境界線



 結論からいうと、私とムギちゃんは途方に暮れていた。登戸駅から歩いて三分の多摩川を土手から眺め、おまわりさんが早く戻ってくるといいねと話していた。陽が沈んだとはいえ幼い身体には重労働だっただろうと、冷たいジュースと食べたそうにしていたドーナツを渡してあげた。


「ありがとうございます……私のせいでごめんなさい」


 それを言えるだけでどれだけ立派だろうか。子供の背伸びは好きではないけれど、結果として物事を正確に見極められるのならば結構だ。他方背伸びにいそしんでいたマチはそうそうに撤退していったものだから、年齢というものは行動に結びつかないなとため息が出た。それは人によっては救いであるし、呪いにもなりえる。この子にとってはどうなのだろうな。


「全然。とりあえずおまわりさんが交番に戻ってくるまで、私がムギちゃんのお家を探してあげよう。だから安心してね」


 多摩川の河川敷も久しぶりだ。歩いて職場と自宅の往復をしているだけの生活が長かったせいで、生活圏からわずかに外れているだけのここでさえ、季節がふたつも通り過ぎてしまった。恋人と並んで散歩するルートだったのに、週末のリフレッシュはどうしたと自分自身に落胆した。行動原理が男ばかりになってしまっていた、そんな女になりたくなかったね。


「……うん……」


 言うや否や、ムギちゃんの頭がガクリと揺れる。電源が切れてしまったアンドロイドがごとく、重力に逆らわない頭蓋骨が私を叩いた。


「ムギちゃん?」


「……眠い」


「眠い?」


 自己申告を信じるべきだろうか。いや、五歳児のそれを受け入れるわけにいくものか。すかさず額に手を当てる。幼児の「眠い」は私たちからすればまったく別の不調を表現しきれていない可能性があるからだ。この状況で考えられるのは間違いなく熱中症だ、そうに違いない。


「ムギちゃん、暑くない?」


「うーん、そんなに……」


 じとり汗をかいているものの、びっくりするほどの熱は持っていない。手だけじゃ不安だからオデコ同士でひっついてみたが、やっぱりたいした差は認められなかった。


「喉は? お水まだあるよ?」


「喉、乾いてない……」


「じゃあ、喉が渇いたら絶対に教えてね? 約束だよ?」


「はい」


 念入りに確認しても問題はない、ということみたいだ。純粋に疲れたということなのだろう。だとしたらするべきはひとつだろうか。こうならなくても、次の移動からはやろうと思っていたことをするだけだ。焦ってはいけない、私が焦ったらこの子はどうするというのだ。想像以上に面倒なことになったと落胆するのも、後悔先に立たずと呪文ひとつで正当化させる。本来ならこれから行く道への警鐘となるはずの言葉も、いまや愚行を最後まで推敲させるための方便になってしまう。文脈というものは大切だ。多摩川が恋人との思い出の場所だということを告げれば、誰と話していたってこの土手での会話はセンチメンタルをもたらすに違いないのだ。


「ほら、おんぶしてあげるから乗って」


 しゃがみ、彼女へ振り返った。眠い目を擦っては私へ手を伸ばす幼気な表情。私はその一瞬で大きな動揺を覚えてしまう。このムギちゃんの顔以上に純粋なものを、今まで見たことがなかったからだ。真白な手はなにに汚れてもいない。きっとそれはいつか誰かのことを救うのだ。そういう子なのだと見ただけで分かってしまう。私たちには根本的に欠けている、青々と燃えるエネルギーを持っている人。表れているのは欲望でもなんでもない。ただ無我のままに手の平を開く少女は美しかった。


「ありがとうございます……」


「ううん、大丈夫」


 あちらとこちらの境界線を引く河川は、街灯と車から溢れた光線を飛び石のように反射させる。水面に落ちた色とりどりの水溜まりを順に踏みつけていけば、あちら側に辿り着けるのだろうか。川のむこうに広がる世界に、目を細めてはうんざりする。風は舐めるように私たちを抱いていく、抵抗を示すために前を向く。前髪が邪魔でしかたがないのに、その間から行くべき道を探し始めた。帰るべき場所がどうにも見当たらないくせに、一丁前に安らぎなんて求めてしまう私だから。


「さあ、行こう」

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