三五〇〇円のアルカトラズ島



 ムギちゃんが泣き止むころには、空には太陽の名残だけが反射していた。今日に留まったわずかな橙を頼りに、私たちは歩き出す。彼女の手は信じられないほど小さくて、それでも確かに通った血が温もりを伝えてくれる。私が以前飼っていたハムスターと似ていて、骨も周りについている肉も、その構造すら瞬時に理解できてしまうような気がした。正直に言うと、こういう小さな生きものは苦手だ。握りかたひとつで命が断たれてしまうんじゃないかという恐怖、あるいは前借した罪悪感にかられてしまうから。


「お母さんへのプレゼントって、なにを買ってあげようと思ってたの?」


「お花、お家にもお花あるの。お母さんはお花が好きだって言ってた。誕生日だから、きっと喜んでくれるって」


「じゃあ、お花屋さんに行こうと思ってたの?」


「うん、お父さんにお金貰ったから。いっしょに行こうって言われたけど、お父さんが約束の時間まで帰ってきてくれなかったから……」


「そっか」


 なるほど。じゃあそのお父さんが今、彼女の家に帰ってきているかどうかで事態が発覚しているかが決まりそうだ。下手をするとムギちゃんの母親がふたりの企みに気がついているだろう。そうなれば家にいないことに関して、父親側に確認をとることが遅れる可能性がある。父親が帰ってくれば子供だけがいなくなっているという状況に気がつくだろう。もちろんそうなれば、とられる選択はひとつだけ。


「交番? おまわりさんがいるところ?」


「うん、ここならお母さんたちをすぐに探してくれるよ」


 まさか私が彼女の家を探し、さまよい歩くわけがない。餅は餅屋だ。駅前から歩くことわずか三分、五歳の足ですらそんなもの。目と鼻の先にあった白黒のみすぼらしい一階建て建築の戸を引く。ツンと強すぎる消臭剤の匂いが鼻にまとわりついて、どことなく不快だ。


「すみませーん」


 隅に小さなステンレスの机があるだけで、誰かが待ち構えているわけでもない。奥まった事務室みたいなスペースが通路のむこうに見えるけれど、電気がついているだけで、人の気配はまるでなかった。この電気代は税金で払われているのだろうか。それでも防犯目的でつけっぱなしにすることくらい、いちいち目くじらを立てるようなことでもなかった。交番だからといって、空き巣が入らないとは限らないし。


「いないの……?」


「うーん……」


 不安そうなムギちゃんだ。ここで待っているという選択肢もあるのだろうけれど、もう少しベターな回答はないだろうか。私だって人の子である以上、心細い幼児にいつまでもそんな思いをさせていたくはない。視線を泳がせた先は銀の机。真白なプラスチックで象られた受話器だった。近くの張り紙には大きな、それでいて汚い文字で「誰もいなかったらこの番号へ」と書かれていた。A4用紙いっぱいに踊るマジックの文字は、檻の中から出して欲しくて堪らない囚人がごとくだった。こんな風に暴れると囚人の刑期とは延びたりするんじゃなかっただろうか。少なくとも縮むことはないだろう。流石に気の毒だ、だったら檻の中のハムスターと表現しておくこととしよう。老いて弱った最後の数週間を除き、あのネズミは毎日のようにケージをガリガリと齧っていたものだ。毛づくろいや回し車と同じくらい習慣化していたあの抵抗。しかしついに脱走の夢は叶うことなく、まんまる毛玉にとって三五〇〇円のアルカトラズ島は不敗神話を不動のものとしたまま捨てられた。


「ちょっとお電話するね」


 おそらくは区の警察署にでも通じるのであろう、内線じみた三桁をプッシュ。人の気配のない、白色電灯が溢れる部屋に薄気味悪さを覚えたのか、同行している小動物は私の手を力いっぱいに握った。それに返すよう、わずかばかりの力を加える。


 数回のコール、前髪が気になった。電話をかけるときなのに変な話だ。髪の調子は、コミュニケーションの重要さと直結している。それが視界の邪魔にならないよう、左へ流すため手櫛を機能的に動かした。恋人が死んでから、毛づくろいは乱雑になるばかり。毛量は増えていくが。嘆かわしい話。さっさと次を見つければいいのにね。


『はい、こちら多摩警察署です』


「もしもし、向ヶ丘遊園駅前の交番からかけています。迷子を見つけたのですが……」


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