伝えることはない
「ハァ……ハァ……ハァ……」
だれのセリフということもないが。ともかく全員息が切れている。そのなかでもマチは比較的、軽く乱れている程度の呼吸。まだ白い息が出るような時間でもなかったが、太陽を盗んでしまったかのように、身体が火照る理由でもあった。
「それで……今度こそ私を殺すの……?」
ミチルさんは己が運命を観ずると天を仰いだ。その発言から、私の意図はまったく伝わっていなかったのだということも確認できた。
「……そんなわけないでしょ……話を聞いてよ……」
こっちも途切れながらの発声だ。まあいきなり追いかけまわしたのは謝るべきかもしれないが、走りよってくる人はみな殺人犯だと思うのは過剰な反応だとも思う。マチならともかく、私にそんな容疑をかけられても……。
「だって……イズミさんに恨まれているんでしょ、私」
「いや、恨んでいるだなんてことはないよ。そりゃ死ぬほど嫉妬してたし、今だってしているけれど、だからって苦しんでほしいとか不幸になってほしいだなんて思っているはずない」
じゃあなんなのよ……。汗が土へとこぼれていく。ミチルさんのものだ。
「殺すとかなんだとか、そんなの全部、ミチルさんの勘違い」
雁首揃えてなんだこの始末は。だれひとりまともな読解力を持ったやつはいないのか。これじゃあマチも私も、塾でなにをくり広げていたんだか知れたもんじゃないし、ミチルさんにいたっては美容師としてトークスキルの根幹にかかわる部分が危ぶまれてしまう。
「だったら追いかける理由はなに?」
「謝りたかったのと、お願いがしたかったの」
「は?」
ジーンズが汚れるのなんか気にしない。どうせそろそろ洗おうと思っていたところだったし。それで今度は手も地面へ。そんな奇麗な指もしていないし、帰ればさっさと洗うのだからこれもよし。最後は額、前髪で守られているから痛くもないさ。くすんだり痛んだりしたところは切り落とせばいいのだし。
「マチがご迷惑をおかけしました。本当に申しわけありませんでした」
できるかぎりの謝罪を、形もふまえて訴えた。あらゆる感覚を閉じるような格好なだけに、ミチルさんの表情すらうかがうことはできない。驚いているのか、冷酷に見下しているのか、あるいは唐突に現れた平蜘蛛女に、笑いをこらえていることだろうか。分からない、という罰を課すことがこの姿勢の神髄なのかもしれない。
「だけど警察などに通報することだけは許してほしいんです。私がきつく言っておくので、どうか、それだけは……!」
とどのつまり、私はマチの人生になにか、覆しがたい汚点がつくことだけは避けたかったのだ。前科やらなんやらを持っている人間だって、全員が全員極悪人というわけではないだろう。なんなら冤罪だったり、やむにやまれぬ事情があったという人間も少なくないとは思う。だからといってみすみすマチが犯罪者というカテゴリーに分類されることを、座して見ているわけにはいかなかったのだ。私には関係がないかもしれないが、そう思うことができなかった。
「え……ぼく……?」
そうだよおめーだよ。
「ああもうなんなの……」
うんざりしているのが目に見えてわかる。見えないけど。
「顔を上げてくださいよ」
言われてから五つ数える。それからゆっくりと上体を起こしていくのだが、その最中に殴られたり蹴られたりと、油断させたところへの一撃がこないだろうかとおっかなびっくり。あとはこういうときにすべき表情が思い浮かばないから、口と目は閉じた状態だ。したがってミチルさんの表情も分からない。土の匂いが離れていって、小田急線の列車が近づいてくる。自転車が土手の下を曲がっていったのは、風がやんだのと同じタイミング。
「このあいだはこっちも感情的になっていました、申しわけなかったです。でも、ひとつ聞いてほしいんです」
眼前、目線を合わせてくれていたミチルさん。遠近法のいたずらで自動車が彼女の頭を貫通している。街灯も仕事を始める薄暮のなか、彼女は迷うように口を開いた。
「あの日、いやそれだけじゃなく。あの人の帰りが遅くなってイズミさんとの時間が少なくなったのは私のせいです。見習いの私に、営業終了後も練習をみてくれていたんです。そのあとも、毎日のようにバイクで駅まで送ってもらったり……」
うん、知っている。すっごく一生懸命にやっているから、つい応援したくなるんだって笑っていた。妬いてしまいながら、彼のなかにある私への愛情をどこかから見出そうとしていたものだ。新百合ヶ丘に住んでいるあなたは、小田急線で帰っていたんだよね。だから向ヶ丘遊園駅を使ったのだし、マチはそこを狙ったんだ。
「それさえなかったら、事故もなく、早く家に帰れていたかもしれないのに」
「ミチルさんのせいじゃないのは、間違いないよ」
理屈ではそうだ。むこうだって承知の上だろう。けれど、事実として自分の未熟さが偶然を引き寄せてしまったことに、世界の無情さを感じている。その荷物を背負えるほど私も強くないから、きっと気にしないでと言っても無駄だろう。
「でも、喋ろうか迷っていて、ずっと言えなかったことがあるんです。それを、聞いて欲しい」
「う、うん……」
なるほど、本題はここからなのか。もしかして、と疑惑は期待に変わり、心臓を揺らして叩く。それはひとりになった私にとって、道しるべの光をもたらすのかもしれないからだ。
「以前も言ったように、あの人からイズミさんへの遺言、最期の言葉はありませんでした」
が、都合よく降り注ぐ光があるわけもない。そうやすやすと消えた人間から愛されるほど、私は美人でもないしな。
「それがわざとであるということ、故意に彼は言葉を残さなかったということを、私はお伝えできていませんでした」
ミチルさんの顔が歪む。悲しみと恐怖が混ざっているようだ。それは、私に対する恐怖というよりかは、一年という時間それを抱えてきたということへの恐怖なのだろう。
「それには、どういう理由があったの?」
言葉の渡し船を出港させる。彼女がこちらへ伝えやすいように、おずおずと彼女は身体をそれに預け、話せそうなタイミングで声を投げる。
「イズミさんを縛るようなことを言いたくない、と。だから、最期だとしても、彼はイズミさんにはなにひとつ、伝えることはないと」
彼女は砂を握った。小さな手だった。
「そう……ですか……」
風が吹いた。嬉しくもないし悲しくもない。ただ、そうなんだ、とだけ思うようにした。
「今さらごめんなさい、でも彼は、イズミさんに気にしないでいて欲しかったんだと思います」
まあ、そんなことを言われてもどうしようもないが。ありがたく気持ちは受け取っておこう。気にしないなんて、できるわけがないんだから。こんな言葉を貰っても、今日明日に前を向けるわけでもない。が少なくとも、私を冷静にさせるだけの力がある言葉ではある。そうか、あいつはそう考えていたのか。
なにひとつ情報が増えたわけでもないのに、なぜか熱い液体が喉元を過ぎていったあとのように思えた。彼は私に好きにしてほしいと思ったのだ。クヨクヨしていようと忘れようと、恨もうが死にたくなろうが、彼にとっては私がどうするかを全部ゆだねていて、ゆだねることすら伝えなかっただけなのだ。無責任に思えるし、そんなんで美談になるわけもないと非難してやりたい。黄泉の国に避難した馬鹿野郎と会うことも二度とないから、叶わないわけだが。くだらないプライドだ。そのうち忘れてやるから、今からでも遺言を告げてくれればいいのに。
深々となにに対してだか不明なお辞儀とともにミチルさんは駅へと向かった。私もそれに応えなにかしらのポーズをとった。陽は落ちてしまって、空には少ない星がきらめいて。ただぼんやりと、私は土手のコンクリートに身を預けて寝転がる。やや寒い。がしかし、それもまた生きている証に思えた。
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