子供に戻りたいとは思わない


「どうしたの?」


 しゃがむと膝がポキリと鳴った。恥ずかしいと思う間もなく、泣きじゃくっていた女の子は顔をこちらへ。駅前のスーパーの左、裏路地に吸い込まれてしまいそうな危うい場所でひとりだった彼女。目は真赤に腫れている。それだけではなく、幼稚園かなにかの水色の制服と黄色い帽子も全部、夕陽で赤くなっていた。こんな色になるまで誰も助けてあげられなかったのかと憤らないでもなかったが、逆に考えればこの程度の悲しみなんて、みんな見飽きているということなのかもしれない。私は飽きていないというのだろうか。いや違う。後悔が先に立たないということに、うんざりしているだけなのだ。ここで自分がなんにもしなかったとするのなら、きっと未来の私が恨むだろうから。


「私はイズミ、あなたの名前は? なにがそんなに悲しいの?」


 子供へ一度にしていい質問は二個が限界。小学校低学年から高校三年生までと日常的に会話をするなかで至った結論はそれだ。勉強に関する論理的なものならできたらひとつに絞るべき。逆にむこうの話したいことを探るのなら、三つの回答を求めるのは場を混乱させるだけになる。そういう経験則があるから、この切り出しに迷いはない。


「……うぅ……」


 女の子は鼻をすする。声も小さくなっていく。言葉は出てこなくても、これはきっと私になにかを伝えようとしていて、準備の段階に入ったということなのだ。どちらも話しやすく身体の状態を変化させようともがいているからこそ、起きてしまう現象だ。辛抱強く待つ、そして話し始める機会を作る。急かさず、かといって空白で彼女を追いこみもしない。


「ゆっくりでいいよ。お姉ちゃんは待っていられるからね、大丈夫」


 お姉ちゃん、だなんて年齢かよ。そんな自己批判、今は無駄。


 意識して口角を上げる。そうすれば声なんて勝手に優しくなることを知っているから。目を見ないでおでこを見つめるのも、圧迫感をなくしつつ関心を寄せていることのアピールだ。ありがたいことに今日はジーンズを穿いていたおかげで、上半身はゆったりとしたルーズカットシャツを選択していた。女の子の視界にはそのトップスが広がっているだろう、視覚的にもまあ、少しは柔らかい印象を与えているはずだ。


「私はイズミ、あなたは?」


 もう一度。


「……ムギ……」


「ムギちゃんね、いくつ?」


「……五歳……」


「ありがとう。それで、こんなところでどうしたの? どこかケガしてない?」


 見たところ外傷はないわけだけれど、服で見えていないところで無視できない傷を負っていても不思議はない。ここまで小さな子と接することはめったにないけれど、思ったよりはっきり喋れる子のようだし、コミュニケーションの梯子としてはちょうどいいだろう。


「してない」


「本当? いちおうオデコとか見せてもらえないかな? 帽子取ってもらうこと、できる?」


 そっと、お豆腐屋さんが綿豆腐の注文も受けたときのような手つき。彼女の就学前教育の所属を証明しているそれへ届きそうなところで、身をひるがえし、ムギちゃんは首を振った。


「これはダメ!」


 ぎゅっと深く、被るというより頭に押しつけるように彼女はつばを引っ張った。


「あ、ああ、ごめんね。分かった、もうとらないよ」


 頭の形がはっきり出るくらいに力を込めている幼女。ここまで強烈な反応が出るとは思わなかったから、一瞬面喰らってしまわないこともない。まあ、こんなエラーはよくあるものだ。中学生や高校生になったって、あるいは成人してからも、人間との会話なんて予測できないことばかり。


「お母さんが付けてくれたの、大事なものって言ってた。誰かに渡しちゃダメ、失くしてもダメって」


 しわくちゃな顔だ。ちょっとおもしろい。


「そっか、じゃあ被ってよう、ごめんね」


 この謝罪は余計だったかとも思うが、私の関心はムギちゃんを覆う帽子に縫いつけられた花柄のワッペンへと移っていく。長く伸びたガクから、きっとムギセンノウという花だろうと分かった。名前の由来にしては少し珍しい気もするけれど、ともかく彼女が受けとった親からの愛であることに、変わりはないらしい。


「じゃあ、その素敵な縫い物をしてくれたお母さんはどこに行っちゃったのかな?」


 さて話題を戻すべきだ。軌道修正なんて慣れたもの。


「……お母さんに……」


「うん……」


 さて、思い出したら泣けてきたらしく、女の子は目に大粒の涙を湛え始める。しかたがない、大丈夫だよと表情で伝えた。無理に言葉にするよりも、子供は大人の表情ひとつでさまざまな感情を読み取るものだ。大人と違って、自分の見ているものを信じることができるからなのだろう。みんな成長するにつれ、自分の視界に入っていないことばかり考えるようになってしまうから、ときどき彼らの感性が羨ましくもなる。だからといって子供に戻りたいとは思わないが。


「プ、プレゼント……してあげたくて……帰れなくなって……」


 ここでもう一発泣いておこうと始まった音のシャワー。そう、悲しみとはこういうものだ。何度だって蘇ってきては、自分をどこにも行けなくさせる。振り切ろうと歩き出しても、ふとした黄昏や暗闇に、何度だってそれは現れる。幽霊みたいに。


 やれやれと暖かい息を出しては彼女の二の腕をそっと触る。安心こそしないだろうが、友好関係を示しておいて損もあるまい。


「大丈夫だよ。お姉ちゃんに任せて」


 ほんの少しだけ腕に力を加える。こうやって気を惹いたところで、重要な伝えるべき言葉を叩き込むのが定石なのだ。


「必ずお家に帰してあげるから」

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