。気分が良いのは、とても良い。気分の良いことは、続けるべきでは」
『貴官は良いかもしれませんが、移動に協力してくれているスチーム・パペットから苦情が出ているのですよ』
金髪の少女へとアバターを戻し、ユイシスが溜息のモーションを実行する。
『舌を噛まれるとぎょっとするので、せめて鼻歌に留めて欲しい、とのことです』
「苦情が……。そうか……下手だからダメなのだろうか……」
しゅんとんしたリーンズィに反応したのか、慌てたような弱ったような、何とも頼りない男の声が脳裏に響いた。
『いやいや、そうじゃないんですよ。本当にそういうのじゃないんで。お願いしますよ、舌を噛まれたりすると心臓に悪いもんで』
リーンズィを肩に乗せてくれているスチーム・パペット、ポーキュパイン068からの無線通信だ。
『聖歌隊の人らが歌ってるのを邪魔するのは、俺としても気まずいんですがね、でもまぁこれ、要人護送みたいなもんですから、攻略拠点に着いたとき、もしリーンズィさんが血まみれになってたりすると、俺も軍団長になんて言い訳したらいいのか……だいたいね、そこ、落ちたら危ないんですよ、せめてミラーズさんと同じように、手の上に乗ってもらえませんかね』
「しかし、ミラーズが眠っている。邪魔は出来ない」
ヴァローナは表情を曇らせて即答した。
ポーキュパイン068が本来武器を握るべき両手は、現在は寝息を立てるミラーズを乗せる寝台になってしまっている。
『起こすのは無理なんで? スチーム・ヘッドは眠らないでしょう』
「うん。でも休息させないといけない。私のために、移植用の臓器を無理矢理新造したせいで、身体が疲弊しているんだ。その上色々と、術後の問題解消のための手伝いをしてくれた。今は回復に努めさせている。やっと休息に入れたんだ。邪魔をしたくはない」
『いや、しかしですね、疲れるのは俺も同じなんですよ。
言いながらヘッドパーツをぐりぐりと動かして、十数機のセンサーパーツを取り付けられた顔と思しき部分を向けてくる。
『こんなデカい体を無理矢理自分の身体と定義して運用してるわけじゃないですか。熟れたトマトの皮ぐらいのメンタルでして。あなたみたいなケルビム・ウェポン積んでるバクダンみたいな機体を運んでるだけでも結構ピリピリするんですよ』
巨人の頭部に突き立てられた偏光体光学素子群が、一斉に輝きの向きを変え、左肩の取っ手に掴まったアルファⅡモナルキアを横目で確認する。
ヘルメットとガントレット、そして棺のごとき重外燃機関を装備したアルファⅡモナルキア本体は、冬の森で死に絶えた昆虫のような有様で張り付いてて、ぴくりとも動かない。
衣服は継承連帯製の準不朽素材の迷彩服に取り替えられて清潔で、姿勢にしてもリーンズィとそう大差は無い。
だが、ポーキュパイン068は、見るのも恐ろしいといった具合にすぐ視線を外した。
『その上皆さん方の身の安全も危ないとなると、胃が痛くなってしょうがない。痛むような胃なんてもんは、とうに無いわけないですが。慣用句ですね。とにかくリーンズィさん。どうかどうか、頼みますよ』
「うん。気持ちは分かる、と私は考える。私も体がまだ妙に熱くて、困っている。この上に何かトラブルがあったら、とても困ってしまうだろう。そういう状態を泣いている子供にムチというのだったか」
『リーンズィ、泣き面に蜂では?』ユイシスは仮想身体の背中から『減点です』とだけ書かれた看板を取り出した。『そのような低品質なギャグではユーモアレベルの評価は上げられませんよ。ポーキュパイン068へ謝罪します。ケルビム・ウェポンというのが何かは当機らには理解できませんが、アルファⅡモナルキアと関係していることは推測できます。心労は甚大なものなのでしょう』
『いやぁ、そのうち上のもんから説明あると思うんですが、機密扱いのマジで危ない兵器なんで。俺は暴発に慣れてますんで言うほどじゃないですがね。三回は生体CPUの全身欠損を食らいましたかね……それで発狂もしてませんし……人工脳髄の強度を買われて皆さんの運搬役を任されてるんでして、まぁ俺に関してはそこまで気にしてもらわなくても』
スチーム・パペットほどの兵器を容易に狂わせるらしいケルビム・ウェポンというのが、リーンズィには分からない。
全身を不朽結晶連続体の装甲に包んだ巨人は、事実上無敵の存在だ。存在を崩壊させるための手管は幾つか思いつくが、物理的な致命打を与えられるような兵器は、今もかすかにノイズに茹だった少女の脳髄では、とても思いつかない。
これほどの兵器が何故小間使いのような仕事をしているのかは謎だった。
この集団の行動目的も分からない。ユイシスの方でも情報収集もあまり進んでいない。
教会はある種の治療施設であり、様々なスチーム・ヘッドが集まっていた。情報を収集するには最適な場所だったはずだ。
しかし、過酷な臓器交換手術を終えたリーンズィの介抱と人工脳髄の調整に、モナルキアやミラーズも含めて三日三晩かかりきりになってしまった。
そして、ある程度快復した今日には、急に出立となった。
不吉を呼び寄せる言葉であるかのようで、ユイシスは強大な悪性変異体の一種では無いかと推測している。
唯一確実な情報として把握できたのは、この地方に展開している人類文化継承連帯と、スヴィトスラーフ聖歌隊、その合同軍が、『クヌーズオーエ解放軍』を称揚しているらしいということだ。
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