マチ

 見えてきたのはバスの停留所横、JRの駅前デッキへ至る階段の目の前に鎮座している交番だ。警察署からものの見事にたらい回しを命令された私たちは、一駅分をまるまる歩いて、ようやくここまでたどり着いたのだ。


 建物のむこう側にあった車たちの呻きが眼前で繰り返されると、街に戻ってきたんだと安心が身を包んだ。それはムギちゃんにはまだ無縁の感情らしく、街の光に感想は浮かばないようだった。駅から吐き出される仕事や学校帰りは数を増していく時間で、横断歩道は開戦の合図が鳴った平原の様相。戦火を掻い潜ってたどり着いた白黒小屋、さっきの交番と同様白色電灯が漏れ出しているガラスの引き戸を構えていた。


「留守だよ」


 背後からの声。ため息が漏れた。


「どうしてそれを?」


 黒いオーバーサイズのパーカーと、そこから伸びた白い脚が印象的だった。フードを深くかぶっているから顔は判別できない。別に判別する必要もなかったけれど。突如として現れた人物にムギちゃんは眉をひそめ、私の斜め後ろへ引っ込んでいく。振り返り、「大丈夫だよ」と笑顔を作った。まあ、本心からの言葉だから伝わってくれることを祈るしかない。


「あっちの飲み屋街があるでしょ? そこで喧嘩騒動があってね、ひとりやふたりが取っ組み合いしているならまだしも、両手じゃ数えきれない人間が血を流しているんだ。だからここにはおまわりがいないってわけ」


 中性的な声だ。やや高い声が掠れていることで、音の波紋に生臭さが乗らないようになっている。加えてパーカーのおかげで、身体のラインまでも不確かなものになっていた。動物に例えると、もちろんコウモリと表すことができた。あとパンダ。


「ま、原因はぼくなんだけどね」


 湿り気のある笑いには特に感想は述べない。こいつもそんなことは望んではいないだろう。私たちの顔を交互に見やるムギちゃん。彼女の角度からなら、このフードの中身が見えているだろうか。足に見劣ることなく、透き通るような色の顔に見蕩れているかもしれない。私の服を掴む手が離れていかないところから、きっとその美しさにこそ恐怖を覚えているはずだ。


「きみ、名前は?」


 かがんだコウモリ。ムギちゃんはその黒い風貌に相対すると、わずかに肩をこわばらせる。あははと乾いた笑いで、フードは自分に向けられている感情のいかんを察した。


「平気。悪い人じゃないよ」


 私の声を見上げる。五歳児は言葉だけでは納得できないようだったけれど、行き届いた教育が初対面の人間に対しての作法を駆動させた。原稿を読み上げるように、おそらくは、決して目を合わせないよう泳がせている。


「ムギです、五歳です。幼稚園に通っています」


「そりゃいい名前だ、傑作だね。さしずめイズミさんはライ麦畑のキャッチャーってわけだ」


 満足気に立ち上がったパーカー。身長は私より少し低い、一五五センチほどだ。ムギちゃんからすれば十分巨人だろう。映画館の最前列に座るときでもしないような首の角度だ。別に見なくてもいいよ、こんな人の顔は。


「私にはずいぶん似合わない形容ね」


 サリンジャーなんて、いかにも好きそうな作家だ。


「ぼくはそう思わないけれどね。誰かを救うって、いかにもイズミさんが引き受けそうなことじゃないか」


「望んでそんなの、したことないけど?」


「そりゃそうだよ、だから言ったんだ。『引き受けそう』だってね」


 やっと顔を見せたマチ。いつものように人を馬鹿にしたような笑みだ。


「どうせ世界史の授業だって、こんな風に始まったんでしょ?」


 ぽかんと口を開けているムギちゃんへ、コウモリは光のない瞳で言った。


「この人の手を離しちゃだめだよ。じゃなきゃ今に、もっと遠いところへ行っちゃうからね」

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