大人としての力
裏通り、街灯の下を歩く。一本表、喫茶店やら本屋なんかが並んでいる線路沿いの道なら光が満ちているだろうに。私は車同士がすれ違うことも難しいような道を選んだ。こっちのほうが目的の登戸駅前交番にすぐに着くからと理由をつけ、幼子の手を引いては足の運びに神経を使った。
「お姉ちゃんはお家に帰らなくてもいいの?」
素朴な疑問だ。子供らしくシンプルで、まっすぐに私の心を打つ言葉。
「……大丈夫だよ、私はお家で誰かを待たせているわけじゃない。帰っても帰らなくても、誰もそれに気がついたりしないんだよ」
野良猫でも上がらせて世話でもしてやっているのならまだしも、残念ながら虫の一匹にいたるまでこの寄る辺なき女を求めているものはない。群れを作らないインドサイになって歩いているような気分だ。いつしか髪の毛が硬化して、薬の原料にでもなるとよいのだが。
「どうして?」
さて、これは難しい。遠くで鳴り響いたのは、バカな歩行者にむかって放たれたクラクション。
「……うーん、そうだね……」
ひとりで暮らすことの理由。真摯に答えようにも、この子に聞かせるべき回答になるかどうか。おそらくはならないであろうことは分かっていた。幼いからというだけではない。母親にプレゼントをする、それも父親と協力をしようと画策できるような家庭なのだ。きっと私は、ムギちゃんがあと一〇年と時を重ねても、場合によっては話すかどうか迷うのだろう。
「ああ、そうだ」
だからこそ、大人としての力を行使する。
「お隣さんとはよく話すから、ひとりってこともないのかもしれないね」
誤魔化す。彼女に対しては失礼かもしれないけど、私には私の身を守る権利があるのだ。そんな大げさに考えなくてもいいのかもしれないが、ともかくとして、私にとって、家にひとりだけであるという事実は考えたくないことなのだ。だからこそ、こんな迷子の手助けなんかをしているのだ。なにかから逃げている人間じゃないと、こんな面倒ごとには手を出さないだろう。
「ふーん、じゃあ、お仕事はどんなのなの? お姉ちゃんも大人だから、やってるの?」
イエスかノーで答えられる質問をしない子だ。まあ、一〇歳くらいになるまでは、どんな子でも多かれ少なかれ、こういう話しかたをするものだ。こんな会話が嫌というわけではないし、むしろいい意味で言葉を選んでいけるから好きですらある。頭を使うということ、相手が分かる言葉を探すというコミュニケーションの魅力はそういうものなのだ。
「そうだね、やっているよ。人に勉強を教えているんだよ」
「先生? 学校の?」
「もっと小さなところ」
「そーなんだ」
「うん」
理解しているわけではないみたいだけれど、自分にはまだ知らない世界の話らしいということは分かっているようだった。もちろん彼女と同年代でも、小学校への受験のために塾通いをしている子だっている。私の勤めているようなところではめったに見ないけれど。彼女にも縁遠い話であるわけでもないだろうが、それこそ家庭によりけりだろう。
「計算? 漢字?」
「教えていること?」
「うん」
ただ、ムギちゃんの話しかたからして、将来は中学受験をしてエスカレーター式にある程度名の知れた学校を出るか、あるいは公立高校のなかでも上位に位置するような学校に通うようなタイプな気がした。大学受験でどこまでやれるかは全然分からないけれど、少なくとも地元のコミュニティでは秀才扱いされるレベルになりそう。歩きかた、話しかた、ほかの仕草もふさわしいと思える。そんなものでなにが証明できるものかと反論もあるのだろうが、ティーンエイジャー以下にとっての頭のよさなんて、逆に言えばその程度で測れるのだ。私の、個人的な感覚だけれど。それでも、学歴と言動の多少の相関を認めないというのは、単なる観察眼の欠落にほかならない。子供たちの人生がどうなるかなんてことは分からないが、それでもどんな洋服が似合うかというものが人の骨格によって左右されるように、その人が辿るべき遍歴というものも確実に限られるものなのだ。
「最近だと世界史っていうね、昔の人がどんな風に生きて、どんな道を辿ったのかっていうことを教えているんだ」
へーっと答えた彼女。細かいことは分かってはいないけれど、それを隠そうとはしていない振る舞いだ。無知を恐れてはいない、しかし知ろうとすることはやめない。このまま誠実に生きていて欲しいと思った。きっと私たちの人生が交錯するのは今日を限りで終わりなのだろうから、祈るなら今のうちなのだ。
「本当はそんなの教えることなんてできないんだけどね、人手不足ってことで私が自分で勉強をして、なんとか少し、まともに教えられるようになったんだ」
カバンの重みは水分でも着替えでもなく、ただ分厚い山川出版の世界史教科書で構成されている。残念ながら今日は担当する生徒が休んだせいで、ただの重しとなってしまった紙の塊だ。高校生の世界史なんて、日本史で大学受験をした私には馴染みのない分野だったのに。あの塾長は、いたく私を信頼しているらしい。おかげで給料は増える一方だ、ありがたやと念じておくべきだろうか。
「大人でも、まだ勉強することがあるの?」
「そうだね、たくさんあるよ。でもね、知らないことを知るっていうのは、決して苦しいことばっかりじゃないんだよ」
楽しいことばかりでもないけれど、そんなの、人生はおしなべて清濁を併せて吞むものなのだから当然だ。
お喋りは民家の裏口へ消えていく。私はこんな夜、女の子に話した話題を忘れていくのだろうか。きっとムギちゃんにとっての今夜は、あったかどうかも分からないような、幼いころの白昼夢として記憶の底に沈殿するのだろう。そのまま埋め立てられた現実によって見えなくなるのかもしれないと思うと、こちらだけは覚えておくべきなのかもしれない。参ったものだ、暗記しなくてはいけないものなんてこれ以上増やしていられるものか。
お互いの汗が手の平の間で混ざり合っても、私たちは嫌がることもなく手を結んでいた。闇が精一杯に手を伸ばしては太陽を隠した天上に、一等星がちらほらと三角形を作っている。恋人は星が好きで、あの三角形については何度も私に解説をしてくれた。ほかにも見えないくらいの何等星についても、ここからの距離だって、星についてなら私が会った人間のなかで一番詳しい人だった。いまやその全部を忘れた。覚えているのはあの楽しそうな声と、季節によって変わった土や草の匂い。近くに咲いている花の名前を言いあてようとしている私とは対照的だった。こっちの知識は中途半端で、たいていはスマートフォンで検索を始めてしまうというオチがつくのだが。
「ねえ、ムギちゃんはお花を駅前のお花屋さんで買おうとしてたの?」
思いだしたように尋ねる。今日のショックをこの子とも共有できるとするのなら、きっと私はこの暗夜行路を忘れることはないと思えたのだ。
「うん、でも見つかんなかったの……」
シャッターを花屋だとは認識できなかった。ということなのだろう。
「あのお店ね……なくなっちゃったみたいなんだ」
「ないの? いつ戻ってくるの?」
「残念だけど、戻ってこないかもしれないんだ」
「え……」
俯いた彼女。もじもじと指を動揺させると、足取りは重く、口はきつく結ばれてしまった。あの花屋がなくなったこと自体は私にとっても大きな衝撃を与えた。それでも、自分の通っていたお店がなくなってしまうだなんてことは、四半世紀も生きていればいくらでもあった。しかしムギちゃんの人生でも繰り返されていく喪失は、この瞬間に始まったのかもしれない。
「でも大丈夫だよ」
「……うん」
「もうちょっとだからね」
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