女がオンナを殺そうとする話
武内颯人
第一話 話せば話すほどつまらなくなる恋人について
前を向こうとすると、特に。
まるで水底に沈んでいるような湿気だった。カーディガンを羽織らなければやっていられない冷房が漂う教室を出れば、郊外のアスファルトが私に暑苦しい笑顔を向けている。小田急線沿いの街ではよく見る風景だ。そのくせ川崎市は割れたマンホールの修復すらできない多忙に明け暮れているよう。今日も帰り道、カラーコーンを避けては押しつぶされそうな胸元に顔をしかめている。朝からずっとこんな調子だったものだから、花屋に寄っていこうと決めていた。花に詳しいわけでもない。女だからというわけでもない。ただなんとなく、たまに奇麗なものを持ち帰りたくなる。そういう趣味を嗜むようになったのは、仕事が多少関係しているのだ。パーテーションとビニールシートで区切られた教室の中で子供たちに文系科目を教え、授業終了後には塾長からの食事の誘いを断るだけの仕事。すいません私お酒とか飲まないんで。第一次世界大戦からロシア革命に関する詠唱が終われば、美術館や歴史的な文化財が数多く残っている生田緑地を抜ける。山を下ること一五分近く、スーパーと併設されたコメダ珈琲なんて、郊外という概念の表象そのもの。稼ぎもまったくよくはないし、緊急事態宣言が出ればあっという間に一文なしまっしぐら。学校ほど重要な場所とされてもいないのに、やたら彼らの人生のことを考えさせられるとこ。嫌になることは少ないけど、嫌なこと自体は多い仕事。そんな不均衡に責任を押しつけられる生活で、無責任に相対していられる花というものは、美しく見えて当然なのだ。
「人工呼吸器だね」
ふたりの部屋の中、恋人が花瓶を見つめていた情景。言葉は思い出せるのに、声はもう不確かなものになっている。薄情な人間だ、我ながら。
「どっちかっていうと点滴とか、そういうものなんじゃない?」
私の返しのおもしろくなさったらすごい。夕暮れどき。やたらと暗い部屋だったから、声まで淀んでいた。喉が渇いていた。水を吸う花を羨むくらいには。ほかにも覚えていることはある。ふたりとも電気をつけようとしないで、昼のうたた寝を引きずっては平べったくなっていたこと、冷蔵庫のコンプレッサーの稼働音がやたらと大きかったこと(実際、二週間後くらいに冷えなくなった)、ベランダに三匹のスズメがとまっていたこと。そして、髪を切ってもらいたかったのに、言い出せなかったこと。
「やっぱり邪魔だな」
路地を曲がる直前、あの日と同じような夕陽が毛で隠れる。前髪がずいぶんと伸びてしまった。ふとした瞬間気になるものだ。前を向こうとすると、特に。
バスがくるりとカーブを描いて回送の旅に出る。夕凪の夏に吹いた風はそんな人工的なものでしかない。アスファルトは地平線を覆いつくして、わずかに露出した地面はやがてコンビニかマンションに姿を変えた。長い間同じ場所に住んでいると、土地に求められている性質がなんであるのかが分かってくる。そんな知識に好奇心を躍らせていたのは数年前までのことで、何度も通った店までもがとり壊されていくたび、自分の過去まで洗い流されてしまうんじゃないかという不安が襲ってくるようになるのだ。壊れないのは自分ばかり。壊れて欲しくないだなんて、思ってもいないのに。
途方に暮れてしまいたくなったのは、数年前から通っていたお花屋さんが閉店していたから。今日は数ヶ月ぶりに、ここで目ぼしい花弁を持って帰ろうという気になったのに。私が塞ぎ込んでいるなかで、やっぱり風景は移ろっていったらしいのだ。せいぜい消えたのは個人の煙草屋くらいだろうと、たかをくくっていた自分をぶん殴ってしまいたい。赤や黄色の看板をした飲食店ばかりが立ち並ぶ駅前のロータリーで、唯一の華やかさを持つ貴重な場所だったのにな。灰色のシャッターなんか降ろしてしまって、いったいどうしたというのだろうか。梅雨の日付が記されている、閉店を告げる張り紙は、さながら復活することのなかったキリストのように生気を失っている。こんなんじゃ誰も宗教画になんてしてくれないだろう。
あまりにもショックだったのか、だんだん泣けてくるような気がした。誰だって悲しくなると、心に子供のころの自分が戻ってくる。今まさに、私は張り裂けんばかりの感情を抱えた幼女として、夏の午後六時半という非日常を息していた。
しまいには泣き声まで聞こえてくるものだから困った。目頭を押さえるということでもなかったが。郊外の街から、どこか屋根のある所に帰っていくらしい人々に配慮する気も起きない。道のど真ん中、ずいぶんと邪魔くさく涕泣と戦っている。ただでさえ汗臭くて汚らしい私だというのに、こんなんじゃ嫁の貰い手もない。もともとないが。必要もないが。
「おかーさーん」
うるさい。私の心よ。母親なんか求めてない、私は思い出の花屋を失ったことを嘆いているのだ。そこまで幼児退行するゆえんもないのだ。引っ込んでいてくれ。
「おかーさーん!」
こっちの言うことなんて聞く気もないという大絶叫が片側の耳から伝わってくると、いよいよこれは六感ではなく五感が拾っている言葉なのではないか。顔を上げる。声の表情からして、誰かの助けが必要な予感がした。彼女が叫べている以上、周りが騒いでいない以上、きっと一線級の緊急事態というわけでもないのだろうが。
「おかーさーん!」
バスから降りてきたばかりのスーツたちを掻い潜り、声のもとへ。傷心は癒えてはいないけれど、こういうときにはまったく別のことを考えるほうがいい。それで面倒なことになったとしても、ここで動かなかった自分として生きるよりはいい。相変わらず暑苦しく笑んでいるアスファルトを踏んづける。コンバースは待っていましたと跳ね、キリストモドキは背後で風に叩かれた。その風は、やっぱり街の移動が起こした、小さな竜巻だった。
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