黄昏疾走
地面を蹴って走りだす。一目散に裏口から外へ。マチは放置で外に出る。まだ間に合うはずだ。追うしかない!
「え? なに? なになになになに?」
べそをかいていそうな声は、駅前でほっと一息をついたミチルさんからのもの。物理的に飛びでてきたのはこっち。勢い凄まじい私へ、戸惑いとともに怪訝を表す彼女。迫りくる女から逃げるように、ミチルさんも足を回す。天敵に恐れをなしたハムスターのよう。
「なんなの? もう嫌だ、助けて!」
冷凍都市じみた郊外じゃ、人前でそう叫んでも注目されるだけでおしまい。人が泣いていたって助けてくれるような人間は、この街にひとりもいないんだ。そんなに優しいやつがいてたまるもんか。少なくとも私は会ったことはない。
黄昏疾走、駅へ入っていく人々を縫う。
「なんで逃げるの!」
それはそうと不可解なのは、彼女が一心不乱に腕を振り、驚くほど奇麗なフォームで駆けていくこと。マチが追いかけてきたらそりゃビビるだろうが、なんで私を見ておったまげているのかまったく分からん。
「追ってくるからでしょ!」
「いいから待ってよ!」
ミチルさんが逃げる先には向ヶ丘遊園の北と南を繋ぐ、線路の地下をくぐった通路だ。南側へと向かっている彼女の狙いはあそこだろうが、お構いなしに私は加速。彼女も決死の思いらしく、負けず劣らずひた走る。目算一〇メートルの距離はいっこうにちぢまらず、私の衰えも始まっていると実感させられた。が、足に馴染みはじめたエアマックス200が唸りを上げれば、地面を蹴った力の使いかたが手に取るように分かってくる。足なのに。
「すみません! あの!」
ミチルさんは地下道を抜け、予想どおり南口の交番へ。白と黒の小さな建物にすがりつく彼女は、目の前に広がる駐輪場でありありと。舞台の中央、秘することなく叫べば花。もれなく通行人たちは彼女を眺めていたが、それは同時に、助けを求める人へだれも声をかけないことを意味している。
警官さえも、交番からは出てこない。不在なのだ。チカさんと合流する直前、保険として虚偽の通報をしておいてよかった。酔っぱらいが暴れていますってね。いつぞやの私と同じく路頭に迷うがいい。
「待てー!」
テンプレートに絶叫した私が肉薄する一方、ミチルさんはすぐさま方向転換を決め登戸方面へ加速する。すんでのところで捕まえ損ね舌打ちをしつつ、策がハマったと同時にニヤけた。表情筋も忙しくってしかたない。
線路沿いへ舞い戻り、ミチルさんの背中をいまだに追いつづける。向ヶ丘遊園駅をぐるりとめぐり、東京方面を目指す私たちは、追われるから逃げるし逃げるから追うしという循環へ。バカバカしいけど叫ぶ余力ももうなくなってきた。
「先生、マジでなにしてんの?」
慌てふためきながらも追いついてきたのはマチだ。こっちとは逆回転に駅を曲がり、ちょうどかち合ったというタイミング。
「は? そんなの決まってんでしょ!」
だれのせいでこうなったと思ってんだと睨みつける。ギクリと痛いところをつかれたというパーカーバカも、反省をこめてひとつの提案をした。
「あーとにかく、ミチルっちを追うんでしょ、手伝う。裏道使いな。ぼくはうしろにつくから」
ムギちゃんと向ヶ丘遊園と登戸を行ったり来たりした日。表通りの喧騒がどうにも嫌で、近道ついでに抜けた住宅たちの森。このままミチルさんが登戸方面へ逃げるなら、確実にそっちを使ったほうが距離も短い。
「その代わり全力でいきなよ」
これまで履いていたコンバースとは違う。これならひさしぶりに、文句もなくいけそう。あっちの道なら交通量もほぼ皆無。
「……引き受けた。任せろ」
分かれ道、マチやミチルさんは視界から消えた。身体に命じるのはただ走ることだけ。たいした成績を残せたわけでもなかった陸上部時代だが、培ったフォーム、呼吸、目線をフル動員する。あのときのようにムギちゃんの手を握っていたら、こんなスピードは出せなかった。
自分の身体が残酷なまでに小さな範囲にしか存在していないということが、ありありと分かる。走るということは世界の大きさを再認識すること。風景というものがいかに一瞬にして過ぎ去っていくものなのかと思い知ること。血液のめぐりと空間のあいだにある隔たりこそが、私を私たらしめて、その温度差こそ人なのだ。住宅やアパートの敷地を示すブロック塀をかすりながら、足はつぎつぎ地面と衝突。速くなる。このときは、こうしているときだけはなにも考えなくていい。私は無思考を恐れていたのかもしれない。恋人を忘れないように、走ることから遠ざかっていたのかもしれない。走ることの痛み、苦しみ、快楽に支配されてしまうことから逃げていた。それでも、駆けなくてはいけない日がついに来た。心は踊っている。泳ぎかたや自転車のこぎかたを忘れないように、正しい走りかたというものも忘却することはない。私はひとつの弾丸だ。走るときは、いつでもひとりだ。
登戸駅が迫ってくると、即時に目を動かして彼女らがいないだろうかとサーチする。足を止めることはなく、駅にいないならその先まで回っておこうと全力疾走。汗はじっとりかいてきたけれど、まだ動いている最中だから気にならない。ペデストリアンデッキへ駆け上がっては、そのまま東京方面へと走っていく。デッキの上からもふたりの姿はなく、迷いながらも走る。目指すは水道橋、しかないだろうか。
「TMGーッ!」
路地で聞こえたマチの絶叫。私よりも大回りであちこちを走っていたのだろうか、ともかくそっちへ出るのはたやすい。路地裏でラストスパートとギア上げ、土手の階段剥きだしコンクリートを踏んづけた。
「ミチルさん……!」
見れば目の前。マチの魔の手から逃れようと走ってきていた彼女が、行く手を阻むぼさぼさ頭を見て、顔をしわくちゃにしていく。前後を固められ、それと同時に体力の限界を悟ったようだった。
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