夕陽、埃、私たち。

「……なによあんたたち。カラスみたいな人に強引に詰めこまれたと思ったら、今度はイズミさんが泣きだすし。無茶苦茶じゃない!」


 絞りだされた果汁のような叫びを、受け取ることはふたりともなかった。ひたひたと広がってくる甘い匂いは、彼女の髪の毛から香ってくるものだ。ただ地面にひれ伏していただけの、恋人の幼馴染。少しずつ呑みこんでいた事態を、ようやく吐きだせるまで理解したのだろう。そうして紡がれていく言葉は、純然たる怒りでのみ構成されている。そりゃ、責めようもない。


「私はあの人と付き合ってたことなんて一回もないわよ。勝手にむこうが世話を焼いてきただけじゃない。学生時代から誤解ばっかり受けて、それが原因で殺されますとかふざけてる!」



 羽虫が耳元。



 殴られたのかと思った。


 でなければ怒鳴られたのかと。


 考えたわけではなく、ただの反射で身をこわばらせた。


 この小さな部屋の中を文字どおり目にも留まらぬ速さで駆けめぐり、そこに死をもたらそうとしていた一陣。電光石火は、音とあべこべな挙動をもって私たちを囲いこんだ。それまでの威勢も疑念も、瞬時に吹き飛ばしてしまったそれは、ただ指ひとつの屈曲で起きたのだから科学技術とはおそろしい。それを目の前の人間が握っている。はじめから私もミチルさんも、命旦夕に迫っていた。やっとそのことを目の当たりにしたというわけだ。



 それが発砲だと気がついたのは、閉じた目を開けてから。焦げくさい花火に似た匂いと、いまだ響いているような気がする跳弾のなごり。


「……あーもう……」


 サプレッサー? サイレンサー? ともかく騒音抑制機能を拡張搭載された拳銃を天に向けて、マチはいらだった様子で呟いている。こんな子供っぽい顔をするもんなんだな。おそらくは銃弾がこの部屋のあちこちを飛び回り、さっきの羽音を立てたのだろう。威嚇射撃とロシアンルーレットを同時に行ったようなものだ。人を黙らせるにしては、ずいぶん大がかりな一撃じゃないか。


「お前がなにを思っているとか、迷惑だとか、そんなことに興味があるならぼくは最初から殺そうとなんかしない」


 気だるそうだ。自分がなんのために今、力を振りかざしているのかも分からないでいるのだろう。けれど、始めてしまった以上は初志貫徹をするしかない。引っこみがつかない。ミチルさんを殺すしかいないと思いこもうとしている。きっと。


「あんたが悪くなくても、死んでくれれば先生は楽に生きていけるんだ。だからくたばれよ」


 もういいよ。なんの得にもなりはしない。このままじゃ、全員不幸だ。


「そうしたら、ぼくだってもっと楽しくなれるんだ……」


 楽にしたいし、楽になりたい。そうだったね。マチ。あんたはそういうやつだよ。自分の尺度でばっかり生きているようで、いつでも他人をきちんと見て、私のことを想ってくれた。それがとんでもないところまで来たもんだ。ピストルを手に入れて、人に向けるような努力ができる。立派になったよ。


「……マチ、あんたの頭のよさは、私が一番よく知っている」


 つもりだ。少なくとも、あの『銀河鉄道の夜』について話し合っていた日なんか目じゃないさ。人が人のためになにかをするということを、あんたは今、ちゃんと引き受けられている。


「あんたは最初から分かっていたんでしょ? 自分の見立てが外れている可能性があるって」


 私はあんたの先生だ。今だって、そう思っている。


「だからリスクヘッジとして、謎かけを残した」


 正解にたどりつけなくても構わないんだ。その道筋があんたの人生になるのなら。間違えたっていい。マチだけに。今回ばかりはあんたより一歩先を行くよ。ふっかけてきた戦いは、あんたの自滅で決着。


「知恵比べは、私の勝ちだ」


 一番に地面へ落ちる雪のよう。激しい音もしないまま、圧倒的な意味をもって呟いた。善意で動いた殺人未遂犯を口説くには、無機質な言い草かもしれない。お前がやった過ちなのだ。受けとめろ。私が今日、悲しみと向かい合ったように。ようやく気持ちを、言葉にしたように。


 マチは呆然と私たちを眺め、そしてみずからの手元にある、殺すためだけの道具へ視線を落とした。思いこみとは怖いものだ。それを行動に起こしてしまうのは、もっと恐ろしいものだ。だから踏み留まれ。頼むから。


「……分かったよ……」


 うなだれるマチ。拳銃も同じく、完全に下を向いた。


「でもね先生、謎を看破したところで、ぼくが抵抗を示したらどうするのさ」


 銃を持つ腕は震えている。自責が絡まり、あふれそうで、どうしようもなくなっているんだ。


「……力づくで止めるしかないでしょうね」


 なら付き合おう。連れ戻そうとしているのは私なんだ。あんたが煮え切らないというのなら、終わりまで逃げだすわけにはいかないよな。


 銃を捨てるマチ。床を滑り、ミチルさんはそれだけでおののいた声を上げた。金属は棚の足にぶつかって、高い声で同じく鳴いた。


「ハサミ拾ってよ、先生。ぼくを止めたいんでしょ?」


 さっき落としたもの。こいつが私の髪を切ろうとした、謎解きの道中でも武器として与えることになった銀色。あのとき、マチが三人の男を薙ぎ払ったときのように私に扱えるかといえば、愚問としか返しようがない。


「それとも、武器もなしでぼくに勝てると思ってんの?」


 私は片手で摘むようにしてハサミを拾った。マチの言うに従ったほうが下手なことをしないだろうという打算。しかしながらあいつに刃物を向けたくないという意地。妥協案として、ハンドルに指を通すことはしなかった。


「マチ……」


 一歩前へ。マチもこちらに身体を向けた。本気でぶつかるとするなら、武器の有無にかぎらず、片手でひねられてしまうのは自明。困ったものだ。あいつが冷静になるまで殴られるのか、それともハサミを奪われて、本当に殺されてしまうか……。そっちは嫌だな、ここまでがんばった意味がない。殺されるのだけは避け……。


「……ッ!」


 息、と足音。ミチルさんが血相を変えて走りだしていく。一直線に裏口を目指し、私のすぐそばを駆けていく。汗ばんだ顔と瞬間目が合って、この混沌とした廃屋からいち抜けということらしい。口元がきつく結ばれていたから、それは真に必死であろうことがうかがえた。


「あんなの放っておきなよ」


 もう、先生といっしょならなんでもいいや。マチは呟いてやぶれかぶれ。両の手を握りしめて私へ一歩。こちらも距離を詰める。ハサミを見て、マチを見る。私の腹は決まっている。それはあいつも同じだ。わだかまりを発散することばかりに囚われている。


 夕陽、埃、私たち。もう手が届きそうだ。花屋の墓場、中央でまみえる講師と生徒。


 ハサミを持ち直す。


「これ」


 私が持つのは刃のほう。マチに向けるのは持ち手のほう。


「返す」


 借りた物は、返さないとな。


「へ?」

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