終幕の合図はマチの絶叫
「先生、今なに見てんの?」
「銀河鉄道」
いつぞやの海岸でしたような会話だ。発話者は反対になっているけれど。
「ぼくも好きだなぁ、あれ。親と少年、その成長がテーマだよね」
ジョバンニとカムパネルラの冒険として一般に知られている宮沢賢治作品も、多少の読解力があればそれらの親の描写にかんしてもなにかしら思うところがあるだろう。ジョバンニは父親が不在の家庭で生きていて、母親のためにお使いへいく。その最中に銀河鉄道と遭遇するという流れで、ラストではカムパネルラの父親が彼の死を断定するというエピソードだ。しかもふたりは実在の人物から名前が引用されていて、元となった人物のトマーゾ・カムパネルラの幼名がジョバンニなのだから事態は複雑。
「親といえば、あんたの親とも一瞬だけ喋ったわよ。ウエストポーチ貰ったとき」
そっかー。マチも土手に座りこみ、ぼんやりと空を眺めている。
「でも喋るの苦手だったでしょ」
「苦手っていうかまあ……静かそうな人だったわね」
とはいっても顔すら見ていないからなんともいえないのだが。まあ、少なくとも陽気そうな声ではなかったし、対応のしかたもそれに違わなかった。
「普段どんな感じなの、親とは」
「べつに普通だよ」
普通。暴力的な言葉だけれど、自分に使う分には責められまい。自分が普通だと思えるくらいに、マチは自分を他者にゆだねてはいないのだ。
「その日あったことを話したり、場合によっちゃ話さないこともあったり。塾のお金も出してくれたし。愛されてると思っているよ」
そうか。ここで三点リーダーをつけるような余韻はいらない。マチがそう言い切った以上、私は納得するべきだ。マチに闇を勝手に着させていた私なのだ、マチの親御さんがどんな人かを判別するのに、自分の考えを軽々に挿むわけにもいくまい。
「先生に言うのなんて釈迦に説法だけど、銀河鉄道では親の不在が大事な要素じゃん。あのラストシーンの折り合いのつけかたが大好きなんだ」
ラストシーン。カムパネルラが死に、ジョバンニは母親から引き受けたお使いを果たすために、ミルクを持って家へと戻る場面だ。旅をしたふたりが別れて、そこから本当の少年にとっての人生が始まる。同時に、ひとりの少年が短い人生を終えていく。
「私もあそこは大好きよ」
大切なものの死を茫漠と受けとめる、美しいシークエンス。
「そこで叫ぶ主人公の姿が、車両に比べてちっぽけなことね~」
「ん? うん……」
ラストに鉄道の描写なんてあったか?
「エンディングテーマも流れるじゃん、あそこ」
「ああ、映画版ね」
「そう劇場版」
アニメ映画になった銀鉄も非常に傑作だと思うが、マチも観ているとは驚きだ。が、それにしてもラストにあらためて銀河鉄道なんて映っていたっけ……?
「……銀河鉄道の話だよな?」
「え? そうでしょ少年の旅についての話」
「そして親がいないという話」
「そう」
「旅?」
「旅」
しばし考えこむような沈黙のあと、私たちは同時に呟く。
「ジョバンニの父親不在の」
「鉄郎の母探求の」
対句みたいなやりとり。箱根ロマンスカーが多摩川を渡って新宿方面へと駆けていくまでは無言だったが、騒音がなくなった瞬間に私たちは見つめ合う。さすがに私も起き上がって、むこうも信じられないという表情でこちらを眺めている。緊迫感のあるようで徹底的にふぬけた私たちは、どちらともなく口角を上げていき、弾け飛ぶようにして笑いだす。
「どんだけ勘違いしてんだかね」
大口を開けてたいそう無様な笑い顔。マチも同じく、リンゴを丸呑みできそうなほど歯や舌を世界に公開している。私にとっては、マチと話す銀河鉄道といえば宮沢賢治しかいなかったのだが、マチは初回の授業のことなんかすっかり頭になかったらしい。すれ違ってばかり。違う人生を歩み、違う考えを持っているものを、一般に私たちは他人と呼んでいる。私にはまだ、こういう隣人がいた。それを確かめるように笑っている。東京と神奈川の境界で、それが分からなくなるような水と夜に囲まれながら。
「ねえ先生」
マチは足を抱えたまま、風に乗せるようにつぶやいた。私へ伝えたいことがあるとは思えないくらい、素朴で最初からここにあったかのような言葉だ。
「好きだから、ぼくと付き合って」
こうもまっすぐな気持ちもないだろうな。大の字から起き上がっていた私は、マチのとなりに座っている。手はそのまま地面につきながら。白黒のパンダと違って開放的なポーズだ。
「……ほかの人にさんざん話を聞いてきてね、それでも直接聞かないとどうにも納得できないから問わせてほしいんだけど」
犬の散歩なんかのすぐ下。河川敷はみんなのものだからしかたないにせよ、ムードというものがこんなにもないものだろうか。
「あんた、なんでいろんな人間と寝てんの?」
これまでわざわざ聞く必要もないと思っていたことを聞く。日常を日常でなくす行為は、ただの言語化にすぎなかった。
「……だって他人のことを知りたいって思うと、セックスしないと分からないことが大量にあるって気がついて……」
案の定な回答だ。人の行いに大きな意味があることも、現実にはそうあることじゃない。マチはそうやってきて、なんにも問題を抱えてこなかったのだ。嫌だとも思っていないし、無理強いされているわけでもない。そこへ陰りを見出して私こそ、こいつを正確に見られていなかったのだな。
「やっぱりそれはまずいことなのかな。だったらやめるよ、二度としないから。好きな人以外とセックスをしちゃいけないのなら、がんばるからさ」
「べつにそうしてほしくもないわよ」
あんたがだれと寝ていようとあんたの勝手だ。私が止められることじゃないし、己の責任でやってくれればいいじゃないか。相手に清廉潔白を押しつけるなんて、いつか自分に返ってくるフリスビーを放るようなものだ。私だって行きずりのセックスを今後一生しないだなんて約束はできない。
「じゃあなんなのさ、ねえ、お願いだから恋人になってよ。そしたら絶対に先生を元気にしてみせるから!」
「私がいつそんなことを」
そんなの求めていない。
「求めてないかどうかなんて聞いてない! なんでほかの人と違って先生はぼくのことを好きになってくれないのさ、だから欲しくなっちゃうんじゃん! ぼくのものになってくれるなら、あんたのことなんて考えなくて済むのに!」
世界からフラれたような表情で私にすがりつく。これを愛情と呼ぶのかは知らないが、ともかく私の回答は決まっている。マチはまっすぐに思いを投げた。なら私も、真正面から打ち返すべきだ。
「あんたとは付き合わない」
付き合えない、とは言わない。これは、私の意志だからだ。ほかの要因なんてないと、全力のフルスイング。
「……もしかして、ぼくの性別がいけないの……」
もがくようにこっちの胸元、服を掴んだ。泣くまではいっていないが、それでも子供みたいに私をゆする。
「んなもん関係あるわけないだろう!」
おいおい勘弁してくれよ。生まれ持った性質のせいにするな。この期に及んでそんな理由が思いついている時点で、他人のことをあんたはなんにも分かっていない。私がいつ、お前の性別について話をしたんだ。
「だったらなんの理由があるの? いろんな人間を知ってるから? ファーストキスがとうの昔に済まされてるから? レモン味じゃないなら、ぼくの唇にすら興味ないの?」
しっちゃかめっちゃかな物言いだ。マチを人間に思えないなんてこと、やっぱりないじゃないか。年相応に純朴で実直で、愚かだ。意図せず笑ってしまったのは、ムギちゃんへ慈愛を描いたあのお母さんのよう。であるといい。母親になんてなる予定はないけれど、少なくともこの瞬間だけ、ああなりたい。
「全部関係ないし、そもそも私は……」
「なにさ」
マチに教えてやればいいのだ。私はまだまだ、いなくなったあいつを忘れられないのだと。思春期に囚われていた音楽を、延々と聴きつづけてしまうほど狭い世界。場所は変われど物は同じ、郊外のコンビニのように楽曲を消費しているような人間なのだ。
同じ風景をくり返しつづけながら、まだ歩いていたいだけなのだと。
「レモンより、オレンジ派だ」
静寂。大いなる多摩川から遥かなる煤けた空へ、つき抜けるようなただのだんまり。こっちの決まった顔にを呆然と眺め、マチは古今東西あらゆる感情をめぐりにめぐり、ようやく意識を取り戻してからひとつため息。深い。さぞ肺の容量を使ったのであろう吐息だ。
「……なんか知らないけど、とにかく先生がやっぱり食い意地張っているっていうのは分かった」
伝わんないか。が、これもまた言葉というやつだな。やたらと陽気になってきた私は、そのまま若者の肩をポンと叩く。セクハラタッチだ。
「おうさ。来週にはグラコロの期間始まるから、買ってきてもらうぞ」
もちろん代金はそっち持ち。文句は言うなよ殺人未遂犯。
「……なんかいっきにバカらしくなってきた。先生となら食欲湧くし、べつにいいんだけどね……」
頭を抱えうなだれながら、意外にも慣れていない相手を前にすると食が細くなるという、ナイーブな一面の告白だ。
「フラれたあげく気持ちも踏みにじられた気分だ……」
そうかそうか、なによりだと満面の笑みを作ってやる私。マチも口では嫌がっているが、顔は正直。目元はすっかり穏やかに、明日が日曜日ということも拍車をかけているだろうかな。毎日が日曜日な、三年間の休暇を終えようとしている一八歳。
「……先生を助けられると思ったのにな」
さぞ口惜しそう。なんで私なんかを助けたいと思ったんだか知らないが、だれかを助けようとするときに、理由が伴っていることもそうもないな。
「助けたいか?」
「……うん……」
期待が宿る眼。
「じゃあ……」
手を伸ばす。こいつの身体へ自分から手を差し伸べるのも、記憶にはないくらい珍しい。指先をピンと立てて、一直線にマチの額へ。ツン、と。
「とりあえず、あんたが持ってるテキスト、今月中に一周しておいてくれると助かる」
あと二日しかないが、それくらい缶詰してくれ。
「え……?」
「そんで一二月からまた塾に来い。できるか?」
「あ……え……?」
そりゃ二週間もノー勉強じゃ話にならないし。自習の力で補ってもらわないと困るさ。辛酸舐めても受験は舐めるな。今回一番怒ってんのは、あんたが勉強を放りだしたことなのだし。
「バカになった分、取り戻してもらうよ」
「……いいの、かな。また授業みてくれるの、先生」
おずおずと、首をすぼめて視線を泳がせている。そんな遠慮、できるんなら最初からやってろや。
「まあね」
わしゃわしゃとパンダの髪の毛を撫でる。頭皮を洗うシャンプーのような動作だ。おそらくは多少痛みを覚えているのだろうが、こんくらいは我慢してもらうぞと悪戯笑顔。マチはむうと口を歪め、それでも文句ひとつ、出てこない。
「バカは結構嫌いじゃないんだ、私」
世界史だって、引き受けたのは私自身だ。最初は押しつけられたとしても、やってきたのは私なのだ。だったら最後まで面倒をみてやるというのが大人というものだ。子供が放りだした物くらい、拾っておいてきちんと埃を掃い渡してやるさ。
「さ、帰るぞ」
「うん」
すかさず立ち上がり、川岸へと走っていくマチ。なにをしてんだかと肩をすくめながら、なんとなく河川敷からその様子をうかがった。有無を言わさず振り返りもしない黒いパーカーは、四次元ポケットたるパーカーのポケットに手をつっこんだ。拳銃の身柄をわし掴んでは振りかぶり、光もろくにない無辺の黒へと金属を放った。どこかの明かりを反射したのか、空中にはピストルが描いた放物線が山なりに。弧の終着地点はゼロという水面へ。
さながらそれは墓場軌道をたどった人工衛星のよう。マチの、そして私の、ひたすらに憐れみと勘違いで進められてきた旅路は、このポイント・ネモで終わりを告げる。奇しくもここは、あの花屋の店主が死体となって打ち上げられていた場所で、白い菊が並び飾られていたところでもある。八月、夏の終わりから冬のはじまりまで、連鎖はここまで足を運んだというわけだ。
「ぅぅうぅぁあぁぁぁぁ!!!!!」
水音と暗闇、終幕の合図はマチの絶叫。
そこにどんな感情が含まれているのかは分からない。そんなあいつを、その存在をこの目で確かめた。視界の端、前髪で隠れてしまいそうな小さな対岸。そこには黒い服を着た男らしき影。細身はマチがピストルを多摩川へ投げこんだ瞬間、背中を向けて去っていく。
遠すぎて、それがだれだかは分からなかったが、私は、どことなくそいつを知っているような気がした。
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