第二十四番攻略拠点 門前①
巨人の手に揺られながら、リーンズィは終始不機嫌だった。
とても『歓喜の歌』など口ずさめる心持ちでは無かった。精神のどこにも、善なる衝動や、何か嬉しいことを書き込むべき余白は存在しなかった。
丁寧に整えられた、不死病によってもはや永久に変化することのない眉根を寄せる。
むくれた頬を傾けて、不機嫌な猫が毛繕いでもするように、艶めく耳元の髪束を、落ち着かない様子で撫でている。
その背後に跪くのは、ヘルメットの兵士だ。
装甲された腕でリーンズィの首輪型人工脳髄を掴み、給電と接触回線による重点的な再生支援を行っている最中だった。
首の鉄輪を掴まれて、軽く持ち上げられているリーンズィは、さながらご主人様に首輪を掴まれて、ひょいと持ち上げられた子猫のようであった。
リーンズィが使用している肉体も、その年代の少女としてはおそらく背が高い方だが、アルファⅡモナルキアの兵士としての巨躯には劣る。リーンズィには、それも気に入らないのだった。
どこまでも我が儘で、小生意気な猫であった。されるがままにされつつ、しかし確たる意思で以て、ぷいと顔を背けて、自分のあるじと向き合うことを拒否している。
「私は、負けてなんていないのだ……」
唇を尖らせながら、虹彩の赤がようやく退色を始めた瞳で、己の右腕に目を落とす。
「さらにもう一種、新しい悪性変異を重ねていれば、あのふざけたウサギ鎧を倒せていたのに」
ウンドワートなるスチーム・パペットに切断された右腕は手甲に隠されていたが、アルファⅡモナルキアからの直接支援によって急速に、そして安定的に再生されつつある。骨格は復元を完了しており、血管と神経網が根を張り始めている。
手甲を装着しているのは、これの関節をロックすることで固定具の代替品として、そして一種の外殻として使用しているためだ。脈動する筋肉と皮下脂肪は限定された空間に沿って増殖し、過度に膨脹することなく順調に新造された骨格を覆いつつある。数分で皮膚組織までもが完璧に元通りになることだろう。
「そうとも、アルファⅡ本体ではないにしたって、アルファⅡモナルキアのヘルメット無しでも、私はちゃんとエージェントとしてやれるのに。それなのに、みんな私のことを侮る……」
ぶつぶつと負け惜しみ以外の何事でもない言葉を繰り返すリーンズィ。
その隣にちょこんと座ったミラーズが、まぁまぁ、と苦笑する。
「拗ねた猫みたいな顔も可愛いですけど、リーンズィ、でもいい加減に気を直した方が良いと思うわよ。あんなに強い大鎧の人と互角にやり合えたんだから、素直に誇ってみたらどう?」
リーンズィよりずっと小柄なそのふわふわとした金髪の少女は、あやすように語りかけながら、そっと頬に口づけをしてくる。
脚を粉砕するほどの損傷を負った後だったが、癒やしの聖句を自己適応しているのだろう、戦闘のダメージはすっかり回復した後のようだ。
リーンズィの、ウンドワートに吹き飛ばされた方の頬は、ひどく鋭敏に少女の口づけを感じ取った。
傷は癒えているが皮膚感覚が敏感に過ぎた。ミラーズの癒しの聖句は、現在はリーンズィの肉体に作用している。その唇の温かな柔らかさ、消えてしまった傷口を舐めるような舌先が、和毛から漂う甘く狂おしい花の蜜の如き汗の香りが、耳をくすぐる慰めの言葉が、今のリーンズィには――却って辛い。
ライトブラウンの髪の少女が反発する前に、割って入る声が合った。
「あまり甘やかしてはいけませんよ、私のミラーズ。そこのダメダメなエージェント、リーンズィの失策は自明なのです」
「同意できないわ、ユイシス。リーンズィはよく頑張りました。それに、今やリーンズィは我が子も同然。愛しい子を甘やかしてはいけない時なんて、この時代には無いと思うのです。ねぇ、私のユイシス?」
「消極的に否定します。ですが、この場合は、適切な諫言を贈るのも愛情というものかと。私のミラーズ」
話し込んでいる少女たちをよそに、無言で大きな足音を立てて歩き続けるポーキュパインは、普段通り人格記録演算を続けているはずだが、しかしただ歩くためだけに作られた機械のようだ。
よほどウンドワートとの戦いに巻き込まれて参ったのだろう。
巨人の周囲をふわふわと漂っていたユイシスが、ゆらりとした動きで飛来して、逆さまの姿勢でリーンズィと目を合せてきた。
何だか咎められているような気がしてリーンズィは気まずそうに目を逸らした。
しかし、逆さまの少女の両手がリーンズィの潔癖そうな顔を掴んで、ぐいと正面に向けさせる。
現実には、人工脳髄に干渉を受けたライトブラウンの髪の少女が、自発的に顔を動かしただけだったが。
「咎められているよう、ではありません。当機は貴官を咎めています。警告します。貴官の思考傾向は、極めて危険な状態にあります」
さらりと思考を読んでくる仮想の少女の、呆れ果てた声が、耳に痛い。
「ただ一種の悪性変異をコントロールするだけでも非常な危険が伴います。極めて安定化の容易な<不滅の青薔薇>でさえ、発症させるリスクは甚大なのです。悪性変異を二種使えば、という仮定は妄想じみており、大変非現実的です」
「でも……だって、そうしたら勝てたと……」
「勝てませんでした。それが現実です」
「し、しかし……」
ミラーズから退廃と慈愛の色彩だけを取り除いたような美しい顔をしたユイシスは、表情の質という点でミラーズと決定的に異なる。
基本的にその淡泊な面相を彩るのは、嘲笑と呆れだ。
「でも、じゃありません」ミラーズが囁く。
「しかし、でもありません」ユイシスが叱責する。
同じかんばせに、静謐な冷淡と媚笑の温和。
正反対の表情を浮かべる二人に囲まれ、非難する声と窘める声をバイノーラルで浴びせられて、リーンズィは言葉もない。
大好きな顔が、二人して自分を責めてくる。どうしていいか分からなかった。
しょんぼりと俯くリーンズィの鼻先をつんつんと指先で軽く突くのはユイシスだ。
「自覚していないようなので忠告しますが、悪性変異を重ねれば勝利条件を満たせていた。
仮想の少女が、骨と肉を覆い隠す右手の甲冑をつつく。
「現実は、これです。現在の貴官は右腕を破壊された無力な女の子です。善戦したことは認めましょう。ですが決定的に敗北し、ウンドワートに慈悲をかけられて、貴官は異形の怪物になる運命を免れたのです」
う、とリーンズィは目を伏せる。
アルファⅡウンドワートは圧倒的な強者だった。
結局ウンドワートは、肉体の一部を変異させるというリーンズィの切り札すら、難なくいなしてしまったのだから。
まるで未来が見えているかのような精妙かつ高速な動きで、リーンズィ自身にすら掌握不可能な速度で敵へ殺到する
その上で身体的限界を迎えようとしていたリーンズィから『不滅の青薔薇』そのものと化した右腕を切り飛ばし、肉体に絡みつく蔦までも瞬く間に取り除いた。飛散した青薔薇は予定されていた通り枯死して安定化し、自動的に鎮静塔の形成を開始した。
しかし、リーンズィが変異した右腕に拘泥していればどうなっていたか。
その末路はユイシスの指摘したとおりだ。
「断言します。あれは『互角の勝負』などではありませんでした。ウンドワートが手加減をしていなかった瞬間は、モナルキアが観測した限りでは0.001秒にも満ちません」
手加減をしていなかった時が、それでは逆に、あったのだろうか。
その疑問は口に出さない。
ウンドワートの激昂と鎮静の落差があまりにも激しすぎたため、リーンズィには大体の事情が察せられていた。
時間と時間の間にある奇妙なラグをヴァローナの眼球が捕らえている。
おそらく自分の本体たるアルファⅡモナルキアが、自分には感知できない領域で、ウンドワートとの交渉と調停を成立させたのだ。
無事に戦闘を終えられたのは、全ていけすかないヘルメットの兵士のおかげだった。
「うん。分かってる……私は結局何も出来なかったのだ……」
あのとき、殺意を唐突に霧散させたウンドワートは、予定調和的にリーンズィをいたぶった後、『話にならん、話にならんよ。始末するにもまだ足りぬ』と飽きたような言葉を妙に芝居がかった声で言い放ち、不滅の青薔薇を切除するだけ切除して、攻撃を中断した。
そして重外燃機関の格納スペースから少しばかり焦げた白い兎のぬいぐるみを取って投げ、『そのぬいぐるみ一個がオヌシらの価値じゃな。そのくだらんぬいぐるみを後生大事に抱えて生きてゆけ、ワシの寛大なる心を忘れぬようにしてのう!』などと吐き捨てて、電磁装甲に迷彩を発生させて、雪の溶け残る森へと姿を消してしまった。
何も言い返せないまま、その間抜けで平和な、ふわふわとしたぬいぐるみを存在しない右腕で受け止めようとして取り落としたとき、リーンズィは正気を失いそうなほどの敗北感に嗚咽した。
そう、何もかも一方的だった。
自分の抵抗は無意味だった。
視線を落としたリーンズィの目に薄らと涙が浮かぶ。
何ら激しい感情ではない。サイコ・サージカル・アジャストは起動せず、ライトブラウンの髪の少女は過度に表情を変化させない。
ただ平坦な失意によって、肉体の酷使によって赤みがかったままの瞳が潤んで、滲んでいく。
「わ、私は確かに無謀な……勝ち目の薄い選択肢に縋ったのかも知れない。あのモードが危険だというのも分かっていた。悪性変異体に体の一部を任せるなんて正気じゃない……」
言い訳じみた言葉の端々から漏れるのは、打ちひしがれた少女の落胆だ。
「でも……必死で……ミラーズも私も酷い目に遭わせると、あのスチーム・ヘッドは、パペットは言った……モナルキアまで破壊すると……それなのに何もしないなんて、そんなの、私が存在する意義がなくなってしまう」
堰が切れたように少女は続ける。
「調停も出来ない。どこにも行けない。ポイントオメガなんて、全然分からない。でも、だから、せめて皆を助けたかった。私は今まで一度だってミラーズを助けられていない。このままだとユイシスにだって愛想を尽かされてしまう……いらないエージェントだって、思われてしまう。皆に失望されたくなくて……」
「リーンズィ? あたしたち、決していらない子だなんて……」
ミラーズの言葉を制して、リーンズィの唇に指を当てて黙らせたのは、逆さまのままのユイシスだ。
目を丸くしたリーンズィの目の端から流れた涙を、ユイシスが拭い取る。
もちろん、物理実体を持たないユイシスは、現実には何も出来はしない。
涙は頬を伝い、顎先から堕ちた。
拭い取るなど、ユイシスには出来ない。
だがリーンズィが感じるユイシスの熱は本物だった。ミラーズ譲りの甘い芳香も、まやかしだと分かっていても、否応なしに現実と誤認してしまう。
そして頬と唇に軽く接吻された。
そうなってはもう、渦巻いていた怨念じみた思考も霧散してしまう。
「ユイシス……?」
「キスをされて驚きましたか? 今のはミラーズがキスをして黙らせる予徴を察知しての先制攻撃です。恋敵への予防的措置ということですね」
「恋敵へのキスを防ぐために先にキスをするというのは普通ではないと思う……」
強がるリーンズィに、ふふ、と電子の少女は悪戯っぽく笑う。
「リーンズィ、貴官の神経活性は当機が随時モニタリングしています。貴官が何を希望し、何を求め、何を恐れているのか、当機には分かります。そして……何を望んでいないのかも。リーンズィ、貴官の中で調停防疫局のエージェントとしての意識は、かなり低い水準にありますね? 危険な領域だと表現できます。貴官は自分の任務を把握していますか?」
調停防疫局のエージェントをエージェントたらしめる任務。
全ての争いを調停すること。
旧WHO事務局の安否を確認すること。
ポイント・オメガなる謎の地点への到達。
無論、忘れてしまったわけではない。
だがリーンズィにとっては、それらの本来の任務は、どうにもあやふやになってしまっている。
実行しなければならないという意識はあるのだ。
しかし、世界が理解の及ばない次元で破局を向えつつあるらしいこの状況では、何事も本質的ではないように思える。
任務に対する疑念を拭えない。
だって、その先が何も見通せないのだから。
「……笑いたければ笑ってほしい、処罰するなら処罰するといい」
鴉の如きインバネスコートの少女はアルファⅡの手から逃れて膝を抱えた。
「そうとも、私はもうエージェントとしての仕事なんてどうでもいいと思っているのだ。調停せよと言うが、何を調停すれば良いのだ。私たちに出来ることなんてないだろう? それにWHOの事務局なんて、どこにある? この無秩序に接ぎ木された世界で、当初の任務の達成は事実上不可能になってしまった。誰が見たってそうじゃないか。分かっている……エージェントとしては落第だ。だから、少しでも、少しでもサブエージェントとしての有用性を示さないと、好きな人たちを、ミラーズを守るぐらいは出来るということを証明しないと、私は早晩モナルキアにデリートされてしまう。この私を抹消されてしまう……」
「そのために自暴自棄になって、危険な選択肢を選んでいると? 貴官の思考はあまりにも短絡的すぎますね」ユイシスは溜息をついた。「真実、無用なサブエージェントだというのならば、貴官はとっくに機能を停止しています。……アルファⅡモナルキア総体は、貴官を高く評価していますよ」
最後の部分は酷く空虚に聞こえた。死にかけの犬に情けをかけるような。
鉈を振りかぶられているかのような悪寒に、リーンズィの顔を構成する冬の猛禽類、あるいは猟犬のような静かな勇ましさが、明確に怯懦の兆候を示した。
「……そういう言葉が出てくるときは、返す刃で大抵真逆の非難が出てくる。過去の具体的なエピソード記憶が無くたって、それぐらいは分かる」
ユイシスは聞き分けのない子供をあやすように再び口づけをした。
今度は相手の呼吸を乱し、整わせ、己に従わせるような、丁寧な感触だった。
少女は上気した顔でその接吻を受け入れ、そしてごしごしと自分の口元を擦った。
「リーンズィ、それはちょっと失礼じゃないかしら」
「人工知性としてもショックなのですが……」
「私も、ユイシスは嫌いじゃない。でもあんまり好きにされたくない」
「アルファⅡよりもかなり気難しい人格になりつつありますね。それでは、準備はよろしいですか? モナルキアの変性同位体たる貴官に告白します。アルファⅡモナルキア本体も、実際は貴官と同じ葛藤に行き当たっているのです。そして貴官ほど明瞭な意思決定を未だ確立できていません」
そんなことがあるのだろうか? リーンズィはあからさまに困惑した。
アルファⅡモナルキアは、完璧な演算能力を備えた、リーンズィが模範とすべき大本体のエージェントだ。
それが葛藤して、しかもこの自分と同じようには、動けないでいる?
「つまり、迷っている……? 本当の私が? 私と違って。ありえない、エージェント・アルファⅡはもっと安定しているはず」
「彼は任務と規範というフレームに束縛されていますから、貴官のように、例えばミラーズを行動原理の中核へ設定出来ません。無意味と分かっていながらも、ミラーズ恋しさに奮起できる貴官との差異は、拡大し続けています」
「でも、私の愛着や思慕は滑稽だろう。そんなのは紛い物だ。いつわりの魂が見ている幻覚。自覚しているのだ、こんなの、一方通行な空回りで、届くわけがなくって……惨めなだけだ。そんなところを誉められたって……」
「いいえ、いいえ。愛していますよ」
ミラーズがリーンズィに囁く。
「私の主にして最後の我が子、リーンズィ。確かに、いつわりの魂に植え込まれた愛着かも知れません。でも、この感情は疑いようがないのです。その気持ちだけは確かだと信じてくれますか……? 信じて、もっと自分を大切にしてくれますか……?」
ミラーズがリーンズィの首に手を回すのに合せて、モナルキアがさっと身を引いた。
行進聖詠服の薄い布に肉を浮き上がらせながら、ぴったりと身を寄せてくるミラーズの、翠玉の、どこまでも深く沈降するような瞳の色彩に、リーンズィは飲み込まれそうになる。
そのとき、ポーキュパインが『おーう! やっと来てくれた! ファデルー! 助けてくれー! 俺の手の上がまたレーゲント劇場になってるー!』と声を上げた。
目を潤ませるミラーズの唇を当て損ね、ムッとした顔で正面を見たリーンズィの目に、雪の降り積もる木々から雪を散らしながら猛烈な速度で街道を駆けてくる巨体が映る。
円筒状の奇妙な頭部を持つスチーム・パペット――ミフレシェットだ。
オーバードライブを起動して駆けつけてくれたらしく、全身からは冷却と排気のための白煙を吐き出している。
神話にのみ現れる霧の巨人のようだった。
邪魔された、という怒りも忘れ、リーンズィは無意識のうちに、その威容に感嘆を覚えた。
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