はなせばはなすほど
パーカーの下からのぞく白い脚が、膝から折れては地面につきそうになっている。ミチルさんには身じろぎくらいはできる精神的な余裕が、刹那ながら訪れていた。
「たしかにそれは嬉しくないけどさ、先生の前髪を賭けるほどの価値が、この女にあるのかな?」
すかさず銃口を向け直す。私も一歩分は距離を詰めたが、残念ながら五十歩百歩、どんぐりの背比べな進捗だ。
「この女。先生の恋人と浮気してたんでしょ?」
胸が一段高いトーンで鳴った。ハサミを持つ手が冷えていくのは、寒さとはさして関係もない。言葉にしないでいた心の生首を、討ちとったりと見せびらかされた気がしたからだ。逃げてきた言語化を、他者は暴力的に強行する。
「だったら死んでとうぜんじゃん。てか、殺したいって思わなかったの?」
死んだ恋人とミチルさん。彼らがふたりで乗っていたバイクは、わき道から出てきたトラックに衝突、大破した。彼は咄嗟にバイクを傾け、彼女は放りだされた結果軽傷で済んだが、彼はそのままバイクと運命をともにした。それは何度も聞いた話だし、起こるかもしれないと危惧していた事故だった。問題は、彼らがどうしていっしょにいたのかという部分。
「あの人の、そしてこいつの地元にも行ったよ。みんな口をそろえて言ってた。幼馴染で仲がよくて、付き合っているんじゃないかって噂になってたって」
吐き捨てるようだ。
「なのによく先生に手を出したもんだよ。あげく家に押しかけてくるなんて、ぼくよりもずうずうしいったらないね」
そうね。まったくだ。
「遺言、ていうか最期の言葉だって酷いもんじゃないか。自分の仕事道具を幼馴染に託す。でも先生に遺したかったメッセージもなかったそうだね。もとからそういう了解が取れていたんなら文句も言わないけど、先生があんなに苦しんでいたんだから、ぼくは許せなかった」
そう。彼は私になんの言葉も与えてはくれなかった。ミチルさんには、今わの際でルミエールタイプ1311を使ってくれないかとお願いをしたというのに、センター・オブ・ジ・アースの座席にいまだ残った私への遺言は皆無だったそう。マチの観察はある程度は正しいし、よく調べていたんだと思う。よくぞそこまで、必死になってくれたものだ。
「……マチ、私はこの二週間、あんたの〝友人〟たちと会った」
けれど、決定的な勘違いをしている。
さあ、不本意ながら反撃の時間といこう。
「そこで気がついたのは、あんたが想像以上に底抜けな明るさと好奇心を持っていたということ。私はね、あんたがもっと苦しんでいたり、暗く重いものを抱えているんじゃないかって、勝手に思っていた」
病理的なものを、マチに仮託していたのかもしれない。自分のなかのよどみを外部へ吐きだしたかったから。マチという人間と私という人間の属性を混ぜるようにして、そこに調和を見出そうとしていた。
「でも真相は、あんたが病理的なまでになにかを知ろうとしたり、あらゆる人に平等を与えていただけだった」
私も、勘違いをしていた。
「本当のことなんて、そうやってあっけなく自分の予測や期待がすっぽ抜けていくものなのよ。自身が期待しているような他人は、きっとこの世界にはいないのね……」
マチにちゃんと、はっきりと告げておく。
「ミチルさんと彼は、浮気なんてしていなかったよ」
そうか、マチにはそこまで喋っていなかったんだな。あまりにも自明なことで、言葉にしてこなかっただけなのだ。考える必要もなかったし、終わったことだったから。もっとも、なにをもって浮気と呼ぶかなんてことは人それぞれなのだろうし、実際にふたりが親密な関係になっていたことは否定できなかった。それでも、あいつが私のことよりもミチルさんのことを大切にしているという結論に、私はいたることができなかったのだ。
「は……? そんなこと、だってそりゃ浮気をしているって今さら証言する人もいなかったけど、同じ夢をもって上京して、職場までいっしょで、帰るときはうしろに乗っけてって、先生のところに帰るのも遅れて……」
そうね。私も忘れかけていたあの生活のリズムが、まさかマチに再現されるとは。懐かしい。まだ一年しか経っていないなんて信じられない。まだ彼と過ごした時間のほうが、死んでからよりもずっと長いだなんて。
「私もそう思ったよ」
少し、手が震える。
「だから探した。全部探した」
ひとりで塞ぎこんだあの冬の日々。記憶が圧縮されすぎて、一日のように感じられた。受験も近かったのに、本当に申しわけなかったな。今年のようにふたりの大学受験生を抱えているわけでもなかったけど。
「彼の私物を全部ひっくり返して、スマートフォンのメッセージのやりとりも、アプリごとに隅々まで調べて……。部屋も、ぐちゃぐちゃになるまで。探して探して、探しつづけた。あいつが死んでいいやつだって思える理由を」
力が入らなくなって、ハサミが床に落ちる。歪む前の視界で、マチの目を見る。あいつも迷いで揺れている。憐れみが消えた顔。
「そりゃ浮気しているのかどうかなんて直接聞く勇気もなかったから、とにかくなにか私の知らなかった真実があるんじゃないかって。このさいだからあの女でなくてもいいから、別のやつと会ってたんじゃないかって調べたり、店まで行ってそれとなく店長さんにつじつまが合うかどうか質問をしてみたり……でも全部あてが外れた。可能性を全部潰した。あいつが私を裏切っていて、だからあいつは死んだんだって思いたかった」
憎みたかった。怒りたかった。そうやって燃え上がるような感情を振り下ろすことができたのなら、じきに疲れ切って終わることもできただろうに。彼の葬式でもお義母さんには感謝しかされなかった。お世話になりましたと……。そんなことは一ミリだって望んじゃいなかったのに。もっとのけもののような扱いを受けることができれば、私への同情や優しさなんてものがなければ、悲劇のヒロインでいられたのにな。
「そんなはずないよ。だってそんな、じゃあなんであの人は死んだんだよ」
マチも珍しく顔を紅くしている。確信があったのだろう。自分の足を使って集めた情報を、きちんと整理して実行したはずなのに、まさか私から計画のずさんさを指摘されるとは想像もしていなかったのだ。
「あいつが死んだのはただの偶然」
「なんで悪者がいないんだよ」
「知らねえよ!」
自分を抱きしめていないと壊れてしまいそうだ。思いだしたくない、もう考えるのをやめたい。なんで忘れさせてくれないんだ。苦しい。
「あいつが死んで私は生きてる。理由なんてないんだ、だから苦しんだ。あいつが死ななきゃいけないやつだって思うためなら、私はなんだってできたのに……!」
背中が丸まって、タイルの床しか目に映らない。窓から射しこむ光も、太陽の存在が希薄になる。
「もう一度会いたいよ……」
水滴がこぼれる。子供のようにダダをこねてしまう。しかたがないのだ。だれだって悲しくなると、子供のころの自分が蘇ってしまうものだ。ひとつを許せばあまた落ちていく雫たち。多摩川と比べればなんと小さいのだろう。それでも、ちっぽけな世界でも、私にとってはやっと訪れた悲しみなのだ。張り裂けんばかりに胸が痛くて、正常な動作を忘れるくらいに手が震えて、暑くて、口からわけの分からない嗚咽だけがまき散らされて。マスクもしていないから、ふたりも嫌な顔をしているのだろうか。泣き喚くとどれくらいの飛沫が飛ぶのか、検証している人はいるのだろうか。死んだ恋人への思いを、その喪失に蓋をしたように、私の愁嘆にも不織布を重ね抑えこむしかないのだろうか。教えてほしい。湧きでる涙の泉を、涸らしてしまえる方法を。
ねえ、私はどうしたらいいのかな?
「もう一度抱きしめてもらえるのなら、二度と会えなくていいのに……」
匂いを嗅ぎたい。いっしょにご飯を食べたい。並んで歩きたい。くだらないことで喧嘩をしたい。絵を見てもらいたい。上手になったかなって聞きたい。空を眺めたい。仕事の愚痴を聞いてほしい。撫でてほしい。ケーキを買ってあげたい。飽きるまでセックスをしたい。放置してきた髪の毛を切ってもらいたい。くだらないギャグを混ぜて、話がしたい。何度も、話せば話すだけつまらなくなってほしい。
けれど哀願が叶うことなく、あいつの面影も声もしぐさも、日々の生活から少しずつ忘れられていく。あんなにいっぱいだった思い出も、中身はどんどんスカスカになってしまう。記憶の距離が離れるたび消えていく。詰まっていた感情、風景、そのすべて。
「……私が前に進めないのは、まだあいつが好きだからだよ……」
本当に、離せば離すほど詰まらなくなる恋人だ。
膝が折れる。埃にまみれる。
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